第2話 肯定
審問の朝は、五日後に来た。
書簡が届いた日から五日。王都から巡回審問官がわざわざ辺境伯領の支部まで下ってきて、辺境伯領の領都の監査所でその日のうちに第一審問が開かれる運びになった。通常の法手続きとしては、異例の速さだった。こちらから要請を出したわけでもないのに、先方の歯車が勝手に回っている、そういう速さ。
誰かが急がせている。
五日の間、私はその誰かの顔を考えないようにしていた。考えても答えが出ないなら、考える時間は別のことに使う。帳簿と同じだ。合わない数字を前に焦っても、原因は見えない。
代わりに、私は八年分の控えを読み返した。
バルトゥール伯爵領、備蓄管理台帳。四年前の秋の頁。転売の記録。同じ日付のあたりを何度も見返した。その時期、私は何の帳簿を書いていたか。どんな気候の季節で、どんなインクを使っていたか。窓から差し込む光が机のどの辺りまで届いていたか。細かいことまで思い出せる。思い出せるほどに、あの頁の嘘が許せなくなる。
けれど今日の審問では、私はその嘘を、まだ剥がさない。
◇
「馬車の支度が整っております」
扉の外からマティアスの声がして、私は一度だけ息を吸った。
帳簿室の鏡を覗いた。旅装ではなく、きちんとした上着に着替えている。子爵令嬢としての装いを、久しぶりに身につけた。北方に来てからは普段着の地味な上着ばかりだったから、襟元のレースが少しだけ喉元で硬く感じる。
机の上の帳簿控えを、藍色の布にくるんだ。七冊の中から、今日持っていくのは関係する四年前の一冊だけ。残りは机の引き出しに鍵をかけて戻した。
廊下に出ると、ヴェルナー様が立っておられた。
旅装ではなく、正式な外套。辺境伯の記章を胸元につけておられる。胸元の銀色が、朝の光を受けて冷たく光っている。こういう装いのヴェルナー様を、私は初めて見る気がした。交渉の席にも執務の場にも、この記章を付けておられるのは見たことがあるけれど、今日の装いは、それより硬い。
この方は、今日の審問に、辺境伯として臨もうとしておられる。
個人ではなく、領主として。私の後ろ盾として。
「……閣下」
「ヴェルナー、だ」
短く言われた。口調はいつも通りだ。けれど私は、その「ヴェルナー、だ」の後ろに、別の一言が呑み込まれている気がした。言葉にされなかった一言を、私は拾い方を知らない。
馬車に乗り込んだ。向かい合わせの席だった。北方の春は、日中でもまだ風が冷たい。
◇
監査所は、領都の北の外れにあった。
石造りの地味な建物で、普段は税収の集計と文書の保管だけを行う場所らしい。表玄関の上の紋章が古びていて、長年の雨風で縁のあたりが欠けている。巡回審問官が座る部屋は、奥の方の少し広めの一室で、天井は高くない。
審問官は、痩せた中年の男性だった。
灰色の髪をきちんと後ろになでつけていて、机の上に書類の束を整然と並べている。書類の角を揃える手つきは、悪くなかった。角を揃える癖のある人の審問は、悪くない。手続きを正確に守る人は、感情で判断しない。
傍聴席には、辺境伯領の財務関係者が数名と、記録係の書記が一人。
それから、一番後ろの席に、若い官服の男が一人。
見覚えはなかった。年若い、官吏としてまだ日が浅い顔。手元に分厚い帳面を置いていて、審問の記録を取るために同行した補佐官らしい。背筋だけがやけにまっすぐで、机の上に置いた手が、少しだけ緊張している。
私は自分の席に着いた。
ヴェルナー様は傍聴席の側面、辺境伯の立会人として用意された席に座られた。領主の公式な立ち位置だ。私と同じ机には着かれない。私の戦いには、私の席でしか立てない。
◇
審問官が開会を告げた。
「本日の審問は、バルトゥール伯爵領・過去八年の会計記録に関する追補調査である。対象者、リゼット・ヴァレンシュ嬢」
形式通りの前文だった。
審問官が書類を一枚、机の向こうから差し出した。例の写しだった。鑑定魔法で浮き上がらせた、銀色の筆跡の複製。
「この頁を、書き記したのは、誰か」
直截な問いだった。
遠回しな前置きもなく、核心の問い。手続きに迷いのない人の問い方だ、と私は思った。無駄がない。
私は写しを手に取った。
手に取って、五日前の朝と同じ場所を、同じ光の下で、もう一度見た。縦線の硬さ。四の書き始めのわずかな下向き。桁を揃える時の行間。全部、私の手から出てきた線だ。
顔を上げた。
審問官の顔をまっすぐに見た。それから、傍聴席の方には目を向けなかった。向けたら、ヴェルナー様の顔が視界に入る。入ったら、言えなくなる気がした。
「はい」
短く、答えた。
「これは、私の筆跡でございます」
◇
審問室の空気が、底のほうで止まった。
書記のペンが紙の上で一度だけ空を切って、インクの滴が落ちる前に止まった。審問官の眉が、わずかに動いた。
傍聴席の後ろの方から、短い息を呑む音が聞こえた。
審問官が、書類の角をもう一度そろえ直した。手癖だろう。困惑した時に出る手癖。
「……確認する。ヴァレンシュ嬢。あなたは、本頁の記載を、ご自身の手によるものであると認めるか」
「認めます」
「バルトゥール伯爵領・備蓄管理台帳・四年前の秋の当該記録を、あなた自身がお書きになったと」
「はい」
もう一度、同じ言葉を返した。
審問官は、すぐに次の質問を続けなかった。書類の束をめくり、一つの頁を探し、また戻した。こういう反応の来方を、彼は予想していなかったのだ。認めないだろう、と思って来た。否定の言葉に対して、鑑定の証拠を突きつける段取りを、頭の中で組んでいた。その段取りが、私の「はい」の一言で崩れた。
傍聴席の書記が、こちらをちらりと見た。
一番後ろの若い補佐官の手が、帳面の上で止まっていた。止まった指先が、紙の上で、何かを探すように一度だけ震えた。震えて、すぐに止まった。
見ている。
私の答えを、この若い人は、何か別の角度から見ている。
けれど、今日はまだ、ここまでだ。
◇
審問官が、息を一つ整えて、口を開いた。
「次回の審問において、当該記録の成立経緯について、さらなる詳細の陳述を求める。本日はこれにて第一審問を閉会とする」
木槌が、乾いた音で机を叩いた。
私は立ち上がって、一礼した。審問官に向けて、それから傍聴席に向けて、浅く。背を向けた時、目の端で、ヴェルナー様の姿が視界に入った。
動いておられた。
すでに、席を立って、こちらへ歩いてきておられた。
◇
審問所の裏口の廊下は、誰もいなかった。
ヴェルナー様が私の腕を取られた。いや、取られた、というには力がなさすぎた。手首の上のあたりに、指先が触れただけ。けれど止めたい、という意思は、その触れ方にはっきりと乗っていた。
「……何を考えている」
低い声だった。
低い、けれど、抑えきれていない声。初めて聞く種類の声だった。いつもの短い口調ではなく、いつもの読めない無表情でもなく、その奥にあった何かが、声の形を少しだけはみ出していた。
「あなたは、書いていない。五日前にそう言った」
「ええ」
「書いていないものを、書いたと、認めた」
「はい」
「なぜだ」
問いの声が、廊下の石壁に一度跳ね返って、すぐに吸われた。
私はヴェルナー様の顔を見上げた。眉の間の皺が、五日前より深くなっていた。この方は、この五日間、ずっとこの皺を背負っておられたのだ。私が帳簿の余白を確認している間ずっと。
「ヴェルナー様」
私は、自分の声を静めた。
「あの写しには、確かに私の筆跡が浮き上がっておりました。鑑定魔法は、私の手の線を完璧に写し取っております。この場で否定しても、証拠に勝てる道はございません」
「だから認めたのか」
「いいえ」
首を振った。
「認めた理由は、別にございます。けれど、それを今お伝えすることは、できません」
ヴェルナー様の指先が、私の手首の上で、一度だけ強くなった。
強くなって、すぐに、ゆるんだ。
「……信じろ、ということか」
「信じていただけるかどうかは、私の方から要求できることではございません」
私は自分の手首を、ゆっくりと下ろした。
ヴェルナー様の指が、一緒に下りてきて、離れた。
「けれど」
私は小さく付け加えた。
「明日の朝まで、どうか、剣置き場には近づかないでいてくださいませ」
ヴェルナー様が、ほんの少しだけ、目を伏せられた。
頷くでも頷かないでもない、小さな動き。それだけを残して、廊下の向こうから馬車を回すマティアスの足音が近づいてきた。
◇
帰りの馬車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。
北方の午後の光が、山肌を斜めに照らしている。頂の雪が、朝よりも少し色を変えていた。どうして頂だけ最後まで雪が残るのか、私は未だに理屈を知らない。
知らないことが、今日の私には少し、慰めになった。




