■ 第1話:レーザー光が運ぶ、天文学的な大容量データ
無機質な空調のモーター音が、窓のない第4会議室の重苦しい静寂を一定のテンポで刻み続けている。
壁に掛けられたデジタル時計の表示は2029年。
ここは数々の国家の欺瞞を暴き、世界の裏側を覗き込んできた特務考察機関『サイファー』の密室である。
氷室司は、長机の上に置かれたマイボトルから冷え切ったブラックコーヒーを紙コップに注ぎ、無駄のない動作で一口すスった。
底冷えする地下室の空気の中、彼は銀縁眼鏡を中指の先でクイと押し上げると、手元の最新型タブレットを厳かにスワイプした。
「……私から、現在の科学界、とりわけ天文学における最大のパラダイムシフトについて客観的なデータを提示します」
氷室の指先の動きに連動して、壁面の巨大モニターに青白い電子のグラフと、漆黒の宇宙空間を突き抜ける一本の赤い光線のイメージが投射された。
「今年、2029年。NASAおよび世界各国の宇宙機関が完全に実用化へと移行した技術。それが【深宇宙レーザー光通信】です。従来の電波による通信に比べ、周波数が極めて高いレーザー光を用いることで、一度に送信できるデータ容量は『100倍から1000倍』へと跳ね上がりました」
氷室は、紙コップを机に置くと、モニターのグラフをレーザーポインターで指し示した。
「火星や木星圏といった深宇宙からの超高解像度画像、さらには動画データすらも、今やタイムラグなしで瞬時に地球へと転送される時代です。これは単なる通信インフラの劇的な進化、すなわち【純粋な唯物論的科学の勝利】に他なりません。オカルトや陰謀論の隙など、どこにも存在しない美しいファクトです」
データ至上主義者である氷室の、あまりにも冷徹で揺るぎない先制攻撃。
しかし、その言葉を聞いた轟大吾の顔つきは、険しく強張ったままだった。
轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、モニターの光線を睨みつけた。
「……氷室。お前は表向きの民間データ、つまり『科学の綺麗事』しか見ていない」
「綺麗事、ですか?」
氷室が不快そうに眉をひそめる。
「軍事の世界において、技術の革新には必ず【血の匂いと国家の悪意】がへばりついているものだ」
轟は長机の上に自らの暗号化端末を叩きつけるように置くと、太い指で画面を操作し、別の極秘通信ログを巨大モニターに割り込ませた。
そこには、アメリカの国防高等研究計画局(DARPA)、中国国家宇宙局、東北アジアの軍事境界線、そしてロシア連邦宇宙局の、不自然なまでに完全に一致した【軍事予算の推移】が記録されていた。
「これを見てみろ。ここ数年、世界中の超大国が、宇宙防衛予算の実に4割近くを、特定の宙域に向けた『民間未公開の超大型光学望遠鏡(レーザー捕捉アンテナ)』の建設に極秘裏に注ぎ込んでいる」
「各国の宇宙軍が、光通信の受信設備を競い合って建てている……ということですか?」
氷室が眼鏡の奥の瞳を細める。
「競い合っているんじゃない」
轟が、分厚い両手で長机をドンッ!と激しく叩きつけた。
「奴らは全員、同じ宙域を向いて、全く同時に【傍受(盗聴)】を行っているんだ! なぜ、アメリカも中国もロシアも、自国の通信衛星ではなく、遥か深宇宙の、誰もいない空白の宙域から届くレーザー光を、必死になって盗み見ようとしている!? そこには、民間に公開されている探査機など一台も存在しないはずだぞ!!」
「大国による、見えざる光の同時傍受……」
パーカー姿の七海悠太が、自分の肩を抱きしめるようにして、ガタガタと椅子の上で震え出した。
「ええっ、それってつまり……誰もいないはずの宇宙の奥底から、国がこっそり隠すような【謎のメッセージ】が届いてるってことですか……!? 怖いですよ、それ!!」
「恐怖を感じる必要はないわ、七海くん」
密室の淀んだ空気を切り裂くように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映る赤い光線のイメージをうっとりと見つめた。
「その光は、どこかの宇宙人が送ってきた生温かいメッセージなんかじゃない。もっと根源的で、恐ろしいほどに神聖な【記述】よ」
「記述……?」
氷室が、怪訝な顔で烏丸を睨む。
「ええ」
烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、モニターの光線をなぞるように動かした。
「歴史を遥か古代まで巻き戻してみて。すべての文明の神話、とりわけ旧約聖書の冒頭に、何と書かれているかしら? ……『神は言われた、光あれ。すると光があった』。世界が作られる最初の一歩は、いつだって【光の照射】なのよ。古代の人々は、スピリチュアルな感性でその真実を理解していたわ」
烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、会議室の全員を見回した。
「宇宙から届いているその大容量の光通信。それはね、かつてこの世界を無から創造した存在が、今もなお送り続けている【天地創造の設計図】そのものなのよ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。
特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。
彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーを掴んで猛烈な勢いで図式を書き殴り始めた。
「繋がったぜ!! 氷室, 轟, 烏丸! なぜ電波じゃなく【光通信】なのか、なぜ超大国が狂ったようにそれを傍受しているのか、その悪魔的な理由がな!!」
「御子柴さん、またあなたの悪い癖だ。これ以上論理を飛躍させないでください!」
氷室がタブレットを握りしめ、立ち上がる。
「飛躍だと!? 違う、これは完璧な【最適解(答え)】だ!!」
御子柴が、黒のマーカーの先でホワイトボードの『光通信』という文字を強く叩きつけた。
ダンッ!!という激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。
「氷室! お前はさっき、光通信は電波の1000倍の容量を運べると言ったな! なぜ1000倍もの大容量が必要なんだ!? 画像や音声、そんな陳腐なデータを送るためじゃねえ!! この三次元空間の【物理法則、素粒子の配置、生命の設計図】、そのすべてを同時に書き換えるほどの、天文学的な量の情報を流し込むためんだよ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。
「大国のお偉いさんどもはとっくに気づいてやがるんだ! 宇宙から照射されているあのレーザー光には、この世界を無から作り直し、物質を根本から変調させるための【天地創造の実行コマンド】が記述されていることに!!」
「な、何だって……!?」
轟の巨体が、戦慄で大きく震えた。
「奴らは宇宙人と交信してるんじゃねえ! 宇宙から届く【世界の設計図】をいの一番に傍受し、それを解読することで、この地球上の物理法則を意のままに操る『神の権力』を手に入れようと、闇の中で血眼になって光を奪い合っているんだよ!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。
「科学の進歩だの、大容量データだの、笑わせるな!! あの宇宙からの光通信は、世界中を裏から牛耳る大国どもが、人類の現実を概念ごとアップデートし、支配するための【究極の創世兵器】なんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、パイプ椅子から床の上へと転げ落ちた。
「俺たちが夜空を見上げて『星が綺麗だな』って思ってたあの光の中に……世界をバラバラにぶっ壊して作り直すような、ヤバすぎるプログラムが隠されてたって言うのかよ……!!」
夜空から絶え間なく降り注ぐ、不可視のレーザー。
超大国たちが隠蔽し、貪り食う宇宙の最高機密。
それは、人類の現実そのものを根底からひっくり返す、天地創造のシグナルだったのだ。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない第4会議室の壁に叩きつけられた。
無機質な空調のモーター音が、まるで深宇宙から届く謎のパケットを冷酷に受信し続けるアンテナのように、低く、重苦しく、彼らの頭上で鳴り響いていた。




