燃えよカイエン2
王宮中庭での激突より、時は一週間さかのぼる。
カイエンはカルマの街を離れ、貯水池に注ぎ込んでいる清流のほとりへとやってきていた。
これから挑む修行は、場合によっては周囲の地形すら変えてしまう可能性があるため、万が一を考えて人気の無い場所に移動したのである。
「さてと、寝床も確保できたし、早速始めるか」
落ち葉が敷き積もった一画にマーキングをして縄張りを主張すると、カイエンはゆっくりと川縁に立った。
かなり離れた木立の際から、心配そうなヘイの視線が注がれてくる。
随分と念入りな準備ぶりだが、これからやろうとしている修行の内容を知れば、大半の者は心配どころか力づくでも止めようとするだろう。まあ、霊紋持ちを武力で止めようとするならば、同格以上の霊紋持ちが必要となるのだが。
「ヘイ、こいつを預かっておいてくれ」
鬼霊を封じていた白と黒の腕輪を外し、ヘイへ向かって放り投げる。修行の大前提として、カイエンに宿っている鬼霊の解放が必須なためだ。
それはつまり、自ら命綱を投げ捨てることを意味していた。一歩間違えれば自我の侵食によって暴走する可能性も十分に想定される、極めてハイリスクな選択といえるだろう。
だが、パワーもタフネスも桁違いなあの異形を凌駕しようとするならば、残念ながら他に道は残されていなかった。
また、仮に今回の件が無くとも、腕輪抜きで鬼霊の力を引き出せるようになるというのは、カイエンにとって目指すべき到達点の一つだった。前向きに考えるならば、いずれ向き合うはずだった問題なのだから、むしろ丁度良いきっかけだったという見方もできる。
そして何よりこの修行こそ、カイエンにとって同門の先輩にあたる、ガラが耳打ちしていったやり方だったのである。
「精霊の声に耳を傾け、向き合ってみろ、か」
告げられたアドバイスを繰り返す。昔、どこかで聞いたようなフレーズなので、もしかすると育ての親でもあるファン老師からも、同様の助言をもらったことがあるのかもしれない。
ガラもまたファン老師に師事していたというならば、可能性は十分に考えられる。
しかしてカイエンは、おもむろに両目を閉じると、全身に刻まれた霊紋に神経を集中させた。
普段の使い方が、霊紋という尽きぬ泉から水を汲み上げるようなものならば、今回は身一つで泉へと飛び込んでいくイメージ。
躊躇うことなく身を躍らせたカイエンの意識は、己の内へと深く深く潜っていくのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
カイエンが瞼を持ち上げると、広がっていたのは荒涼とした光景だった。
先程まで立っていた、清涼な川縁とは対極の風景。
乾ききって草一本生えない石ころだらけの大地に、皮膚が切り裂かれそうになるほどの肌寒い風が吹き荒び、砂利を巻き上げては全身を打ち据えてくる。
一瞬、見知らぬ場所へ迷い込んだのかと考えてしまうが、それを否定したのは野生で磨き抜かれた直感だった。
その直感が告げているのだ。
カイエンの肉体は今もあの川縁に立っており、一歩たりとて動いていない、と。
では一体、ここはどこなのか?
そんな疑問が沸いて出るが、それが形を成すより先に、純粋な破壊衝動とでも呼ぶべき気配が浴びせかけられ、カイエンは肌を粟立たせながら振り向いていた。
「俺、か?」
疑問符を伴った呟きが口をついて出る。意図したものではなく、無意識に漏れたものだ。
その理由は、カイエンと相対するように立っている人物を見れば、一瞬で得心いくことだろう。なにしろ、そこにいたのはカイエンと瓜二つの少年……いや、カイエンそのものだったのだから。
いっそ鏡でも見ているのかと疑ってしまい、カイエンは試しに片手を振ってみるが、当然振り返してくるわけもない。それどころか、もう一人のカイエンはゆっくりと拳を持ち上げると、一切の警告や威嚇すらせずに、いきなりトップギアで殴りかかってきたのである。
「うおっ!?」
突然の先制攻撃に、地面に身を投げ出して転げ回ることで、かろうじて回避に成功する。追撃を警戒するが、殴りかかってきたカイエンは避けたカイエンを鋭い目つきで睨むのみで、道着に付いた砂を払いながら立ち上がるのも黙って見逃してくれた。
「このやろっ、いきなり何すんだ!」
元よりカイエンは無抵抗主義者の類ではない。
自分と全く同じ顔がいきなり現れたので吃驚してしまったが、相手から攻撃してきたのであれば、反撃するのにいささかの躊躇すら覚えるはずもなかった。
ゆるりと呼気を出し入れすると、わずか一歩、いや半歩で間合いを詰める。
一歩ではないのは、まるでカイエンが踏み出すのを待ち構えていたように、寸分の狂いすらない完璧に同じタイミングで、相手のカイエンも前に出てきたからだ。
その半歩だけで、互いに霊紋持ちであることを確信するには十分に過ぎる。であれば先手必勝とばかりに、カイエンは勢いよく荒野を踏みつけると、その反動を膝から腰、そのまま肩へと連動させ、全身のバネをフルに活かした高速の直拳を繰り出した。
威力と速度を高次元で両立させた拳撃は、相手の機先をほんの少しだけ制し、顎先をかすめるかに思われた。
が、カイエンの拳が接触する直前、相手の頭部がブレて消える。いや、カイエンの動体視力でも捉えられない完璧なタイミングで素早く体を捌き、先制パンチに空を切らせたのだ。
そう気付いた瞬間、かつてないほどに明確な予感が背筋をぞくりと震わせ、カイエンは本能的にガードを固めていた。狙われているのは脇腹、こちらの拳を回避した動きを止めることなく、流れるように中段蹴りへとつなぐ。
少なくとも、カイエンならばこの状況ではそうしたはずだ。
刹那ほどの間も置かず、防御に回していた右足を相手の蹴りが打ち据える。向こうの狙い通りに脇腹に喰らっていれば、安く見積もって肋骨の一本くらいは持っていかれていたであろう衝撃に、片足立ちの体勢では到底抗しきることはできず、カイエンは地面を削るようにして距離を取らされた。
「っつー、今のは危なかったな」
遅れてやって来たジンジンとした痛みに、カイエンは眉をしかめることはなく、むしろ満面の笑みを浮かべていた。
いきなり奇襲を受けたので反撃してみれば、狙っていたとしか思えない完璧なタイミングで躱され、更にはお手本にしたくなるようなカウンターを放ってきたのである。
ここはどこなのか。目の前にいる自分の似姿は何者なのか。諸々の疑問にはさっぱり見当が付かないが、そんなことよりも強敵との戦いが、拳法家としてのカイエンに火を点けてしまったことを自覚する。
「それならこいつはどうだ!」
再度距離を詰める。今度は正面から迎え撃つ心積もりらしく、相手のカイエンはその場に踏み止まり、がっちりと固めた防御の向こう側から、こちらの動きを細大漏らさず見極めようとしていた。
無論、そんなところに無策で突っ込むような真似はしない。カイエンは双方の間合いの一歩だけ外で踏み止まると、幻惑するような足運びを披露して横方向への揺さぶりをかけた。
非常識なほどの緩急をつけた歩法は、たとえ分かっていてもその動きを見極めるのは至難の業だ。
そして一転しての踏み込み。
相手の死角に回り込んだ瞬間に踏み込んだため、向こうの防御がほんの一呼吸だけ遅れる。たかが一呼、されど一呼吸。瞬きに満たない程度とはいえ、霊紋持ち同士の戦いでは十二分な隙となる。
普段ならばそんな隙を見逃すことなく、一気呵成に攻め立てていくところだが、カイエンはさほど威力の乗っていないジャブを打ち込むのみで、すぐさま元の位置へと後退した。
その眼前を、大気を焼いて裏拳が通過していく。
踏み込もうとした瞬間、先程と同様に脳裏を予感が走ったため、即座にヒットアンドアウェイに切り替えて様子をみてみれば、案の定であった。ちなみに一発だけ打ち込んだジャブも、予期されていたように回避されている。
否、予期されていたのだ。
わずか二回の攻防ではあったが、獣のごときカイエンの直感は、違和感の匂いを敏感に察知していた。
それは、どうやら互いに互いのタイミング――呼吸が読めているということだ。
こと拳法や格闘、白兵戦において、間合いと呼吸というものは、基本にして奥義である。
多くの流派で研鑽が重ねられているが、間合いはともかく呼吸に関しては個人差が大きく、霊紋持ちになるような使い手ともなれば自分の呼吸を盗まれないように気息も操るため、万人相手に通用する呼吸の盗み方なるものは存在しないと断言できる。
だが、向こうのカイエンは最初の攻防から、これ以上ない程に完璧なカウンターを決めてみせた。つまり、カイエンの呼吸は完璧に盗まれているということになる。
しかしその一方で、完璧だったはずのカウンターも、紙一重のところでカイエンに防がれてしまっている。これは逆に、カイエンの方も相手の呼吸が読めていたからこそ、間一髪のところで防御が間に合っていたのだろう。
ここまでヒントを出されれば、いかに頭脳労働が苦手なカイエンとて、正解に辿り着くことは難しくない。
「見た目だけじゃなくて、経験や勘も俺と同じってわけだ」
面白い。これまで多くの霊紋持ちと戦ってきたが、自分自身と戦うのは初めてだ。
普通だったら混乱するか、せめて疑問の一つも抱えて動きを鈍らせるところだが、生憎とカイエンにそちらの素養は無い。それどころか、折角自分と仕合える機会ができたのだから、徹底的にやらなければ損だとすら感じている始末であった。
「それじゃあ、次はこいつでどうだ。九鬼顕獄拳、迅鬼の型」
全身を低く構え、片膝を立てた奇妙な構え。
踏み込みの早さと突進力にかけては九鬼顕獄拳で随一を誇る型を繰り出したカイエンは、視界に映るもう一人の自分もまったく同じ体勢を取っているのを見て、嬉しそうに目を輝かせる。
次の瞬間、霊紋の軌跡を残して突進した両者は、またしても互角の激突を繰り広げたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
一体どれくらいの時間が流れたのだろうか。
数えるのも馬鹿らしくなるほどに拳を交わし合い、結果として二人のカイエンは荒野に身を投げ出し、大の字になって荒い息を吐いていた。
これだけ体を動かせば、頬を撫でる風が心地良く感じそうなものなのだが、生憎と砂利混じりではそうもいかず、絶え間なく口に飛び込んでくる砂を億劫そうに吐き出している。
「おい、俺」
「……なんだ、俺」
呼びかけたら返事があった。傍から見ている者がいれば驚きで目を見開いていたことだろうが、よくよく考えてみればそれほどおかしな話ではない。見た目だけではなく中身もカイエンと同じだというのであれば、会話だって同じように可能なはずなのだから。
有無を言わせず襲い掛かってきたので、話し合いなどという思考はどこかへすっ飛んで行ってしまったが、底無しなはずの霊紋持ちの体力が尽きるまで殴り合っていれば、会話ができることくらいは伝わってくる。
そしてもう一つ、殴り合った結果カイエンに伝わってくる感情があった。
「どうして、ずーっと怒ってるんだ?」
その一点だけが、どうしてもカイエンには納得できなかったのである。
拳をぶつけ合うたび、烈火のごとき感情が流れ込んでくるのを感じていた。久しく感じた記憶のないその感情の正体に気付いたのは、いつ果てるとも知れない拳闘が終わりに近づいてきた頃合いであった。
気付いた時点ではまだ半信半疑だったが、言葉にしてみることで、あらためて確信する。
もう一人のカイエンを突き動かしていたのは、怒りの感情で間違いない。だが、その怒りを喚起するに足る理由が、カイエンにはまるで思い当たらなかったのだ。
「なぜ怒っているかだと……」
よろよろと身を起こし、ギロリと睨み付けてくるもう一人のカイエン。その瞳の中に燃え盛る憤怒の炎は、あれだけ壮絶な殴り合いを経てなお、一向に弱まる気配を見せない。
だが、その口から飛び出たのは、怒気混じりでこそあるものの、どこか悲鳴のような叫びであった。
「そんなもん、俺が知るわけないだろうが! 俺が生まれた時から何も変わりゃしない。俺は怒りの他には何一つ持ってないんだよ! それなのに、怒り以外は全部持っているお前が、俺にそれを訊くってのか!」
「うるせえ、俺!」
狂ったように怒鳴り散らすもう一人の自分が気に食わず、口より先に足が出る。が、相手も自分自身なためか、体力が尽きてへろへろの状態で繰り出された蹴りは、同じくへろへろとした防御に受け止められてしまった。
もはや霊紋持ち同士の超人的な戦いはどこにもなく、駄々をこねている子供同士の喧嘩にしか見えない。
「お前が何を言ってるのか、俺の事なのに俺にはさっぱり分かんねえよ。でもな、お前が怒ることに飽き飽きしてるってことだけは分かる。それなのに怒ることしか出来なくて、それに腹を立ててるんだろ?」
「知った風な口を!」
衝動に突き動かされるように、もう一人のカイエンは渾身の力を込めて拳を繰り出した。これまでならば防ぐか避けるかしていた拳骨を、しかしカイエンは真正面から顔面で受け止める。
切れた額から血が滴ると、乾いた荒野に吸い込まれて黒い染みとなった。
「知ってるに決まってんだろ。お前は俺なんだ。俺が俺の事を分からないわけねえだろうが!」
叫ぶと当時に頭突きをかます。初めて拳が届いたことで油断してしまったのか、もう一人のカイエンはもろに頭突きをくらい、二人のカイエンは揃ってその場で悶絶した。
どちらの頭の固さも同等ならば、頭突きが双方痛み分けとなるのは道理である。
そんなわけで目から涙をちょちょぎらせながらも、カイエンはもう一人の自分へ呼びかけた。
「なあ、俺。お前、鬼なんだろ」
「……何言ってやがる」
「爺に聞いたことがあるんだ。鬼神ってやつは、自分でもどうしようもない怒りに突き動かされて、永遠に戦い続ける伝承が元になってるって」
「くそっ。あの龍爺め、余計なこと教えやがって」
もう一人のカイエンがうずくまりながら毒づく。その悪態は、カイエンの質問を肯定したのと同義だった。
「お前は、俺の中で俺の代わりに怒り続けてたんだろ。だから俺は、本気で怒ったことが無い。さっきお前が言ってたよな、『怒り以外は全部持ってる』って。それってつまり、俺が怒るはずの時は全部、俺の代わりにお前が怒ってくれてたって意味だよな?」
「ちっ、馬鹿のくせに勘だけは一級品を持ってやがる。だから気に食わないんだ」
そう吐き捨てるもう一人のカイエン……鬼霊であったが、カイエンは気にも留めず、そちらへ手を伸ばす。
「だったら今からでも知っていこうぜ。俺はお前で、お前は俺なんだ。お前が精霊だろうが人間だろうが、俺は俺が怒りしか知らないなんてお断りだ。世界って奴は、怒ってる暇が勿体ないくらい、すげえもんで溢れてるんだからな!」
あまりに唐突なその呼びかけに、鬼霊は唖然とした表情で差し出された手を見つめていたが、やがて舌打ちを一つ零すと、ぱちんとカイエンの手を跳ね除けた。
「うるせえ。俺は鬼だ。怒っていない鬼なんざ、もはや鬼じゃないんだよ…………だがな、お前みたいな馬鹿に宿ったことだけは面白そうだと、初めて思っちまったじゃねえか、ちくしょうめ!」
怒鳴りながらも拳を突き出す。それは殴るためではなく、突き合わせるための拳。
カイエンはニッと笑みを浮かべると、迷うことなく己の拳を突き合わせるのだった。
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