#019 『朝靄のブルーと温もりのブラック』
高校生の頃、冬の朝のロータリーがなぜか好きでした。
冬の朝は、夏の朝と違ってとても静謐な雰囲気を感じます。なんかあの静まり返っている感じが、大人になった今でも好きです。
冷たい朝靄の中で交わされる、不器用な父と娘のほんの数分間の再会。
缶コーヒーの微かな温もりと、冷たい風の感触をともに味わっていただければ幸いです。
『朝靄のブルーと温もりのブラック』
息を吐くたびに、白く濃い靄が夜明け前の冷たい空気に溶けていく。
三月の朝の風は、まだカミソリのように鋭く、むき出しの頬を容赦なく削いでいった。遠くで、国道を走る大型トラックの低いエンジン音が地鳴りのように響いている。
高瀬誠は、駅前のロータリーにある薄暗いベンチに腰を下ろした。安全靴の底で霜の降りたアスファルトを踏みしめると、ジャリッという乾いた音が足の裏から骨へと伝わってくる。
手には、いましがたコンビニで買ってきたばかりの朝食があった。いつもと同じ、無骨な黒いスチール缶のコーヒーと、透明なフィルムに包まれた丸いあんパンだ。
手袋を外し、悴んで感覚の鈍った指先でプルタブに爪を引っ掛ける。
プシュッという小気味よい炭酸の抜けるような音とともに、深煎りのロースト香がフワリと立ち昇った。少し焦げたような安っぽい、けれどひどく落ち着く香りが、ツンと冷え切った鼻腔に入り込んでくる。
誠は一口、それを喉に流し込んだ。
舌の奥にへばりつくような人工的な甘みと、その後にくる舌がざらつくほどの強い苦味。熱い液体が食道を通って胃の腑に落ちていくのを感じながら、彼は小さく息をついた。
カイロ代わりに缶を両手で包み込むと、ジンジンと痺れるような熱がひび割れた掌の皮膚から伝わってくる。
ふと、視界の端に鮮やかな色が飛び込んできた。
灰色のコンクリートと、まだ太陽が昇りきらない青鈍色の景色の中で、それだけが異彩を放っていた。
ブルーチェックのスカート。
駅の改札へと続く階段の下。風よけのガラス張りの待合スペースの前に、一人の女子高生が立っていた。紺色の指定のピーコートの裾から、規則正しい青と水色のタータンチェックが覗いている。冷たい風に煽られ、そのスカートのプリーツが波を打つように揺れた。
誠は缶コーヒーを握る手に思わず力を込めた。ベコッと薄いスチールが頼りない音を立てる。
見間違えるはずがなかった。
そのブルーチェックは、国内有数の進学校である高等学校の制服だ。そして、そこに通うのは、五年前から離れて暮らしている誠の娘、咲だった。
別れた妻から「志望校に受かった」と、真新しいその制服を着た写真がLINEで一枚だけ送られてきたのは、去年の春のことだ。画面越しにしか知らなかったその鮮やかな青を、誠はいま、自分の目で見ていた。
こんな朝早くから、どうして。
誠の頭の中に疑問が浮かぶ。だがそれよりも先に、足が勝手に動いていた。
声をかけるべきか。気づかないふりをして立ち去るべきか。
迷う思考とは裏腹に、安全靴の重い足音は静かなロータリーに響き、彼女の背中へと近づいていく。
「……咲?」
掠れた、自分でも驚くほど情けない声が出た。
ビクッと肩を震わせ、ブルーチェックのスカートが翻る。
振り向いた少女は、間違いなく咲だった。記憶の中にある、ランドセルを背負って笑っていたあどけない顔の輪郭は削ぎ落とされていた。冷たい外気に晒されて少し赤くなった頬と、母親譲りの切れ長で意志の強そうな瞳が、そこにあった。
「……お父さん?」
咲の声は冬の空気のように澄んでいて、そして少しだけ硬かった。
「ああ。こんな朝早くから、どうしたんだ。学校にはまだ早すぎるだろ」
誠は作業着のポケットに両手を突っ込みながら、努めて平坦な声を出そうとした。だが、手の中の缶コーヒーの熱が、自分の動揺を誤魔化すのを邪魔している。
「……部活の朝練。今日は大会の準備があるから、一番乗りで行かなきゃいけないの。電車の時間まで、ここで待ってただけ」
「そうか」
会話が途切れる。遠くで、始発列車がレールを軋ませる鋭い金属音が聞こえた。
「寒くないのか」
「寒いよ。でも、待合室のヒーター、まだ入ってないし」
咲はそう言って、両手をマフラーの襟元にギュッと押し当てた。その小さな手が、霜焼けなのか赤く染まっているのが見えた。
誠は視線を落とし、自分が持っていたコンビニのレジ袋を見た。そして、ゆっくりとベンチを指差した。
「電車が来るまで、座らないか」
咲は少し躊躇ったが、やがて小さく頷き、誠から少し距離を置いてベンチの端に腰掛けた。プリーツスカートがベンチの木板に擦れる微かな音がする。
誠はレジ袋をごそごそと探り、中から透明なフィルムに包まれたあんパンを取り出した。
「これ、食うか」
誠が差し出すと、咲は目を丸くした。
「あんパン?」
「ああ。腹減ってないかと思ってな。俺の朝飯の予備だけど、まだ手はつけてない」
咲は誠の顔とあんパンを交互に見つめ、やがてゆっくりと手を伸ばした。
「……ありがとう」
シャカシャカと静かな朝の空気にフィルムを破る音が響く。ふわりと、イースト菌の発酵した甘酸っぱい匂いと、焼き上げられたパン生地の香ばしい匂いが漂った。咲が小さく一口かじる。表面のケシの実がパラリとこぼれた。
「美味しいか?」
「うん……甘い」
咲が咀嚼する音を聞きながら、誠の胸の奥にチクリと痛みが走った。
かつて家族三人で暮らしていた頃、休日の朝はいつも近所のパン屋に行っていた。咲は決まって、出来立てで温かい、こしあんの詰まったあんパンを選んだ。
『お父さん、はんぶんこね!』
そう言って、まだ温かいパンを小さな手でちぎり、満面の笑みで差し出してくれたあの日のぬくもり。指先にこびりついた、ベタつくような餡の甘い匂い。
いま、彼女が口にしているのは、大量生産された冷たくてパサパサのコンビニパンだ。それでも彼女は、「美味しい」と言ってくれた。
「お父さんは、それ?」
咲の視線が、誠の握りしめている黒い缶コーヒーに向けられた。
「あ、ああ。俺はいつものこれだ」
「それ、苦くないの? 昔からずっとそれ飲んでるよね」
「苦いさ。でも、この苦味と、人工的な甘みがちょうどいいんだよ。目が覚めるからな」
誠がそう言うと、咲はしばらく缶の表面に浮かぶ水滴を見つめていた。そして、不意に口を開いた。
「……一口、飲んでみてもいい?」
誠は驚いて咲を見た。
「コーヒーをか? お前、ブラックはおろか、カフェオレでも苦いって言ってただろ」
「それは昔の話。もう高校生だもん」
少し意地を張るような、挑発するような口調。誠は小さく息を吐き、飲み口の縁をぐるりとティッシュで丁寧に拭ってから、咲に向かって缶を差し出した。
「火傷するなよ」
咲は両手で大切そうに缶を受け取った。冷え切っていた彼女の指先に、缶の熱が移っていくのがわかる。咲はそっと唇を近づけ、少しだけ缶を傾けた。
「……うっ」
途端に彼女の顔が歪んだ。
「だから言ったろ、苦いって」
「苦い……それに、変な甘さが後から来る。泥水に砂糖を溶かしたみたい」
辛辣な感想に、誠は思わず吹き出してしまった。
「泥水ってなんだ、泥水って。これでも現場の職人には大人気なんだぞ」
誠が笑うと、釣られたように咲の口元もふっと緩んだ。三年間という空白の時間が、ほんの少しだけ縮まった気がした。
「……お父さん」
缶コーヒーを誠に返しながら、咲がぽつりと言った。その声のトーンが、一段低くなった。
「お母さんね、今度、再婚するかもしれない」
ドクンと誠の心臓が大きく跳ねた。
冷たい風が二人の間を吹き抜け、咲のスカートを激しく揺さぶる。誠は手の中の缶コーヒーを強く握り直した。さっきまであんなに熱かったはずの缶が、急に冷え切ってしまったように感じた。
「……そうか」
絞り出すように出た言葉は、自分でも嫌になるほど無感情に聞こえた。
「相手は市役所の人。すごく優しくて、お母さんのことも大事にしてくれてる。……私のことも、ちゃんと娘として見ようと努力してくれてるのがわかる」
咲は手元に残った半分だけのあんパンを見つめていた。
「でもね、私、どうしてもまだ『お父さん』って呼べなくて。その人が作ってくれる朝ご飯、すごく美味しいんだけど……なんだか、味がしないみたいに感じちゃう時があるの。ごめんなさいって思いながら、食べてる」
咲の声が震えていた。彼女の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ、首に巻かれたマフラーにシミを作った。
誠はどうすればいいのかわからなかった。
娘を抱きしめる権利は、もう自分にはない。気の利いた言葉をかけるような器用さも持ち合わせていない。自分が仕事にかまけ、家庭を顧みなかったから、彼女にこんな思いをさせているのだ。
それでも、なにかを伝えなければならない。
誠は作業着のポケットから新しい軍手を取り出し、そっと咲の膝の上に置いた。
「……無理に呼ぶ必要なんてないさ」
誠の声は自分でも驚くほど穏やかだった。
「味がしないなら、無理して食べなくていい。でもな、腹が減ってちゃ戦えないぞ。そんな時は、いつでもコンビニであんパンを買えばいい。泥水みたいなコーヒーでもいい。自分が一番落ち着くものを腹に入れれば、少しは歩き出せる」
誠は、手の中の缶コーヒーをもう一度グッと呷った。完全に冷めきった液体は、ただただ苦く、そしてひどく甘ったるかった。そのちぐはぐな味が、いまの自分の人生そのもののように思えた。
「その制服、咲によく似合ってるよ。その青いスカート、すごくいい」
誠が言うと、咲は涙を拭い、自分のスカートの裾を少しだけ握りしめた。
「うん……お母さんが奮発して買ってくれたから」
「そうか。大切にな。……あいつも、おまえのことを一番に考えてるはずだ」
カンカンカンカンと踏切の警報音が朝の空気を切り裂くように鳴り響いた。始発列車の到着を告げるアナウンスがロータリーに響き渡る。
「……行かなきゃ」
咲は立ち上がり、膝の上の軍手を誠に返そうとした。
「それは持っていけ。待合室まで、少しは手の防寒になるだろ」
誠が言うと、咲は少しだけはにかんで、軍手を両手でぎゅっと握りしめた。
「ありがとう、お父さん」
「ああ。部活、頑張れよ」
咲は背を向け、改札へと続く階段を駆け上がっていった。朝の光が少しずつ強くなり、彼女のブルーチェックのスカートが、まるで夜明けの空の色に溶け込んでいくように鮮やかに揺れた。
誠はベンチに座ったまま、その姿が見えなくなるまで見送った。
空になったスチール缶を振ると、微かに残ったコーヒーの冷たい音が鳴る。指先には、まだ微かに缶のぬくもりと、あんパンを渡した時の感触が残っていた。
冷たい風が再び頬を叩いたが、先ほどまでの芯から凍えるような寒さはもう感じなかった。
誠はゆっくりと立ち上がり、空き缶をゴミ箱に放り込む。
「さて、仕事に行くか」
独り言は、靄となって白く宙に舞い、そして消えた。
安全靴で踏みしめるアスファルトの音は、さっきよりも少しだけ力強く、夜明けの街へと響いた。




