40.テネブライとの心理戦-1
気づくと、見慣れた小屋の中にいた。目の前には、私の手に巻かれた紐を必死にほどこうとするお母様がいる。
自分の体を見ると、誘拐された時に着ていた服と同じものを身につけていた。体も一回り小さくなっている。
もう一度やり直したいと、今まで幾度となく願ってきた“あの時”に戻ってくることができたのだと思った。今の私だったら、お母様を助けられる自信があった。
お母様は私が目覚めたことに気づくと、涙ぐんだ。鼻をすすりながら、私の手を縛っていた紐をほどいてくれた。
お母様は私の耳元に口を近づけると小さな声で言う。
「小屋に人のいない今がチャンスよ。レティシアだけ逃げなさい」
「分かった、すぐに助けを呼んでくるからね」
私はお母様と同じくらい小さな声で返した。
「いい子ね」
お母様は潤んだ目を細くして笑うと、私を力いっぱい抱きしめた。お母様はこれが最後のハグになるかもしれないと思っているようだったが、私はこの別れを最後にする気はない。
「行きなさい」
お母様は小屋の出口に向かって、私をぽんと優しく押した。
戸から外に出ると、銀色の羽をした小さな鳥が窓から小屋の中をのぞきながら、ぱたぱた羽を動かしていた。
「ここは危険よ。私と一緒に逃げましょう」
と言うと、私は小鳥を手で持った。小鳥は、羽を激しく動かして抵抗してくる。私は小鳥に大丈夫、大丈夫と声をかけながら、街を目指して走った。
誘拐犯の二人に見つかる前に森を抜けるようと、私はとにかく急いだ。
森での土地勘がまったくなかった頃の当時とは違う。
お父様に一人で出かけることを許してもらえるようになってからは、森には毎日のように剣の稽古に来た。森の中を隅々まで探検し、今では自分の庭だと言えるほど道を熟知している。誘拐犯たちと追いかけっこになっても、逃げきる自信はあった。
街へ向かって走っていると、男二人が遠くの方から歩いてくるのが見えた。当時、私を捕らえたのと同じ男たちだった。私は息を殺して草むらに隠れ、男たちが過ぎ去るのを待った。男たちは私には気付かず、そのまま小屋へ向かって歩いて行った。
これは逃げきれるに違いない、と思った。心臓がばくばくとうるさい。手は小刻みに震えた。
しかし結局、もうすぐ森を抜けられるというところで、誘拐犯の男たちに見つかってしまった。男たちは一度小屋に戻ったあと、私がいないことに気づき、すぐに探しに来たようだった。
必死に走ったが、男たちの足は予想以上に速く、すぐに追いつかれてしまった。
「あなただけでも逃げなさい」
私は手に抱いていた小鳥を離してやった。小鳥は私を気にすることもなく、ぱたぱたと羽を動かして逃げて行く。
私は覚悟を決めて、男たちと向き合う。もし男たちが邪気にやられているのだとしたら、触ることで浄化できるのではないかと思った。
男たちに向かって走り、私は二人のうち一人の男を両手で触る。
「お嬢ちゃん、自分から突っ込んでくるなんてバカだなぁ、ぎゃはははは!」
男は大声で下品に笑うと、私の服の襟首をつかんだ。私の抵抗はまったく効かなかった。
服の襟首をつかまれたまま、私は小屋に連れ戻される。
小屋に入ると、血を流したお母様が倒れていた。
「お母様……!」
私は急いでお母様を抱き起こすが、お母様はすでに息をしていなかった。実際にお母様が死んでしまったところを初めて見て、私は何も考えられなくなった。
お母様の隣には、見覚えのない男が立っていた。誘拐犯は二人ではなく、もう一人いたようだ。
「お前の母ちゃんは、お前を逃がしたせいで俺に殺されちまったよ。まぁ、遅かれ早かれこの女は殺す予定だったがな」
三人の男たちは、お母様と私を見ながらいやらしく笑った。
「次はお前の番だ」
お母様を殺したと言った男が、私に血のついたナイフを向けてくる。
「上に確認したら、お前の眼さえあればいいんだと。ガキ連れて動くのもめんどくせぇし、お前はここまでだ。じゃあな」
後ろから他の男に押さえられ、身動きがとれない。ナイフはそのまま、私のお腹に向かってやってきた。目の前が真っ暗になった。
気づくと、目の前にはお母様がいた。私の手に巻かれた紐を必死にほどこうとしていた。お母様は私が目覚めたことに気づくと、涙ぐんだ。鼻をすすりながら、私の手を縛っていた紐をほどいてくれた。
お母様は私の耳元に口を近づけると小さな声で言う。
「小屋に人のいない今がチャンスよ。レティシアだけ逃げなさい」
私は気を取り直して、今度こそお母様を助けようと思った。
「嫌だ、逃げるならお母様も一緒」
私はお母様に泣きつく。お母様が何と言おうと無理やりにでも連れ出さなくては、お母様が殺されてしまう。
「お母様はレティシアさえ無事ならそれでいいの。いい子だから、お母様の言うことを聞いてちょうだい」
お母様は大粒の涙を流しながら、私を説得しようとした。
「私一人でなんか逃げない、お母様も一緒に逃げよう。大丈夫よ、逃げられるわ」
先ほどは失敗したが、実際には逃げきることができているのだ。うまくいけば、お母様と二人で逃げることができるだろうと思った。
私はお母様を縛っている紐をほどこうと、手を伸ばす。
「うるせぇな、何事だ?」
お母様を殺した男が、小屋の戸を蹴り開けて入ってきた。誘拐犯の男がこんなにも早く小屋に入ってくるなんて予想しておらず、私は驚きが隠せなかった。私が気づかなかっただけで、目の前の男はどうやら小屋の近くに待機していたようだ。
「レティシア、いいから早く逃げなさい」
縄で縛られているにも関わらず、お母様は誘拐犯に全身でぶつかり、私が逃げる時間をかせごうとした。しかし、お母様はすぐに男に頭を殴られ、床にうずくまる。
「レティシア、早く!」
血を流しながらも、お母様は何度も男に向かって行く。
今やっているように、命がけでお母様が目の前の男を足止めしてくれたから、現実世界で私は逃げきることができたのだろうか。目の前の男がすぐに私を追いかけてきていたら、逃げきることは難しかっただろう。
「お母様、もういいよ……。やめてよ」
私はただ泣きながら、お母様が殴られるのを見ていることしかできなかった。
「上と連絡が取れました」
二人の男が小屋に戻ってきた。
「なんて言ってた?」
「紫色の眼さえ入手できたら、あとは俺たちに任せるそうです」
三人の男たちは、目を合わせると笑い始めた。
私はお母様のそばに行くと、「大丈夫?」と声をかけながら、怪我をしている部分をさする。
そんな私に対して、お母様は悲しそうな顔で
「レティシア、お願いだから逃げてちょうだい……」
と何度もつぶやくのだった。お母様の声はかすれていて、弱々しかった。
「親子仲良く一緒に殺してやるよ。お嬢ちゃん、怖くないように目でもつぶっていたらどうだ?」
男たちは笑いながらナイフを振りかざしてきた。
お母様は私を強く抱きしめる。お母様の悲鳴が聞こえた。
そして目の前がまた真っ暗になった。
今回はお母様が殺される瞬間をこの目で見ることになった。
気づくと、目の前にはお母様がいた。私の手に巻かれた紐を必死にほどこうとしていた。また同じ場面だ。
たまたま運が悪かっただけかと思い、私は同じ場面を何度も繰り返した。
一人で逃げる時に違う道を選んでみたり、お母様に一人で逃げるよう説得してみたり、毎回少しずつ違う方法を試してみたが、全部だめだった。何度繰り返しても、お母様と私は殺される。
銀色の羽の小鳥が私のことを助けてくれたのは、現実世界での一回のみだった。何度も同じ場面を繰り返したが、お兄様が私を助けてくれることは一度もなかった。
気のすむまで同じ場面を繰り返し、私はようやく、今の自分でさえお母様を救うことができないのだと悟った。
目の前のお母様が私に逃げろと懇願するなか、私は泣き崩れた。これ以上同じ場面を繰り返しても無駄だ。どう頑張っても、結果は同じなのだから。




