表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
105/128

8章 第90話《静謀の残響》

 ──ケルベロス討伐から、数日後。


 迷宮都市カンブレーグは、まだ勝利の熱を引きずっていた。


 表通りでは酒が出回り、冒険者たちは大声で武勇を語る。


 市場では討伐の話が値札より先に飛び交い、子どもまでが三つ首の魔獣の真似をして騒いでいた。


 だが、歓声というものは、いつも地上にしか積もらない。


 ギルド本部の地下。


 石と鉄で固められた記録室には、その熱が一片も届いていなかった。


 昼でも暗い。


 暗いのに灯りはある。


 灯りはあるのに、温かさがない。


 紙の匂い。


 金属の匂い。


 インクの乾いた匂い。


 そして、そのどれにも混ざりきらない、うっすらとした異物感。


 ――戻ってこなかったものの匂い。


 机の上に、黒く濁った破片がひとつ置かれていた。


 ケルベロスの魔核。


 正確には、本物ではない。記録用に作られた複製品だ。


 本物の振る舞いだけを写し取り、所有権と責任を切り落とした、都合のいい証拠。


 白銀の仮面をつけた女が、その破片を指先で転がした。


 ギルド鑑定士、セフ=ユステ。


 仮面の奥の視線は、ただ破片を見ているわけではない。


 割れ目の走り方。濁り方。残留魔力の歪み。そして、複製品にまで残っている、微細な周波のズレ。


 彼女はそれを、“揺れ”として読んでいた。


「……一度だけ。やっぱり」


 呟きは低く、感情を外へ出さない。


 だが、そこには確信があった。


 机の上には、戦闘記録が何枚も広げられている。


 オリーブの魔法解析ログ。


 セフ自身が現地で採取した周波痕の照合結果。


 咆哮の帯域。炎圧の変位。壁面に残った共鳴の層。


 その中で、ある一点だけが、きれいすぎるほど異質だった。


 ――“器”の反応が起きた瞬間だけ、波形がわずかに乱れている。


 乱れた、というより。


 何かが外から押しつけられ、それに合わせて内側の形が変わったような揺れ。


 セフは羽根ペンを取り、短く書きつけた。


『想定より早期に反応。受動変質の兆候あり』


 文は短い。


 短い文は、あとで誰にでも使える。


 意味を削れば削るほど、文書は手足になる。


 セフはさらに一行加えた。


『火耐性ではない。火耐性のみではない。外因に応じた適応変質の可能性』


 ペン先が止まる。


 仮面の奥で、細い息が漏れた。


 笑いではない。


 面倒が増えると知った者だけがする息だった。


「……まさか、“あの下層”へ繋がるとはね」


 指先が止まり、魔核の破片もまた机の上で静止する。


 記録の中に、次の扉が映り込んだ合図だった。


 そのとき、控えめなノックが響いた。


「……どうぞ」


 入ってきたのは若い職員だった。


 背筋は伸びているが、扉を閉める指先にだけ緊張が出ている。


 彼は紙束を抱えたまま、セフの机の前で一礼した。


「会議室から、追加報告の確認依頼です。……例の件で」


 セフは紙束を受け取る。


 目だけで、上から順に追っていく。


 書かれている文字は、どれも冷たかった。


『ちゃたろ〜への観察官配置、再検討』


『名誉称号授与に付随する記録官常駐案』


『活動範囲指針の策定(未承認)』


『二十階以降への接触制限、暫定案』


 セフは鼻先で、かすかに笑った。


「名誉の形をした首輪。ずいぶん手際がいい」


 若い職員は苦い顔をしたが、すぐに消した。


「上では……“保護”という言い方もしています」


「ええ、するでしょうね。保護、支援、配慮、監察。便利な言葉はいくらでもある」


 紙束を机に置く音が、やけに硬く響いた。


「でも結局、やりたいのは同じ。近くに置いて、見て、記録して、いつでも止められるようにしたいだけ」


 職員は少しためらってから、続けた。


「ですが……本人が、この数日、報酬の受け取りにも、ランク査定にも来ていません。名誉称号の件も、連絡を入れたのですが……返答がなく」


「ええ。来ない」


 セフは言い切った。迷いはなかった。


「彼は、そういうものを欲しがる人間じゃない」


「報酬も、ですか」


「必要なら取るでしょう。でも、必要以上には見ない。名誉も同じ」


 セフは机の上の魔核を見た。


 それから紙束を見て、最後に、何もない空気の一点を見た。


「……欲しがらない人間ほど、管理が難しいのよ」


 若い職員は一瞬、言葉を失った。


 彼はまだ若い。


 組織の中で“管理しやすい者”と“しにくい者”の差が、どうやって決まるのかを、頭では知っていても、体ではまだ知らない。


「どういう、意味でしょうか」


「簡単よ」


 セフは椅子の背にもたれず、淡々と答えた。


「この場所に何があるかを、もう見切っているってこと。ここで得られるものと、ここで増えるものの差を、たぶん彼は感覚で分かっている」


「得られるものと……増えるもの」


「得られるものは少ない。増えるのは手順だけ」


 静かな声だった。


 だが、その静かさが言葉を余計に冷たくする。


「手順が増えると、責任は薄まる。責任が薄まると、誰も止めなくなる。そういう場所に長くいる人間じゃない」


 若い職員は返事ができなかった。


 セフは立ち上がった。


 椅子がきしむ。


 地下の静けさの中で、その音だけが妙にはっきりしていた。


「記録官の同行案は?」


「ギルド上層部は前向きです。少なくとも外形だけでも――」


「要らない」


 淡い声で、切った。


 切り方が正しい。正しいほど怖い。


 職員が息を飲む。


「で、ですが……」


「これはまだ報告書じゃない。占い。統計的未来予測。周波痕の補強観測。そういう名目なら、わたしの責任範囲で動ける」


「責任、ですか……」


「ええ」


 仮面の奥の目が、かすかに細まる。


「責任は、取るためにある。増やすためじゃない」


 その一言に、職員はようやく口を閉じた。


 地下の記録室では、理屈よりも先に、言い切れる人間のほうが強い。


 セフは机上の魔核をもう一度だけ見た。


「魔核と器。今後の変質」


 その声は、独り言にも、通達にも聞こえた。


「……誰かが記録しないと、あとで全部“事故”になるでしょう?」


 事故。


 この都市で最も便利な言葉だ。


 誰も悪くない顔をしたまま、誰かひとりに責任を落とせる言葉。


 セフは書類を束ね、机上を整えると、部屋を出た。


 戸が閉じる。


 地下には、冷えだけが残った。


     ◇


 一方その頃。


 迷宮都市の片隅、ギルド裏手の石段に、ちゃたろ〜は腰を下ろしていた。


 背中は壁につけていない。


 壁につけた背中は、逃げ道をひとつ減らす。


 通りの向こうから、まだ祝勝の余韻が流れてきていた。


 笑い声。


 酒瓶の触れ合う音。


 誰かが剣を打ち鳴らしてふざける音。


 そして、ときおり混ざる、自分の名。


 ちゃたろ〜は顔を上げなかった。


 報酬も。


 ランク査定も。


 名誉称号も。


 どうでもよかった。


 あの戦いのあとから、頭の中に居座り続けているものは、別にある。


 ケルベロスの最深部。


 三つ首の咆哮。


 押しつぶすような炎圧。


 肌の上に落ちた熱ではなく、骨の内側にまで入り込んでくる圧。


 あの中で、確かにあった。


 ――“震え”。


「……器が、反応した」


 口に出してみると、言葉は思ったより軽かった。


 だが、実感は重い。


 まだ使いこなせていない。


 何が起きたのかを説明しろと言われても、うまく言葉にはできない。


 けれど、嘘ではなかった。


 あの瞬間、自分の中の何かが、ただ耐えたのではなく、合わせた。


 炎を受けて終わるのではなく、炎に対して形を変えた。


 それが何を意味するのか。


 どこまで変わるのか。


 変わった先で、自分が自分のままでいられるのか。


 分からない。


 分からないままにしておけるほど、あの震えは小さくなかった。


「……また、行くしかないか」


 立ち上がる。


 それだけで、周囲の空気が少しだけ固くなる。


 通りすがりの冒険者が、無意識に視線だけ寄越して、すぐ逸らした。


 この男は、勝ったから止まる男ではない。


 次を見つけたら、そちらへ行く。


 そう思わせる立ち方だった。


「占い、ひとつ付き合わない?」


 背後から、声が落ちた。


 聞き慣れた声。


 聞き慣れているのに、油断すると刺さる声。


 ちゃたろ〜が振り返る。


 白銀の仮面。黒衣。


 セフ=ユステが、石段の上に立っていた。


「……セフ」


「今日のあなた、“北風の竜に似た兆し”が出てる」


 彼女はいつものように占いの言葉を使う。


 だが、その使い方は占い師のそれではない。


 曖昧にしているのではなく、責任の外側へ意味を逃がしている。


 言質を与えず、しかし伝えるべきことだけは残す話し方だ。


「北風は境界を剥がす。剥がれた先には、古い道が残る。……そういう兆し」


「……迷宮の話か」


「さあ」


 セフの声はわずかに柔らかい。


 柔らかいが、そこに安心はない。


「あなたが迷宮だと思うなら、そうなるかもしれない」


 ちゃたろ〜は小さく息を吐いた。


「また、何か隠してるな」


「いつも通りよ」


 セフは否定しない。


「ただ今回は、“観測者”じゃなくて……ちょっとした仲介者」


 その言葉とともに、彼女は懐から紙片を取り出した。


 古い、薄い紙だった。


 端は擦れており、何度も別の束から抜き差しされた跡がある。


 ちゃたろ〜の目が細まる。


「……何だ、それ」


「地下二十階の遺跡構造図。その断片」


 セフが紙を軽く傾ける。


 そこには、通常の正規ルートでは繋がらない線が描かれていた。


「ドワーフの補助魔道ルート。正規の踏破記録には載ってない。工兵系の一部と、古い保全部署だけが知ってた抜け道」


 紙は薄い。


 だが、重い。


 紙一枚で、行ける階が変わる。


 人が死ぬ場所が変わる。


 助かる順番が変わる。


「これを誰に渡すか、まだギルドは決めていない」


「……なら、持って帰れ」


 ちゃたろ〜は即座に返した。


 危ういものに対して躊躇う声ではない。危ういからこそ、先に距離を取る声だった。


 だがセフも、ほとんど間を置かずに答える。


「持って帰ると、記録が残る」


「だったらなおさら――」


「でも、落としたら残らない」


 ちゃたろ〜の言葉を、静かに断つ。


 仮面の奥から向けられる視線は冷静だった。


 冷静すぎるくらいに。


「“落とした”ことは記録できる。でも、“誰が拾ったか”は、記録できないことがある」


 その一言で、会話の温度が少し下がった。


 ちゃたろ〜は黙る。


 黙るだけで、この会話は成立しかける。


 セフはそんな沈黙を待つように、紙片を指先で持ち上げ、そして手を緩めた。


 落ちた。


 偶然みたいに。


 事故みたいに。


 紙片は石段に当たり、風にひとつだけ押されて転がり、ちゃたろ〜の足元で止まった。


「クイズよ」


 セフが言う。


「あなたが拾えば、あなたが選ぶ。拾わなければ、わたしが失念する」


 少しだけ間を置いて、続ける。


「……どっちでも、記録はきれい」


 ちゃたろ〜は足元の紙片を見下ろした。


 拾うだけなら簡単だ。


 だが、本当に拾うのは紙ではない。


 次の道。


 次の危険。


 次の変化。


 たぶん、この先にはまた戦いがある。


 しかも今度は、相手が魔物だけとは限らない。


 それでも。


 何も知らずに待つより、知ったうえで歩くほうがましだと、彼はもう何度も学んできた。


 ちゃたろ〜は、ゆっくりと紙片を拾った。


 その指先に迷いは残っていたが、動き自体は止まらなかった。


「……ありがとな」


 礼は短い。


 短いほど、重い。


 セフは振り返らなかった。


 ただ、仮面の奥の呼吸だけが、一度だけ揺れた。


「わたしは興味があるの」


 黒衣の背中が、わずかにだけ止まる。


「魔核も。器も。その後の変質も」


 声は軽くない。


 観測者の好奇心というより、自分の責任として見届けたい者の声だった。


「だから――もう少しだけ、記録させてね」


 踵が返る。


 黒衣が去っていく。


 ちゃたろ〜は紙片を懐にしまった。


 その仕草は静かだった。


 だが、懐に入ったのは紙だけではない。


 決意だった。


     ◇


 その夜。


 ギルド上層部の会議室は、乾いていた。


 机も。


 壁も。


 置かれた書類も。


 だが、そこで交わされる言葉だけが妙に湿っていた。


「二十階以降は封鎖。少なくとも、通常冒険者の流入は止めるべきだ」


「いや、封鎖ではなく特別調査枠の創設が先だ。上に報告する名目が立つ」


「ケルベロス討伐の称号は授与する。ただし、英雄視は広げないこと」


「周辺への影響が大きすぎる。個人崇拝に移る前に、枠をつけるべきだ」


 言葉は並ぶ。


 並ぶほど、責任の輪郭が薄くなる。


「……そして、対象の分類を決める必要がある」


 ひとりが言った。


 会議室の空気が、そこで少しだけ変わる。


 利用するか、切るか。


 そういう分かりやすい話ではない。


 もっと冷たい。


 もっと制度的な話。


「監視対象として再指定」


「危険等級の更新」


「接触時は記録官同席を原則化」


「逸脱が認められた場合、隔離手順に移行」


 誰かが頷き、誰かが書き留める。


 その場にいる誰も、声を荒げたりはしない。


 荒げる必要がないからだ。


 手順が揃えば、人は静かに追い込める。


「最大の問題は、彼が次にどこへ向かうかだ」


 その一言のあと、短い沈黙が落ちた。


 沈黙は、不明ではない。


 確信の形だった。


 ――そのころには、ちゃたろ〜はもう別の道を選んでいる。


 ギルドの扉ではない。


 正規の階段でもない。


 記録された英雄の道でもない。


 “落とされた紙片”が示す道。


 すべては確かめるためだ。


 器が、次に何へ反応するのか。


 魔核が、どんな変質を選ぶのか。


 その変化が、自分をどこへ連れていくのか。


 静謀の残響は、まだ鳴っている。


 ただ、もう遠くで響いているだけではない。


 次の一歩の下へ、静かに潜り込んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ