プロローグ1 破れた約束
神陽歴七一二年、エメデス帝国。
賑やかな都心から離れた森林の中、身なりの整った若い男女が互いに手を取り合って歩いていた。
「エヴラール」
会話の内容が聞こえない程度の距離で控える護衛を一瞥してから、侯爵令嬢オレリア・ド・エルディーが連れの男性の名を呼んだ。
オレリアの手を取って先を歩いていたエヴラールはその声につられて足を止め、声の主へと振り返る。
柔く細められた彼の緑の瞳が、オレリアの淡い水色の髪と金の瞳を映す。
「どうかしたか?」
精巧な顔立ちは時として近寄りがたさや威圧を与えるものだというが、エヴラールもその類の、非常に端正な容姿をしていた。
公爵家の嫡男という非常に高貴な出自らしい、落ち着いた、品のある振る舞いをする彼は分かりやすく表情を変える正確でもない為に、社交界でもどこか人を寄せ付けないような印象を抱かれやすかった。
だが、そんな社交界で纏う雰囲気とは異なり、今の彼の表情は酷く甘く、柔らかなものであった。
婚約者であり恋仲でもあるオレリア。
彼女への好意に関して呑み言及するのであれば、彼は非常にわかりやすい男だった。
美しい顔が、ただ一人の女性を愛でる為に微笑んでいる。
その熱い眼差しを受けたオレリアは頬を淡い赤色に染め、照れ臭そうにはにかんだ。
それから彼女は一度繋いでいた手を解き、服のポケットから贈り物用に包まれた小さな箱を取り出す。
「誕生日おめでとう」
二人の誕生日は近い。
この日がエヴラールの十八歳の誕生日、そしてその三週間後がオレリアの十七歳の誕生日だ。
歳を重ねた当人も、婚約者から祝われる事はある程度想像がついていただろうに、それでもエヴラールは心底幸せそうに笑みを深めた。
「ありがとう。……開けてみてもいいか?」
「勿論」
リボンや包み紙を丁寧に剥がし、露わとなった箱の蓋を丁寧に開ける。
小箱の中に収まっていたのは、澄んだ青色の宝石のネックレスだった。
銀色の装飾の中心に嵌められた宝石は昼下がりの日の光を反射して、海のように輝いている。
エヴラールは驚いたように目を瞬かせてそのアクセサリーのモチーフとなった花の名を呟いた。
「……クアムルーメ」
海上で漂うように咲く、珍しい花――クアムルーメ。
初めて出会った場所に飾られていた絵画に描かれていた花であり、二人にとっては深い意味を秘めた花だ。
縁起の良い花として特別な贈り物に選ばれるほか、クアムルーメを模したアクセサリーをお守り代わりに身に付ける事も流行っている。
花言葉は「おおらかな心」、「あなたを守る」、「永遠の愛」など。
「思い出深い花だし、お守り代わりにもなると思って……」
そう語るオレリアだったが、ふと、おかしそうに吹き出すエヴラールの姿に気付き、言葉を切った。
「……えっ、な、何か変な事言った?」
「っふ、いいや、全く」
くすくすと上品に笑うエヴラールは気持ちが落ち着いてきたところで深く息を吐き、愛おしそうにネックレスへ視線を落とした。
「……考える事は同じだな」
「え?」
「オレリア」
聞き返す声には言葉を返さず、エヴラールは代わりに婚約者の名を呼ぶ。
金髪の下、エメラルドのような瞳がオレリアだけを見つめている。
「君の誕生日だが、もう少し遠くへ旅行に行かないか」
「う、うん。勿論、構わないけど」
オレリアは元々、誕生日近辺は開けておいて欲しいとエヴラールに頼まれていた。
故に彼の提案には何の不都合もなく、あっさりと頷く。
とはいえ、突然の話題の転換に少しだけ驚き、その発言の意図を推し量ろうと彼の様子を観察する。
するとエヴラールはどこか意味深長に口角を持ち上げてみせた。
「クアムルーメの群生地に行ってみないか」
オレリアはその言葉を聞いて漸く、彼が突然笑い出した理由に行き当たる。
彼もまた、クアムルーメを絡めて婚約者の誕生日を祝おうとしていたのだろう。
恐らくは前々から計画していたのだろう遠出の予定を明かされ、オレリアは遅れて小さく吹き出した。
「変な所で考えが似ているんだから。……行ってみたいわ」
答えは勿論イエス。
オレリアの言葉を聞いたエヴラールは頷きを返した。
「遠出の手配はこちらでしておくから、気にしないでくれ。それと」
会話の最中、これまで穏やかに微笑んでいたエヴラールが真剣な面持ちになる。
深刻さは感じられないが、どこか緊張したような空気を彼は纏っていた。
「――伝えたい事がある」
その言葉の真意に、オレリアはいち早く気付いた。
二人は既に成人済み。貴族の結婚適齢期でもある。
つまりは……そういう事だろうと。
不意をつかれて動きを止める彼女が何か言葉を返せるようになるよりも先、エヴラールが話を続ける。
「特別な事だから、特別な場所で言いたいんだ。だから、話すのは三週間後になるが……」
「わ……わかった」
オレリアが何とか短く言葉を返せるようになった頃。
彼女の顔はトマトのように真っ赤に染まっていた。
それに気付いたエヴラールもまた、つられるように顔を紅潮させる。
何ともむず痒いような空気が二人の間に漂った。
初め、二人はぎこちない動きで互いに目を逸らし、口を噤んでいた。
しかし気恥ずかしさから生まれた沈黙は時が経てば経つ程、二人に居たたまれなさを植え付けていく。
それに先に耐えきれなくなったのはオレリアだった。
「……ね、ネックレス!」
気にしていない素振りで明るい声を上げようとしたオレリアだったが、残念ながらその声は綺麗に裏返ってしまう。
恥ずかしさに拍車が掛かったオレリアは更に早口で捲し立てた。
「せ、折角だからつけてみない?」
「あ、ああ」
「私、つけてもいい?」
「勿論」
エヴラールはぎこちない動きでネックレスをオレリアに預ける。
それから、彼女がネックレスをつけやすいようにと屈んでみせた。
オレリアはそんな彼の首に丁寧にアクセサリーを着ける。
必然的に正面から抱き着くような姿勢になった二人は、未だ赤らんだ顔のまま至近距離から見つめ合う。
「オレリア」
エヴラールは胸元で輝くクアムルーメのネックレスを撫でてから、甘えるようにオレリアの肩口に頭を摺り寄せた。
「愛してる」
オレリアの耳元で、そう呟かれる。
短くも熱烈な告白に、早なる鼓動を抱えながら、オレリアは動揺を誤魔化すように茶化してみせた。
「それ、もう言っているようなものじゃないの?」
「何のことやら」
都合の悪い話に白を切る婚約者の反応に、また吹き出してしまいながら、オレリアはエヴラールの背に腕を回す。
エヴラールもまたそれに応えるようにオレリアを腕の中に閉じ込め、二人は互いに身を寄せたまま幸せを噛み締めるのだった。
この時から数日後までの二人はまだ、この幸せが当たり前のように続いていくものだと信じていた。
数日後――エヴラールが命を落とすまでは。




