第40話「不穏な兆し ―夢が呼ぶ名―」
秋の入口だった。
朝の光はまだ弱く、薄い霧が畑と林のあいだへやわらかく沈んでいる。夜露を含んだ土は冷えたままで、踏むと靴底の下で静かに湿り気を返した。風は強くない。けれど、その弱い風にすら、季節が少しだけ進んだ気配が混じっている。
ちゃたろ〜は、寝起きのサナの額へ手を置いた。
熱を測るための手つきは、もうずいぶん自然になっていた。砦で覚えたのは傷の見方や血の止め方だけではない。呼吸の浅さ、皮膚の温度、返ってくる力の有無。そういう些細な違和感を、身体のほうが先に覚えている。
体温は平熱だった。
だが、触れている掌に返ってくる感覚が妙だった。
熱はない。なのに、ぬるくもない。
まるで、冷えた井戸水へ手を沈めているような感覚だけが、皮膚の表面ではなく、その奥からじわりと返ってくる。
「……熱はない。でも冷たいな。内側が、って感じ」
サナはすぐには反応しなかった。
瞬きの回数が少ない。
目の焦点が、ひと呼吸ぶん遅れて追いついてくる。
呼びかければこちらを見るが、視線が定まるまでにわずかな間がある。
いつもより、言葉が遠い。
息も薄い。
まるで胸の奥へ沈んでいく水みたいだった。
その時だった。
サナの瞳の奥に、淡い光の輪が一度だけ走った。
反射ではない。
窓から差し込んだ朝光とも違う。
一瞬だけ、瞳の底で魔力が揺れたのだ。
しかもその波形は、人が普段まとっている魔力の色とは明らかに違っていた。もっと細く、もっと透明で、それでいてどこか底の見えない揺らぎ方だった。
「……記録します。対象A、魔力波形に微弱な異常」
部屋の隅で控えていたヴィリスが、いつもの抑揚の少ない声でそう告げた。
平静な響きだった。
だが、紙を削るペン先だけがわずかに速い。
観察者の声は静かなままでも、手だけは真実に先に反応する。
その小さな差を、ちゃたろ〜は見逃さなかった。
胸の奥が少し重くなる。
それを押し戻すように、彼はひとつ深く息を吐いた。
────────────────────
午前。
ちゃたろ〜は村のギルド支部へ向かった。
屋敷から村までの道は、王都のようにきれいに整いすぎてはいない。踏み固められた土の道の両側には、畑と低い石垣と、時おり干し草の山が見える。遠くで鶏が鳴き、どこかの家から鍋の蓋が鳴る音がした。そういう生活の音が、風の中へ自然に混ざっている。
ギルド支部の石壁は擦り減り、看板は日に焼けて角が丸くなっていた。
王都のような威圧はない。
魔封印もなければ、高い窓から見下ろされるような視線もない。
ただ、人が暮らす場の匂いがあった。
「いらっしゃい。あんたが噂のちゃたろ〜君か」
窓口の女性は四十代くらいだった。
髪は後ろでひとつにまとめられ、袖は実務の邪魔にならないところまできっちり捲られている。声には張りがあり、表情には忙しさがある。それでも、先に来るのは評価ではなく挨拶だった。
王都の窓口では、まず見られる。
ここでは、まず声をかけられる。
その違いが、今のちゃたろ〜には思っていたより大きかった。
「軽めの依頼、あります?」
「あるよ。空き家修繕、井戸の蓋直し、あとは薪棚の補修。地味だけど、どれも大事」
「それでいい」
「それがいい、って顔してるね」
女性は少しだけ笑い、依頼札を差し出してきた。
ちゃたろ〜は木材を担ぎ、広場へ向かった。
そこには戦闘の匂いはない。
剣も魔獣の爪痕もない。
代わりにあるのは、木槌の音だった。
釘を打つ音。
軋んだ板を外す音。
木屑が足元へ落ちる音。
そういう平和な仕事の音だ。
空き家の扉を外し、歪んだ蝶番を打ち直す。
井戸の蓋を外して腐りかけた部分を削り、補強材を足す。
手のひらに返ってくるのは、牙の衝撃ではなく木の重さだった。
昼過ぎ。
木片を片づけていると、後ろから声をかけられた。
「……サナちゃん、元気?」
振り向くと、昨日、小花を持ってきた少女の母親が立っていた。
その笑みは少し照れていて、少し誇らしげだった。
何か大層なことをしたつもりではない。
けれど、自分の娘が誰かと繋がれたことを、きっと嬉しく思っている顔だった。
「うちの子、サナちゃんのことずっと話してたの。また行きたいって」
ちゃたろ〜は、その言葉を聞いてほんの少し肩の力が抜けるのを感じた。
「そうか……ありがとう。それ、きっとサナも喜ぶ」
「言葉はまだ少ないんでしょう?」
「少ない。でも、ちゃんと受け取ってる」
女性はゆっくり頷いた。
事情を全部知っているわけではないのだろう。それでも、深入りせずにそうなのねと受け止める距離が、今はありがたかった。
仕事を終え、支部を出る。
秋の陽は高すぎず、村全体をやわらかく照らしていた。
子どもたちが広場の端で追いかけっこをしている。その中に、昨日の少女の姿もあった。彼女はちゃたろ〜に気づくと、はにかむように帽子を胸へ抱きしめ、小さく会釈する。
ただそれだけだった。
けれど、その小さなやり取りだけで、今日という日が少し報われた気がした。
────────────────────
夕暮れ。
帰宅してすぐ、ヴィリスがサナの着替えを手伝っていた時だった。
「……ちゃたろ〜さん。こちらをご覧ください」
その声には、珍しく曖昧さがなかった。
観察者の報告というより、事実をすぐ共有すべきだと判断した声だった。
呼ばれて部屋へ入ると、サナは少しだけ不安そうにこちらを見上げていた。
ヴィリスはそっと外套をずらし、肩甲骨の下を示す。
そこに、かすかな光があった。
模様、と呼ぶにはまだ定まりきっていない。
線は細く、肌の上に浮いているというより、皮膚のすぐ下で淡く息づいているように見える。幾何学模様の断片が、定着しかけては揺らぎ、揺らいではまた形を結びかける。
消えもせず、
確定もせず、
呼吸みたいに微かに動いていた。
「……刻印の前兆か」
ちゃたろ〜が低く言う。
ヴィリスは短く頷いた。
「兆しです。魔力が固定化すれば、消せなくなる可能性があります。原因の特定は困難。死の砦での接触か、内部資質か、環境誘発か」
言葉は整っている。
だが、最後のあたりでペン先が一度だけ紙の上を迷うように滑った。
記録欄を探しあぐねる、そのほんの一瞬のためらい。
それだけで十分だった。
答えはまだない。
そして、ないまま放置するには危うい。
サナは、自分の背に何が起きているのか正確には分かっていないのだろう。
ただ、二人の空気が少し変わったことだけを感じ取って、胸元のペンダントへ無意識に指を伸ばした。
────────────────────
夜。
軒先に並んで座ると、風が稲の香りを運んできた。
遠くの畑が実りへ向かっていることを、その匂いが教えてくれる。昼の熱を失った土の上を、冷えた空気が静かに流れていく。
ちゃたろ〜は、今日あったことを短く話した。
村のギルドのこと。
壊れた扉のこと。
井戸の蓋を直したこと。
昨日、小花をくれた少女の母親に会ったこと。
大げさには語らない。
ひとつひとつは小さな出来事だ。
でも、そういう小さな現実を持ち帰ることが、今の家には必要だった。
サナは、黙って聞いていた。
顔は前を向いたまま。
けれど、耳はちゃんとこちらへ向いている。
話の流れのどこかで、胸元のペンダントへ触れる指先が少しだけ止まった。
それから、不意に言葉が落ちた。
「……また、畑……いってもいい……?」
ちゃたろ〜は、思わず息を吸った。
昨日より少し長い言葉。
自分の希望を含んだ問い。
それはただの発話ではなく、明日へ手を伸ばす意志だった。
「ああ、もちろん」
できるだけすぐに返す。
「にんじんも待ってる」
サナはこくりと頷いた。
指先がペンダントへ触れる。
小さな祈りみたいな動きだった。
過去へ縋るためではなく、
それを持ったまま生きるための仕草に見えた。
────────────────────
深夜。
屋根裏で、ヴィリスは報告書を前にしていた。
《対象A:魔力刻印前兆。経過観察必要。優先度 中。》
そこまで書き、署名の手前でペン先が止まる。
もしこれを正式報告すれば、本部はすぐに動くだろう。
観察では済まない。
検査が入る。
監視が強まり、場合によっては隔離に近い扱いも起こり得る。
そうなれば、サナの未来はサナ自身のものではなくなる。
少なくとも、今のような静かな暮らしは終わる。
ヴィリスは紙面を見たまま、しばらく動かなかった。
その時だった。
下の部屋から、細い声が聞こえた。
眠っているサナの声だった。
夢の中の、こちらへ向けられていない声。
「……フィーネ……」
ヴィリスの指が止まる。
下の階では、ちゃたろ〜もたぶん同じように凍りついているはずだった。
サナは、その名を覚えているとは思えなかった。
教えていない。
話していない。
死の砦で消えた少女の名を、この家の誰も彼女へ渡していない。
それなのに、呼んだ。
次の瞬間、ペンダントが青白い光を脈打った。
強くはない。
だが、たしかに脈打っている。
呼吸に合わせるように、細く、冷たい光が胸元から漏れる。
部屋の影が、ほんのわずかに震えた。
夢の中で、サナは何かに触れている。
呼ばれているのか、追っているのか、それはまだ分からない。
だが、これはただの寝言ではない。
ヴィリスは、机の上の報告書へ視線を落とした。
封をするべきだった。
今すぐ、本部へ回すべき情報かもしれない。
そうすれば責任は果たせる。
少なくとも、形式の上では。
けれど。
彼女は、静かにペンを置いた。
報告書は封じられないまま、机の上に残される。
夜は何も答えない。
ただ、家の中に静かに深まっていく。
その沈黙の中で、誰もまだ知らなかった。
この名が、夢の中だけでは終わらないかもしれないことを。




