第3話 傀儡の幼帝
――リンゼン帝国 帝都セント・レグナス 皇帝廟謁見室――
「皇帝陛下、軍勢は順調に終結しており、間もなく十万に達する見込みです」
イストリアは一切の感情を見せぬ表情のまま、無言でただ頷きました。
「敵の兵力は?」
物言わぬイストリアに代わり、大臣が口を挟みます。
「三万程度かと」
その報告を聞き、宰相と政務大臣を兼ねるアルベルト・ヨハン・ローゼンベルクの口元には冷たい笑みが浮かびました。
「はん! その程度の兵力、我が十万の軍にかかれば塵も残さず蹴散らせようぞ!」
既に勝ったと確信して上機嫌に息巻く大臣とは対照的に、イストリアの表情は晴れません。
「ローゼンベルク、そのように鷹揚に構えていても良いのか。我が軍の兵士の練度はどうなのだ」
「ご心配には及びませぬとも。我が軍の誇る将軍たちがしっかりと鍛えております。陛下はその至尊の座にて戦勝の報告をお待ちくださればよいのです」
「しかしハワード王国の兵士たちは精鋭揃いと聞く。対して我が軍は新兵が大半だと報告を受けているぞ」
「将には歴戦の強者が揃っております。彼らに任せておけばすぐに立派な兵士に育て上げてくれるでしょう。そうなれば三万ごとき少数兵力、容易く打ち破ることが出来ましょう」
いくら言ってもすでに勝った気でいる大臣の笑みは崩れません。
イストリアは小さく息を吐くと、そのまま静かに目を伏せてしまいました。
(お兄様たちが生きていらしたら……)
若くしてこの世を去ってしまった二人の兄。彼らはイストリアの事をとても可愛がってくれた心優しい兄でした。その一方でとても勇猛な将としても知られており、皇帝の器として帝国民の誰もが認める、妹であるイストリアから見ても立派な人物でした。
(それに引き換え、わたしときたら……ただ玉座に座っているだけ)
大臣が進めるまま始まりつつある今回の戦争を、自分の不甲斐なさが原因であると自責の念に沈んでいました。
生前、兄達が言っていた言葉が脳裏に蘇ります。
「我が帝国軍はその数だけは多いが、練度に関しては心許ない。長年続いた平和に慣れ、緩み切っている。各地で騒乱が起きても、相手は農民だというのに苦戦ばかりしているのがその証左だ。帝国の西方を失ったのもこうなっては必然。私が皇帝になった暁には若い人材を積極的に将軍へ登用し、帝国軍を精強な軍隊へと立て直してみせるぞ」
今この軍議の席で大臣が歴戦の将と呼ぶのは、すでに旬を過ぎた過去の栄光にすがりつく老将ばかり。上は老兵、下は新兵ばかりという現状は軍事の知識が浅いイストリアでさえ不安を覚えるのですが、圧倒的な兵力差に絶対的優位を感じている重臣たちにはその声も届きません。
(三倍強の兵力差。だけど質に関しては……。世間では『太陽の剣王』とまで呼ばれているカイゼル王にそれだけで勝てるの?)
カイゼルに直接会ったことはありませんが、並ぶもののない剣技と勇猛果敢さであっという間に大陸西方を鎮圧してしまった勇名は、帝国全土に轟いていました。
(強敵なのは分かっているはず。しっかり準備を整えてから攻め込むことも出来るのに、どうして大臣はそこまで焦るのかしら)
まだ幼いイストリアにはローゼンベルクの本心までは分かりません。
彼が自身の経歴に不足している戦勝将軍という称号を今回の戦いで獲得し、イストリアを皇帝から廃して亡き者にしようとしていることなど、彼女は露ほども知りません。実権なき皇帝は戦争の行く末を想ってひじ掛けを強く握りしめるのみです。
(きっとたくさんの兵士が死んでしまう。帝国の大切な臣民たちの命が。大臣たちは兵力を数字でしか見ていない。十万の大軍と簡単に言うけれど……)
城の窓からは大勢の市民が忙しく往来を行き来しており、そこには確かに生活の、人々の生きる姿があります。
笑う物、働く者、子供を抱く母親。
これら一人一人の人生が、十万人分集まって軍勢が出来ているのです。
彼女はそのことに思いを馳せずにはいられません。
(今度の戦で命を落とすものの中には、あそこに集まっている人達や、野菜を眺めているあの人のご子息なども含まれているかもしれない。戦いで大切な人を失った時、残された家族はどういった気持ちでこの城を見上げるのだろう)
皇帝としては優しすぎるほどの心を持ったイストリア。
しかし事はすでに大きなうねりとなって動き始めています。軍勢の終結も完了し、ここまで進んでしまった時流を止めることは誰にもできません。
無力感に苛まれ、誰にも省みられぬまま悲しみを募らせるイストリアは、力なく玉座に背を預けるしかありませんでした。
「兄様……」
小さくつぶやいたイストリアの言葉は、浮かれ切った重臣たちの声にかき消され、誰の耳にも届くことはありません。
沈んだ表情の皇帝を余所に、楽観的な会話を大きな声で語る将軍たち。この戦争に臨んで構成されたいびつな権力構造の縮図がここにはあります。
だけどその中に一人だけ、この馬鹿げた騒ぎに交わらず、腕を組んで厳しい顔で座っている人物がいました。
末席に座る唯一の若き青年将校。彼は苦々しい表情で周囲を見ています。
(愚か者どもめ……)
彼はこの戦が楽に終わるとは考えていません。
彼我の戦力差は数だけで割り切れるほど単純なものではないのです。
そして玉座に視線を向けた時、俯く幼帝の姿が目に留まりました。
(心を痛めておられるな)
為政者としては時に弱点ともなるほどの優しさを持ったイストリアの事を、彼だけは理解していました。
彼は席を立ち、玉座の元へと歩み寄ると、常に比べてもより小さく見える現皇帝に声をかけました。
「陛下、お顔色が優れないようですが、少し外の風をお浴びになられてはいかがでしょう」
「……そう、させてもらうわ」
うやうやしく差し出された手は思いのほか温かく、少しだけ笑顔になったイストリアは玉座から立ち上がるのでした。




