燃えよカイエン3
2時間後に最終話を投稿予定です。
修羅の巷。
端的に言い表すならば、この瞬間、この場所こそがまさしくそれであった。
色とりどりの花々と噴水に彩られていた中庭は、二人の霊紋持ちの相争う余波で引き裂かれ、押し潰され、見るも無残な有様へと変貌している。騒ぎを聞きつけて駆けつけた衛士達も、戦闘の凄まじさに気圧されて介入に踏み切ることができず、二体の異形の激突を固唾を飲んで見守ることしかできなかった。
そう、二体である。
一体は山羊の角と蝙蝠の翼を併せ持ち、これまでかぶり続けていたハリヤ王子という皮を脱ぎ捨て、その本性をあらわにした悪魔の幻想霊。
そしてもう一体は、鬼の姿へと変じたカイエンだ。
額からは強烈な存在感を放つ角が天に向かって屹立し、元々鍛え抜かれていた筋肉ははちきれんばかりに膨張するも、赤銅色に鈍く輝く皮膚の下へと押し込められて、さながら鎧のように全身を覆っている。
完全に別の生き物と化しているハリヤ王子の悪魔とまではいかないが、それでもちょっと面識があった程度の付き合いでは、決して気付けぬであろう変貌ぶりだ。
幻想霊を宿すという意味をまざまざと見せつける両者が、霊紋の光をたなびかせながら交錯する。
眉間、鼻面、鳩尾と、人体の急所を的確に打ち抜きにきた悪魔の連撃を、顔を背け、上体を逸らし、叩き落とすことで対処するカイエン。
間髪入れず腰から上を回転させるようにして放たれた反撃のフックは、悪魔の胴体を抉る寸前で黒ずんだ腕に阻まれる。
金属と金属がぶつかりあったような耳障りな音が鼓膜を揺らし、衝撃と摩擦が足裏から白煙を立ち昇らせながら、悪魔に後退を強要した。
一週間前の攻防では終始圧倒されていたカイエンであったが、今この瞬間においては互角の立ち回りを見せている。
認めがたい事実に悪魔は苛立たしげな舌打ちをすると、小手調べから本格的な排除へと戦術を切り替えた。
両手を固く組み合わせ、叩き付けるように全力で振り下ろしたのである。そこに込められた破壊力は尋常なものではなく、直撃すれば人体はおろか、分厚い城壁ですら一撃で倒壊せしめることは想像にかたくない。
それに対して、迎え撃つカイエンが選んだのは回し受けだった。拳法の流派において基礎にして奥義とも呼ばれるその技術は、攻撃を真っ向から受け止めるわけでもただ逃げるでもなく、受け流すことで相手の体勢を崩し、反撃への流れを自ら作り出す迎撃手段である。
防御よりも、回避よりも、数段上の高度な技術と精度が要求される選択ともいえた。
一瞬の隙が即座に勝敗へと直結する霊紋持ち同士の戦いにおいて、その選択は大きな賭けでもあった。
成功すれば強敵の横っ面を全力で一発殴れるというのは確かに魅力的だが、もしも失敗すれば、金槌で打たれた釘さながらに、カイエンの脳天が胴体に埋め込まれる羽目になるだろう。
果たして、チップ代わりに命を張ったギャンブルに勝利したのは、かろうじてカイエンの方だった。
寸分の狂いなく差し込まれた鬼の手に阻まれ、悪魔の一撃はカイエンのわずかに脇を通過すると、王宮の中庭で最も見事に茂っている大樹へと叩き付けられる。
悪魔の一撃を幹のど真ん中に受けた大樹はガラス細工のごとく粉々に砕け散り、そこら中に木屑の破片を撒き散らしたかと思うと、支えを失った枝葉がだるま落としのように降り注いできた。
崩れ落ちる大樹を背に、カイエンの左足が石畳をしかと踏みしめる。
石畳に罅が入るほどの脚力で軸足を固定すると、残る右足が鞭さながらのしなりを見せ、渾身の攻撃を受け流されて体勢を崩している悪魔の後頭部へと吸い込まれた。
激突。
しっかと振り抜いた足の甲に残る、めぎりっ、という破壊の感触。
だが、カイエンは舌打ちを零していた。
それは狙いが逸らされたからだ。
逸れたのではなく逸らされた。後頭部が熟れた柘榴のように弾ける寸前、悪魔は片翼を盾代わりにかざし、致命の一撃から逃れてみせたのである。
頭部を守った代償に左の翼は千切れる寸前まで歪み、柔軟性に富んでいた皮膜も派手に裂け、どす黒く濁った血がぽたぽたと地面に滴っている。ここまで破壊し尽されれば、もはや飛ぶことはかなわないだろう。
それでも脳天をかち割られるのと比べれば、悪魔にとっては安い取引といえた。
しかも、悪魔が成したのはそれだけではない。
蹴りを放ち終えたカイエンが、力が抜けたように崩れ落ちかける。
危ういところで踏ん張って、どうにか膝をつくことは免れたものの、激痛をこらえながら脇腹に手を当ててみれば、ぬるりとした感触の生暖かい血液が掌を濡らしたではないか。
傷口を強く掴んで止血を試みながら視線を持ち上げれば、鋭利な爪の先端にこびりついたカイエンの肉片を、悪魔が無造作に振り払って地面へと捨てるところだった。
片翼と引き換えに急所を守ったうえ、勝負を決めにかかったカイエンの隙を突いて反撃を繰り出していたのである。
反撃自体は際どいタイミングながら察知できていたカイエンだったが、回し受けで殺しきれなかった衝撃が腕を痺れさせており、ほんの僅かだけ対処が遅れてしまったのだ。
「っつつ。くそ、今のは決まったと思ったんだけどな」
「……よもや、ここまでの力を隠していたとは。認めざるをえまい。我は貴様の力を侮っていたようだ」
憎々しげな光を瞳に宿し、悪魔が振り返った。
以前の遭遇では一蹴してみせた相手が、たった一週間で己を脅かすほどのパワーアップを果たしたことに対する驚愕は無い。その理由に、おおよそ察しがついていたからだ。
「その姿、どうやら貴様も我と同じ側だったとはな。同類を見誤るとは、我もつまらん失態をしてしまったものだ」
「一緒にするんじゃねえよ」
悪魔の呟きを、カイエンは一刀両断に否定する。
不可解そうな眼差しを向けてくる敵手へ、力強く言い放った。
「その悪魔を生み出したのはお前だぜ、ハリヤ。もう一人の自分に負けて、体を乗っ取られた挙句に好き勝手に使い倒されてるのは、全部お前の実力が足りなかったからだ。勝てなくたって、負けないように耐えることはできる。俺はそういう奴を知ってるぞ」
かつて訪れた鬼哭山と呼ばれている地に、カイエンと同じく鬼を宿した青年がいた。
彼は身の内に鬼を巣食わせながらも、長い年月を自我の侵食に耐え抜いていた。
おそらく、世の中にはそういう霊紋持ちが、他にもまだまだいるのだろう。
世間一般に語られる、自我を侵食されて暴走した幻想霊持ちとは、自分自身に打ち勝てなかった一部の者達の末路に過ぎないはずなのだ。
だからこそ、己と同類だという悪魔の言葉を、カイエンは全力で否定する。
カイエンと悪魔が同類だと認めることは、幻想霊を宿しながらも自我の侵食に抗っている名も知らぬ霊紋持ち達への侮辱であると同時に、カイエン自身に宿っているもう一人の自分への裏切りに他ならないのだから。
しかし悪魔は、カイエンの抗弁を一笑に付した。
「くはっ、愚かしい。たかが人間が我に抗うだと? 馬鹿らし過ぎて話にもならん。虫けらのごとき人間風情が、この力に耐えられるはずもなし!」
吐き捨てるやいなや悪魔は大きく息を吸いこむと、灼熱の業火を吹き出してのけた。
カイエンが素早く身を翻せば、その後を追うように幾度も焔の吐息が辺りを舐め尽くす。緑に溢れていた中庭は、瞬く間に赤々と燃え盛る炎によって埋め尽くされ、飛び火した王宮のあちこちで火の手が上がり、衛士達も我に返って騒ぎ始めた。
辺り一面を火の海と変え、悪魔は満足そうに嘲笑う。
「見るがいい。少し炙ってやった程度でこの様だ。奴も同じだった。未熟な魂ながらに我を結実させ、その未熟さ故に我が囁きに抗えずに堕ちていったものよ」
その在り方はまさしく、伝承に残る悪魔そのものだ。
悪徳を囁き、堕落の道へと人を誘う。四六時中その囁きに晒されたハリヤ王子がどこまで持ちこたえたのか、今となっては知る由もない。
判っているのは唯一つ。ハリヤ王子の魂は自らの生み出した悪魔に敗れ、擦り切れ果てて消滅し、悪魔だけが残されたという事実である。
その事実をもって、ただひたすらに悪魔は嗤う。人は小さく、取るに足らぬ存在だと。
だからこそカイエンは、信念を持って否を突きつけることができるのだ。
「よお、悪魔野郎。お前、第二階梯だよな?」
「何を当然のことを言っている?」
「折角だから見せてやるよ。第二階梯のその先を」
「何っ!?」
はったりだ。ハリヤ王子の体を乗っ取っている悪魔の理性は、そう判断をくだす。
霊紋持ちの位階は第一階梯と第二階梯のみのはず。第二階梯の先、いわば第三階梯など聞いたこともない。
だが、ただの虚言のはずなのに、目の前に立ちはだかる鬼と少年の融合体から放たれる気配が、目を背けるなと言わんばかりに圧力を増す。
悪魔は気付くことができなかった。
自由に動かせる体を得た代わりに、己が何を失ったのか。
悪魔は気付くことができなかった。
目の前に立つ者達の在り方が、決定的に己と違っていることに。
気付かされたのは次の瞬間だ。
「九鬼顕獄拳、奥伝の終・顕獄」
ゆらりと拳を引き絞ったカイエンが、修めた型を披露するかのように、鋭く直突きを繰り出したのである。
音もなく突き出された正拳は何もない空間を穿ち――突如としてそこから風が逆巻いた。
吹き荒れるのは砂利混じりの冷たい風。もしもカイエンの修行に逐一付き添っていた者がいたならば、もう一人のカイエン、すなわちカイエンに宿っている鬼霊と殴り合いを繰り広げた、あの荒野を連想したことだろう。
そしてそれは、真実その通りであった。
逆巻く風を先触れとして空間に罅が走ったかと思うと、木っ端微塵に砕け散る。耳に痛いほどに澄んだ音と共に、砕けた空間の破片が虚空へ溶け消えていくと同時、世界がグルリと裏返った。
炎と煙が渦巻く王宮の中庭から、命の気配が何一つ無い不毛の荒野へと。
カイエンからすれば修行の時と同様だったが、今回ここを訪れたのはカイエンだけではない。
「なんだ……ここは!?」
突如一変した光景に、驚愕し混乱を隠せない悪魔が声を裏返らせる。
そう、この場にはカイエンの他にもう一人、悪魔もまた引きずり込まれていたのである。
一体何が起きているのか皆目見当が付かないらしく、警戒した様子で周囲へと素早く視線を走らせている。
ここがどこかを探ろうとしているのだろうが、残念ながら無駄な努力というものだ。
なにせここは、カイエンが生み出したカイエンに宿る鬼霊の世界。本質的にこの世のどこにも存在しない場所なのだから。
幻想霊持ちの第二階梯は、幻想霊の出自にまつわる異能や逸話の再現を可能とする。鬼や悪魔といった異形の姿に変身するのも、その副作用のようなものと考えられていた。
では仮に、それを更に押し進めるとどうなるのか。
その答えこそがこの光景だ。
すなわち、伝承にまつわる世界の構築。
本来は森羅万象の精霊が織りなし形作っているはずの世界という土台を、たった一人の霊紋持ちに宿った幻想霊のみで代替する。常識外れもここに極まれりとしか言いようがない荒業であった。
それを為したカイエンとて、自身が同じ領域に至ったからこそ痛感する。
かつて十年近くを過ごした霊山こそ、ファン老師が構築した黄龍の世界に違いない。
元の世界と遜色ない世界を、十年近く、いや、おそらくはもっと長い年月の間維持し続ける。
口で言うのは簡単だが、実現するとなれば偉業を通り越して神業と呼ぶしかない所業をいともたやすくやってのける師の底知れなさに、今更ながら舌を巻く思いがする。
だが、カイエンは小さく首を振ると、感嘆の念を頭から追い出した。
今は生死を懸けた真剣勝負の真っ最中なのだ。他の事に気を取られるなど、修行が足りない証拠である。
「どうだ、吃驚しただろ。吃驚してもらえたところで、そろそろ再開といこうぜ!」
一方的に呼びかけると、返事を待つことなくカイエンは動いた。
倒れそうになるギリギリまで重心を落とすと、乾いた土を蹴り上げて飛び出す。
その刹那、悪魔の視界からカイエンの姿がブレて消えた。
「!?」
まさか、移動速度が速すぎて、見失ったとでもいうのだろうか。
驚愕に打ち震える悪魔は、背後に迫る気配を感じた瞬間、正体を確かめることなく振り返りざまに気配へ殴りつけていた。
他に誰もいない以上、気配を感じたとなれば敵であるカイエン以外にありえない。理屈としてはその通りかもしれないが、仮にそうだとしてもろくに確かめもせず、反射的に攻撃してしまったのはいただけない。
横殴りの一撃が空を切り、上体が流れた勢いで視線も泳ぐ悪魔の目に映ったのは、中途半端な迎撃をたやすくかい潜り、超至近距離まで詰め寄っていたカイエンの姿。
罵る暇さえ与えられない。
咄嗟に防御姿勢を取るより早く、がら空きの腹部に音も無く掌底が炸裂する。
「ぐごっ、げはっ!?」
腰から下が千切れ飛んだと錯覚してしまうほどの激痛。
錐揉み状態で飛翔した悪魔は、二度三度と地面をバウンドした後、荒野に長い軌跡を刻んで停止する。
たとえ霊紋持ちであろうと致命傷に至っていてもおかしくない光景だったが、カイエンは油断した素振りもなく手招きをしてみせた。
「おい、立てよ。まだくたばっちゃいないはずだぜ」
「がほっ…………馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な…………こんな馬鹿なことがあるものかっ!」
吹き飛ばされた悪魔が、掌打の痕がくっきりと残る腹を押さえながら、吠えるように立ち上がる。
明確に死を意識したためか、先程までわずかながら残っていた油断や侮りが、今や完全に消え失せている。
腐っても幻想霊の第二階梯。そう簡単に決着とはいかせてくれないらしい。
「なんなのだ、その力は!? 先程までとは桁違いではないか!」
「当たり前だろ。ここは俺の作った世界だぜ。俺にとっちゃ実力を存分に発揮できる、いわゆるベストコンディションってやつだな」
「ぐっ、鬼にそんな伝承があるなど、聞いたこともないぞ」
幻想霊の能力は、元となった伝承に左右される。
悪魔とてこの世のすべての伝承・伝説を把握しているわけではないが、世界を構築する能力など、主に憤怒と闘争の化身として語られる鬼の伝承とは、あまりにも毛色が違い過ぎた。
そんな悪魔の指摘を、カイエンは肯定し、そして否定する。
「ああ、そうだな。こいつは鬼の伝承に拠るもんじゃない」
「ならば何故、そんな能力を使えるのだ!」
「なんだ、まだ分かってなかったのかよ」
食い下がる悪魔を、カイエンは呆れた表情で眺めやった。
やれやれとでも言いたげな素振りで種明かしをしてみせる。いや、種は既に明かされていたのだったか。
「言っただろ、第二階梯の先を見せてやるって。そいつに決まってるだろ」
「精霊固有の世界を構築することが、第三階梯の霊紋持ちの能力だというのか!?」
「あー、難しい言い方をするなら、そうなるのかもな」
「ならば、我もその力を使えるはずということだな。同じ能力を扱えるようになれば、勝負はまだ分からんぞ!」
血走った眼でくつくつと背を震わせる悪魔に、カイエンはしかし首を横に振ってみせた。
「お前にゃ絶対に不可能だ」
「何を言う。貴様にできて我にできないわけがない。それとも、何か根拠でも――」
「霊紋持ちと精霊の魂が本当の意味で一つになること。そいつが第二階梯を超える条件なんだよ」
「なんっ……だとっ……」
噛み付いてくる悪魔を冷たく突き放す。
ハリヤ王子の魂を葬り去った悪魔にとっては、どうあがいたところで達成不可能な条件を突きつけられ、つい言葉を詰まらせ絶句してしまう。
カイエンはそんな悪魔の様子など一切斟酌することなく、再び拳を構えると、睨み付けるような眼光を飛ばした。
「種明かしが済んだところでそろそろお開きにしようぜ。かかってこいよ。俺を倒せれば、この世界は支えを失って、元の世界に呑み込まれる形で消え去るはずだ。お前だって無事に戻れると思うぞ」
「……舐めた口をきいてくれる。それが第三階梯に至った者の余裕ということか」
「うんにゃ。俺はただ、この前負けた借りを返しに来ただけさ。そのためにも、本気のお前を真っ向勝負で叩き潰させてもらう」
軽い口調で告げるカイエンの言葉にまなじりを吊り上げ、悪魔が霊紋を過剰なほどに脈動させた。淡く輝く紋章がはっきりと浮かび上がり、悪魔の全身が黒ずんで煌めく。
対するカイエンは満足そうに笑みを深めると、腰を軽く落として半身に構えた。緩やかに握った右拳を腰だめの位置に、左手は右拳を覆うように添えて標的を見据える。全身の霊紋が明るさを増しながら不規則に蠢き、不毛の荒野を太陽のごとく照らし出した。
両者は存分に霊紋の力を練り上げると、次の瞬間、無言で地を蹴り加速した。
カイエンの掌打によってかなり離れていたはずの間合いが、急速にゼロへと近づく。
互いに手の届く位置に到達するその寸前、悪魔は大きく口を開くと、そこから炎の吐息を吐き出した。メラメラと真っ赤に踊る焔がカイエンの視界を埋め尽くす。
行く手を遮るように出現した炎の壁に対し、カイエンは大胆不敵な笑みを浮かべると、駆ける速度を緩めることなく炎の中へ身を躍らせた。
多少焼け焦がされることなど承知の上で、それでも最短距離を突っ切ろうというのだ。
だが、炎の壁を突破した先で待ち構えていたのは、今まさに渾身の一撃を繰り出さんとする悪魔の姿であった。
カイエンが強引な突破を図ることなど、悪魔にとっては想定の範囲内。炎の壁だけでは致命傷を与えられないのも織り込み済みだ。真の目的は、本命の一撃を隠すための目くらましだったのである。
霊紋の力を限界まで注ぎ込まれた悪魔の右手の爪が、限界を超えて禍々しく変貌する。
硬く、鋭く、ただ肉を裂くためだけにあるその形状は、まさしく一撃必殺の武器と呼ぶに相応しい。
「死ねえぃっ!!」
文字通りの全霊を込め、悪魔はカイエンの顔面目掛け、一直線に爪を突き込んだ。
幻想霊たる悪魔が振り絞ることのできる全力を秘めた突き。たとえ第三階梯に至ったとはいえ、生半な防御ではこれを防ぎきることはかなわない。
だからこそカイエンは、回避する気配など最初から髪の毛一筋程も見せず、むしろ迎え入れるように大口を開けてみせた。
「九鬼顕獄拳、獣鬼の型」
がぢりっ
その牙でもって、繰り出された悪魔の爪に齧り付く。
まさか咬撃で攻撃を受け止めるとは予想できるわけもなく、さしもの悪魔も攻め手がほんの一瞬だけ緩む。
その緩みを見逃すことなく、カイエンは首を振って捻りを加えると同時、咀嚼筋を振り絞った。
ぼぎんっ
硬質な音を立て、禍々しい形状をした爪が根元から圧し折れる。
驚愕に見開かれた悪魔の視線が、カイエンの喰い千切った爪の破片が宙に舞う様を追う。
それはすなわち、目の前の敵から意識を逸らしたという意味であり、カイエンにとっては絶好の隙以外の何物でもなかった。
ずだんっ
震脚が大地を刻む。
荒野を踏みしめる音も高らかに、悪魔の懐に飛び込んだカイエンは、己の持てる技と力、信念と霊紋のすべてを重ね合わせた一撃を放った。
「九鬼顕獄拳、傀閻の型!!」
轟ッ!!
びりびりと空気が震え、天地が激しく鳴動する。
先程の掌底が子供騙しに思えるほどの圧倒的な破壊の奔流。
強烈な霊紋の輝きによってもはや輪郭すら光の中に溶け込もうとしている拳打が、悪魔の右脇腹に叩き込まれる。
抗うことなど到底不可能なベクトルに撥ねられ、流星のように虚空を翔けた悪魔は轟音と共に大地に打ち付けられたかと思うと、隕石の落下もかくやと思われるほどの衝撃波を撒き散らし、地形を陥没させてクレーターを生み出した。
やがて、もうもうと巻き上げられていた土煙がおさまった頃、クレーターの中心では悪魔が大の字になって倒れ伏していた。
息を吸い込もうとするたびに喉の奥から血の泡がせり上がり、指一本たりとも動かすことのかなわないその姿は、虫の息という以外に言い表しようがない。
それでも、ごぽりっ、と血の塊を吐き出し、悪魔は凄惨な笑みを浮かべてみせた。
「見事だ、九鬼顕獄拳のカイエンよ……よもや、余の悪魔を妥当しうる豪の者がいたとは、夢にも思わなんだ……」
「お前、もしかして本物のハリヤか?」
眉をひそめてカイエンが尋ねるも、身じろぎすら億劫な有様では頷くことも首を横に振ることもままならない。代わりに、遮るものが何一つ無い荒野の空を見上げ、
「さてな。今の余はいわば残響のようなもの……正体を隠すために悪魔がかぶっていた皮の、ほんの切れ端に過ぎぬのかもしれん」
「相変わらず分かりにくい言い回しをする奴だな。そんなもん、お前がどう思ってるかで決めりゃいいんだよ。自分に嘘さえつかなければ、それで充分だろ」
どこまでも真っ直ぐなカイエンの言葉に、ハリヤは持てる生命力をつぎ込んで、淡い微笑みの形に口元を緩める。
「ならば、カルマ国王子、ハリヤダット・カルマとして告げよう……カイエンよ、悪魔退治……大義で……あっ……た…………」
途切れ途切れの言葉を遺し、最期は王子として、ハリヤは命を手放した。
その死に顔がどこか安らかに見えるのは、果たしてカイエンの気のせいだろうか。
ともあれ、カイエンは黙って拳を突き上げると、勝利の余韻に身を浸しながらも、散っていった魂の冥福を祈り、黙祷を捧げたのだった。
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