102.香坂達也の来訪
「千寿さん、香坂先輩に今日のこと話したりした?」
頭が痛いのかこめかみに指を当てぐりぐりと回しながら千寿を見る律。
千寿はふるふると首を横に振るが、すぐに「ただ……」と続けた。
「矢吹さんに取り次いで欲しいと頼まれた時に、近いうちに会うかもしれないとは言いましたわね。ですがいつ会うのかも何をするのかも一切教えてませんわよ」
その言葉に大きなため息を吐く律。
「はあ……あんた、多分最初からあいつにつけられてたんだよ」
「何ですって!?」
「あんたが今日に限って人目を避けながら下校したから何かあると感づいたんでしょーよ」
「で、ですがそのような気配なんて全く……」
「自分の姿や気配を消すことなんてあいつの魔法練度なら簡単だよ」
なるほど。普段はマスコミに付き纏われても周りの視線にさらされても堂々としているのに、今日はオレたちを巻き込まないよう逃げて来たから逆に怪しくなっちまったってことか。
どうやらマスコミやパパラッチは撒けても前世の力を持つ相手からは逃げきれなかったらしい。
「それにしては……千寿さんがここに来てから連絡が来るまで随分時間がかかってるな」
「何してるか確認してたんじゃない? ……これ見てよ」
腕組みをしながら考え込む蓮水先輩に、矢吹先輩はいつの間にか手の上に乗せていた蜘蛛を見せる。もう嫌というほど見た、あの蜘蛛だ。
だが先輩の腕に乗ったソレは、オレの良く知る先輩の蜘蛛とは少し違っていた。
シミ一つない珊瑚のような宝石で出来た深紅の身体には、焼き付いたように黒い文様が浮かんでいる。よくよく眺めると、その文様はヒトの耳のような形をしていた。
「これ……」
「盗聴の魔法陣だよ」
ああ、だから耳の形をしてるのか。滅茶苦茶分かりやすい。
「おまけにこのコ、図書館の外の見張りをさせてたはずなのに操られてずっとここにいたみたい」
「操られて……ってことは」
ゴクリと唾を呑み込んだオレに、矢吹先輩は「そのコーサカって人、とっくにあたしたちもここにいることに気づいてるよ」と蜘蛛を睨みつけ、すぐに指から出した糸で蜘蛛を真っ二つに切り裂いてしまった。
紅い煙を出して魔法陣ごと消えていく蜘蛛を見つめながら、悔し気に顔を歪ませる。
「してやられた。こんなあからさまにやられて気がつかないなんて」
「お前が出し抜かれるなんて珍しいじゃないか、侑里」
「あたしも舐めてたみたい。前世の人間が魔力の扱いと応用に優れてることも、前世と違って人間の魔法がバッチリ効くようになってるのも分かってたはずなのにさー」
まさか矢吹先輩が見落とすなんて、と思ったが相手側も魔法のスペシャリストだもんな……。
魔晶族の身体は魔法抵抗がすこぶる高いと前に聞いたことがあるが、今世はそうではない。人間の身体に転生して弱体化している。だが人間から人間に転生したサーシス王国側はほぼそのまんまだろう。
多分今の盗聴の魔法も前世だったら効かなかったんだろうが――
「きっと話のキリがついたから電話かけてきたんだよー、タイミングが良すぎるもん」
矢吹先輩はそう続けぷうと頬を膨らませている。
「どうするー? 真っ直ぐこっちに向かって来てるけど」
「追い返す」
「で、でもとっくにバレてますし、別に追い返さなくたって」
無表情で椅子から立ち上がる律に八千代が困惑した顔でそう言うが、彼の意思は固いようだ。
鋭い目つきで会議室を見回し――ある一点で止まる。
視線の先――部屋の隅に置いてあったのは学校とかによくある灰色の縦長いロッカー。
ちょうど人一人くらいなら入れそうなサイズだ。
瞬間、律は矢吹先輩の腕を掴みそこに向かってずんずんと歩き出した。
「ちょ、ちょっとりっくん!?」
「すいません、ここに隠れてて。あいつを帰すまで絶ッ対に出てこないでください」
ワケが分からないといったように狼狽える矢吹先輩をロッカーに押し込む。
そして座っていた席まで戻った瞬間、部屋の外から大きな足音が聞こえて来た。
間違いない。この足音は――
そして勢い良く扉が開かれ、一つの巨体が踊るように飛び込んできた。
「ごっ機嫌麗しゅう~!!」
「……っ!!」
あまりの声の大きさに、全員が反射的に両手を耳に当てていた。
それでも鼓膜がビリビリと震えているのを感じる。久々に声を聞いたが、やっぱりうるさい。
「静かにしてよ、ここ図書館なんだけど」
心底迷惑そうに毒づく律に、相手は「悪ぃ悪ぃ」と全く悪びれも無い顔をしてソフトモヒカンにした頭をボリボリと掻く。
すると、八千代が入って来た男に向かって恐る恐る声をかけた。
「え、ええと、貴方が」
相手の巨体と声量に多少なりとも威圧されているのか、若干顔が引きつっている。
だがそれでも自ら声をかけるようになったのは以前では考えられなかったことだ。以前だったら委縮してすぐに誰かの背中に隠れていただろう。
「アンタ……まさか、ルミベルナ女王か?」
声をかけられた相手――香坂先輩は少しの間じっと八千代を見ていたが、八千代の前世に思い至ったのかそう訊ねる。
それにコクリと頷いて「今世は三縁八千代です」と続けると、
「ああ! アンタが例の三縁の妹か! 全然似てねえな!」
二カッと快活な笑みを見せた。
オレと八千代が全く似てないのは重々承知なんだが、こうハッキリ言われると地味に刺さるんだよな……。
「結局アンタらとは前世で一度も会えなかったから、正真正銘のハジメマシテだな!
さっきご紹介いただいた通り、前世はサーシス軍第三軍隊隊長のダグラス・アスター! そして~、今世は明迅学園三年の香坂達也でぇ~っす! よろしくぅ!」
今先輩に向けられている視線は大小あれどどれも警戒が混じったものだ。先輩も間違いなく分かっているだろうに、おふざけ半分で挨拶する態度はこの空気にあまりにも似合わない。
良くも悪くも空気を読めない――否、敢えて読んでないと思われるその振る舞いはオレの知る先輩のままだ。
だが、その見た目は記憶よりもかなり派手になっていた。
元々先輩は百八十センチ越えの高身長で、ラグビー部で鍛え上げたガッシリとした体格だ。
同じような体格には夜久先輩もいるが、夜久先輩は一切着崩してない制服やすっきりとした黒髪の短髪、話し方から硬派な印象だった。
だが今の香坂先輩は前世の力が戻った影響か髪の色はパキッとした赤紫、瞳の色は朱に変わっており、明迅の制服もかなり着崩している。態度も相まってガテン系のチャラ男というか……悪く言えばウェイ系にしか見えない。
そんな香坂先輩への律の態度は冷ややかだった。
「なんで来たの」
「オイオイ、惚けんのは止めとけよ。いるんだろ?」
冷たく問う律に香坂先輩はニヤリと笑って一歩律に近づく。
「アイリーンの転生者……イヤ、こう言った方がいいのか? アンタのねーちゃん兼元カノの女だよ」
瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
比喩ではない。
室温が急激に低下し、肌を刺す冷気と口から出る白い息に思わず両腕を抱え込んで身震いする。
何だこれは。ワケも分からず周りを見回し二人に視線を戻すと、律の身体からわずかにドライアイスのような白い煙のようなものが出ているのに気がついた。
まさかこの現象は律が……? コイツこんなことも出来るのか……?
オレに背を向けているから律の表情は分からない。だが、どんな顔をしているかなんて容易に想像がつく。だがその表情を見た香坂先輩は涼しい顔をしていた。
「感情を魔力でお漏らしすんのはアンタの悪いクセだぜ」
「冷やかしならさっさと帰って」
「そうツンケンすんじゃねえよ。まずアンタはオレに感謝をしなくちゃいけねえんだぜ」
「……何言ってんの」
「紫藤がこの話を広めようとすんのを誰が止めたと思ってやがる」
その言葉に律の身体から冷気が消える。八千代たちもぽかんとした顔になっていた。もちろんオレもそうだ。
少しの間を置いて、信じられないといったように律が口を開く。
「あんたが止めてたの」
「おうよ。『鬼崎妹を助けるのを諦めたくなかったらこれ以上魔晶族側を敵に回すような行為は止めとけ』ってな」
「? どういう……」
「アイリーンの転生者と会わせてくれなきゃ言えねえなあ」
律と矢吹先輩の関係が広まっていなかった理由は分かったが、さらに別の謎が増えた。
『鬼崎妹を助けるのを諦めたくなかったら』……? 何だか色々と含みを持っていそうな言い方だ。
「そもそもなんで会いたいわけ?」
「そんなの決まってんだろ!」
本題とも言える問いに対し、途端にぐいっと身を乗り出す香坂先輩。
「魔晶族の中でもアイリーンといやあ、サーシスにも名が轟くほどの魔法の使い手だぜ!? 前からずっと魔法に付いて語り合ってみてえと思ってたんだよ!
前世じゃ色々あったしあまり刺激はしねえ方がいいと思ってんたが、アンタらが魔晶族側の転生者に接触したって聞いて我慢出来なくなっちまった!」
そう話す先輩の顔は、少年のようにキラキラと輝いている。
「しかもアンタにかけられてた禁呪にも詳しいときた! ノエル・ラクール式呪術……だったか? 是非ともその呪術についてご教授願いてえんだ!」
……まさか先輩に部活と筋肉以外で興味を持つものが出来るとは。
どうやら魔晶族の中でも特に魔法練度の高かったアイリーン……の転生者である矢吹先輩と個人的に交流を深めたいのと、鬼崎が律にかけていた呪いについて詳しく聞きたいらしい。
前世が魔法の研究者だったから興味を持つのも理解出来るんだが、禁呪にされるくらいヤバい代物らしいし無暗にホイホイと教えてもいいのか……?
同じことを思ったのか、八千代が疑いを持った目で香坂先輩を見つめた。
「呪術のことを知ってどうするんですか? まさか悪用して変なことしようとしてるんじゃ……」
「するかっ! 軽率に手出しすりゃ自滅すんわあんなヤベェ呪い!」
だが先輩は即座にクワッと目を見開いて否定する。
ビクッと体を跳ねさせて「は、はあ」とぎこちなく頷いた八千代に、先輩はフンッと鼻を鳴らして得意げに胸を叩いた。
「オレは単にアレが生まれた経緯諸々が知りたいだけだ! 誓って悪用はしねえ!」
そう続ける姿は何も後ろめたいことはありませんと言わんばかりに堂々としていた。
少しの間沈黙が流れる。緊迫した空気の中意を決したように口を開いたのは蓮水先輩だった。
「樫山、いいんじゃないか? この人は純粋に侑里と魔法について話したいだけに見えるぞ」
「わ、私にも……この人が危害を加えてくるようには見えないです」
つられるように八千代も頷く。どうやら二人が先輩に感じたものは同じだったようだ。
オレも二人の意見には概ね同意で、別に顔を合わせて話をするくらい問題ないんじゃないかと思う。仮に香坂先輩が何か良からぬことを考えていたとしても、矢吹先輩がそれを看過するとも思えない。さっきは出し抜かれたみたいだが、相手の実力が分かった以上もう油断はしないだろう。
ただ気になるのは、今も頑なにそれを許さない律の存在だ。
このまま追い返すハズが全く逆の流れになりつつある空気に、明らかに身体が強張っている。そんな律を見た香坂先輩は不審そうに眉を寄せて「おい樫山」と腕を組んだ。
「アンタ、何を焦ってる?」
「……っ」
「アンタらしくねえじゃねえかよ、オレが会ったらマズいことでもあんのか」
そう続ける香坂先輩は、本当にワケが分からないといったような顔をしていた。
それでもただ自分を睨み続ける相手に「理由があんならハッキリ言え」と続けると、たっぷりの間を置いて渋々といったように口を開く。
「アンタは信用出来ない」
「そりゃあ出来ねえだろうな」
その理由はさっき律が矢吹先輩に言ったものと同じであったが、意外にも香坂先輩はあっさりとそれを受け入れた。そして何かピンと来たのか「ははん、なるほど」と納得したように声を漏らす。
「つまりはもうオレを自分の家族とは関わらせたくねえってか」
「分かってるじゃん」
……? もう……?
よく分からねーがこの二人、前世で何かあったのか?
ちらりと他の面子を見たが、三人とも律と香坂先輩を見ながら頭の上に『?』マークを浮かべている。うーむ、少なくともこの三人には何も分からないようだ。矢吹先輩は……前世が魔晶族なのに分かるわけないか。
「アンタなあ……前世と同一視されて今の状況になってんのに、なんで同じことを自分もするのかねえ」
理由を知った香坂先輩は呆れた顔をしていた。
だが香坂先輩の言うことにも一理ある。
糸杉千景の例外はあったが、基本的に前世と今を同一視するのは違うと思っている。律だって全然気にしていないように振る舞っているけれども、前世でしたことを生まれ変わった後もずっと言われ続けているのは嫌なハズだ。なのに今、それと同じことをして先輩を拒絶している。
一体どうして……それほど二人の間で起きたことは強烈なことだったのか?
「言い分は分かった」
沈黙の中、香坂先輩は静かに口を開いた。
「分かったんならさっさと――」
「悪ぃな、やっぱ好奇心が収まんねえ。あの巨大蜘蛛が今どんな姿になってんのか気になってしょうがねえや」
すぐさま律が帰りを促すが、言い終える前に先輩は首を横に振る。分かりやすくイラッとした顔になった律に香坂先輩は腕を組んで「うーん」と何やら考える仕草をした。
「確か……『鬼崎妹と同じ目に遭う覚悟があるやつだけが、樫山律に手を出せ』だったか?」
何だその台詞は……と思ったが、矢吹先輩が明迅学園の面子に脅しをかけてたんだった。
つーかなんで今それを口に出す。すごく嫌な予感がするんだが。
「な、何をするつもりですか!?」
「ここは公共施設ですわよ!?」
同じことを思ったのか、八千代と千寿が慌てて席から立ち上がる。
「いやあ、ここまで来れば後はもう実力行使しかねえだろ」
「……!」
パンパンと手を叩きながらそう言ってニヤリと笑う香坂先輩。
クソッ、やっぱりコイツ、わざと律に手を出して矢吹先輩を引きずり出そうとしてやがる。律に手を出したらアイリーンが黙っていない、という脅しを逆手に取って来やがった……!
「ふざけないでよ……! 自分が何しようとしてるか分かってんの……!」
「ああ、これでアイリーンの転生者に何か知らねえ呪いをかけられるかもしれねえが構わねえぜ。それを研究してみんのも面白そうだしな!」
ヤベーよ、無敵モードじゃねーか。
律の声にも全く動じず、呑気にそんなことを言っている。そして右手を律に向けると、そこから赤紫色の火花が散った。
「止めてください!」
「八千代!」
八千代が止めようと香坂先輩の元へ向かって行くのを慌てて止める。いくら八千代でも今の香坂先輩に近づくのは危険すぎる。隣では千寿が「くっ、ここじゃ茨が出せませんわ……!」と何やらワケの分からないことを呟いており、蓮水先輩も手だけは前に出しているが魔法を放ってよいものか迷っているようだった。ここは市立図書館の会議室だ。あまりにも場所が悪過ぎる。
すると先輩が来てから一度もこちらを見なかった律がようやくこちらを振り向く。
「ごめん、おれの都合に巻き込んで。こんなことするために集まったわけじゃないのにさ」
申し訳なさそうに笑って、また香坂先輩の方を見た。
「先輩、そっちがその気ならおれだって容赦しないよ」
「リツ!?」
「樫山さん!? 駄目ですよ!」
オイ、なんでお前までやる気になってんだよ!?
ここで騒ぎになったら……!
オレや八千代の制止を聞かず、律は冷気を纏った左手を横に伸ばした。
「王下す……」
「ダメだよ」
一瞬だった。
瞬きをする暇もなく、いつのまにかどこからか現れた十を超える蜘蛛が、律と香坂先輩の両方を糸で縛り上げていた。
律の顔は見えない。
香坂先輩は一瞬だけ虚を突かれたように目を瞬かせ――そして、ニイと悪い笑みを浮かべた。
ガタンと物音がして、香坂先輩の背後にあるロッカー開かれる。
「ちょっと勘弁してよー、こんな場所で騒ぎ起こされちゃ言い逃れ出来ないじゃん」
金髪の長い髪を後ろに流しながら堂々と出てきた矢吹先輩に慌てたのは律だ。
「センパイ! 隠れててって言ったじゃないですか……!」
「ごめんね。りっくんの気持ちも分かるけど、今はもっとやるべきことがあるでしょ? 少なくとも小競り合いを起こして図書館出禁になることじゃないと思うんだよねー」
「……っ」
「おーおーさすがはアイリーンの転生者様! ちゃあんと状況を理解していらっしゃる!」
二人のやり取りに、糸で縛られたまま緊張感無く笑い出す香坂先輩。そんな彼に背後にいる矢吹先輩はすぅと目を細め、腰に手を当てて言い放った。
「そんなにあたしの姿が気になるなら好きなだけ見なよ」
「センパイ!」
律が切羽詰まったような声を上げるが、香坂先輩は既に振り返り始めていた。
「ではではお言葉に甘えて! 早速そのご尊顔を拝見させてもらいましょ……う、か……」
だが先輩の声は、最後まで紡がれることはなかった。
固まってしまった青白い横顔を見る。その目は驚愕に見開かれ、パクパクと水を求める魚のように口が動いていた。
まるで、この世に存在しないモノを見てしまったかのような、そんな顔をしていた。
打って変わって様子の変わった先輩に矢吹先輩も「ん?」と首を傾げている。オレたちも不思議そうに顔を見合わせていたが――
ただ一人、律だけは縛られた体をわずかに震わせていた。
「アナベル、さま」
しばらくの沈黙の後。
香坂先輩は呼吸の方法を忘れていたかようにひゅう、と喉を鳴らし、矢吹先輩をそう呼んだのだった。