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第92話《監封者の接触》

 角ある青年悪魔は、ちゃたろ〜の答えを聞くと、ふっと口元をゆるめた。


「……奇妙な答えだ。だが、嫌いじゃない」


 その声音には嘲りがなかった。

 面白がってはいる。だが、軽んじてもいない。むしろ、値踏みしたうえで一段だけ興味を深めたような響きだった。


 そして彼は、一歩だけ後ろへ退いた。

 退き方が、撤退ではない。

 場を譲る動きだった。


 主役の位置から外れ、自分より適した者へ処理を渡す。

 その自然さが、かえってこの場の序列を見せていた。


 青年は片手を上げ、指先で空をなぞる。

 たったそれだけで、空気が薄くなった。


 風が止んだわけではない。

 音が消えたわけでもない。

 だが、周囲の密度だけが一段変わり、場そのものが“次の存在を迎える形”へと組み替わる。


「では、“監封者”を呼ぼう」


 赤い瞳が、わずかに細まる。


「君を扱うのは、私の仕事ではない」


 その瞬間、空間が震えた。


 音ではない。

 地面が揺れたわけでもない。

 空間そのものが、ごく薄く、微細に波打ったのだ。


 ちゃたろ〜は盾の角度を一度だけ変えた。

 息を吸い、吐く。

 肺に入ってくる空気が、冷たく、重い。


(……来る)


 気配だけで分かる。

 格が違う。


 ケルベロスのときとは違った。

 あれは門番だった。強大ではあっても、役割ははっきりしていた。


 だが、これは違う。

 ――“管理”だ。


 腰のポーチに収めた魔核が、じわりと熱を帯びる。

 熱が上がるほど、周囲が静かになっていく。


(俺の侵入が、完全に把握された)


 速い。

 対応が、速すぎる。


 しかも迎撃ではない。

 迎撃なら、もっと荒い。もっと分かりやすく殺しに来る。


(……拘束だ)


 周囲の悪魔たちは、いつの間にか距離を取っていた。

 近づこうとする者がいない。


 恐れているのだ。


 ここでは、恐れは感情ではなく序列だった。

 近づかないのは怯えではない。

 踏み込んではいけない場所を知っている者の引き方だ。


 闇の奥が、ゆっくりと立ち上がるように歪んだ。

 地の底から浮かび上がるように、ひとつの影が現れる。


 靴音はない。

 だが、足取りは確かに“踏んでいる”。


 踏んでいるのに音がしない。

 それが、いちばん嫌な種類の存在だった。


 世界の上を歩くのではなく、世界の規則のほうを自分に合わせている者の歩き方だ。


 現れたのは、ひとりの女だった。


 黒い法衣。

 胸元から腰へ、淡く光る封印紋の刺繍がまっすぐ線のように落ちている。厳格な意匠のはずなのに、その下の造りは妙に大胆で、脚元は深く開かれていた。白磁のような太腿に、ガーターベルトの金具がわずかに覗く。


 禁欲と露出。

 規律と誘惑。

 相反するものが、矛盾せず同じ場所に収まっている。


 光に濡れたような漆黒の髪。

 長く流れる尾。

 額から後ろへ流れる、小ぶりな角。


 そして瞳。

 冷静で、理知的だった。


 だがその理知には、“人”の温度がない。


 ちゃたろ〜は直感した。


(女……いや――監封者)


 彼女は、落ち着いた声で言った。


「ごきげんよう、結界を越えし“ヒト”」


 抑揚がどこか不自然だった。

 感情の波で言葉が動いているのではない。文章の区切りに合わせて、喉が機械的に働いているような響きだ。


「侵入記録に照らし、貴殿の行為は“監査対象”に該当します」


 ちゃたろ〜は眉をひそめた。


「監査、ね。……俺は遺跡を調べてただけだ」


「異界干渉による結界越境は、遺跡踏査の範疇を逸脱しています」


「言い方が堅いな」


 すると彼女は、ほんのわずかに首を傾げた。


「本に、そう記されていました」


 ――本。


 その一言で、ちゃたろ〜は確信する。

 この女は、言葉を“使う”のではない。

 言葉を“運用”している。


 運用する者は、躊躇しない。

 躊躇しない者は、壊すのが速い。


 背後の闇が、ふたつ剥がれた。


 一体は、骨の鎧をまとった犬型魔獣。

 骨と骨の継ぎ目に封印紋が走り、肉体というより“封印を動かすための器”のように見える。


 もう一体は、半透明の羽根を持つ異形。

 輪郭が薄い。

 薄いものは当たりにくい。


 監封者は二体を従えたまま、淡々と告げた。


「抵抗は――非推奨です」


 そこまで言って、彼女は一度だけ目を細めた。


「……あ、違います」

「“おやめになった方がよろしい”、でした」


 言い直し。

 そのこと自体が不気味だった。


 言葉を選び直す余裕がある。

 余裕があるということは、相手がすでに勝ち筋を複数持っているということだ。


 監封者は小さく笑った。

 温かさのない笑みだった。


「不適切表現。訂正完了。──初期対応、開始します」


 足元に、赤黒い光が走った。

 封印紋が、ちゃたろ〜の足元へ浮かび上がる。


 “場”を作られた。


 ちゃたろ〜は即座に盾を一段下げる。

 構えを低くする。


 高く構えれば、受けは強い。

 だが、足が死ぬ。


 低くすれば動ける。動ければ、閉じる前に抜けられる。


 監封者が、まるで書面を読み上げるような声で告げた。


「《召喚:獄獣クロウヴァ》」


 骨鎧の犬型魔獣が、地を裂くように飛び出した。

 吠える。


 その吠えは威嚇ではない。

 合図だ。


 ちゃたろ〜は息を吐きながら唱えた。


「《プロテクトウォール》」


 金色の壁が、斜めに立つ。

 正面ではない。


 止める壁ではない。

 流す壁だ。


 クロウヴァが突っ込んだ。

 鉤爪が壁を削る。

 削れた欠片が火花のように散る。


 その直後、上から冷たい圧が落ちてきた。


「《召喚:幻獣アレンヴィル》」


 魔力の雨が降る。


 細い。

 狙いが定まっている。


(当てる気だ)


(逃がす気はない)


 ちゃたろ〜はクロウヴァの突進を利用した。

 衝撃を横へ流し、一歩だけずらす。


 魔弾が、直前までいた場所を貫いた。


 髪の先が焼ける。

 頬に熱が走る。


 だが、止まらない。


「《ホーリーボール》」


 光球がクロウヴァに突き刺さる。

 一瞬の遅れ。


 ネルはすぐに重ねる。


「《バインド・フィールド》」


 地面が編まれる。


(読んでる)


 踏み込みを切り返す。

 結界が空振る。


(……今だ)


「《エンドオブフェイス》」


 赤い鎖が空を裂く。

 アレンヴィルの核を砕く。


 空が軽くなる。


 クロウヴァが再び跳ぶ。


 距離を潰す。

 密着。


「頭に――どーん」


 骨がきしむ。

 崩れる。


 静寂。


 ちゃたろ〜は盾を前に残したままネルを見る。


「……次は、あんたか?」


 ネルは首を振る。


「いえ。初期試験は完了です」


「拘束処置は――次段階へ移行します」


 足元の封印紋が、消えない。

 むしろ濃くなる。


 場が、締まっていく。


 空気の逃げ道が少しずつ塞がれ、立っているだけで“選べる手”が削られていく感覚がある。


 ちゃたろ〜は盾を構え直した。


 構え直す動作で、恐怖を整理する。

 恐怖は消えない。

 だから順番に並べる。


 相手の格。

 場の支配。

 封印。

 拘束。

 そして、自分がまだ生きていること。


(……まだ終わってない)


 ネルの瞳が、ますます冷静に、ますます妖しく光っていた。


 彼女にとって、今の戦いはまだ挨拶にすぎない。

 獣を出し、場を試し、抵抗の型を見ただけだ。


 拘束は、ここからだった。

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