第13話【愛を見つめて・後編】
「っ、うう……ここが、城ヶ崎さんの中、でしょうか」
ゼロツーはあたりを見渡す。不思議な感覚だ、智代子に生まれた次元のズレの中に入るなんて。
あたりはどこかで見たことあるような景色が広がっていた。和の風格がある家を前にして、ここはどこかと記憶を漁る。
しかし、近くに置いてあった表札を見て、ゼロツーこの場所を思い出した。
「城ヶ崎さんの家……でしょうか」
記憶の中より、少しだけ綺麗に見える家を見て、ゼロツーはゆっくりとその敷居を足を入れる。お邪魔しますなんてそんなことは言わなくてもいいだろう。
通信は作動しない。ドクターからの指示もなしに、この世界のどこかにいる智代子を探さないといけないのか。
次元のズレは次元獣が生み出したものならば次元獣を倒せば基本的に自然消滅をするが、人間の場合はどうなるのだろうかわからない。とりあえず智代子の体の中ならば、彼女の心がどこかにあるのではなかろうか。
次元のズレの中はその生まれた場所によって異なる。智代子に生まれたのならば、ここは彼女の精神世界と言っても変わりないだろうから。
つまりこの家があるのは、智代子の心と深く繋がる場所の一つだからだろう。ならば、ここに智代子がいる可能性は高い。
智代子に会えばなにかしらの解決はできるはずだ。今はとにかく彼女に会うことを先決にしないといけない。そうすればなんとかなるはず。
……と、ここまで推論を立ててきたが、ゼロツー自身よくわかっていない。ドクターに聞けばなにかしら回答はくれるだろうか、人間に次元のズレを生み出したというのは、それだけで規格外なのだ。
慎重にゼロツーは歩を進める。ギシギシと軋む床の音は出さないように、忍者のように、そして闇に紛れるように。
ふと気づくと、智代子の部屋の前に立っていた。彼女の家で知ってるところといえばここしかないのだから、必然的に行き着くのかもしれない。
ゆっくりとドアを開けて、中に入る。そこには、誰もいない部屋があった。しかし、中は人形やピンクのベッドや机。まるで子供のような部屋がそこにあった。
「城ヶ崎さんが子供の頃は、こんな部屋だったのでしょうか」
しかし、ここに智代子はいない。他のところを探そうとドアを閉めようとした時、近くで足音が聞こえた。
この世界にはゼロツーしかいないはず。そして物音には万全の注意を払っていた。ならばこれは、ここに誰かいることの合図でもある。
ドアを閉め、その足音がする方へ駆け出した。ゼロツーから逃げるように、小さな影が出口に向かって走っていた。
「っ——!」
ゼロツーは一気に加速した。そして逃げようとしていた影の肩を掴む。影は小さな悲鳴をあげて、立ち止まる。
影は金髪で、幼い少女だった。彼女を見て、ゼロツーは直感的に感じ取ることがあった。
「……城ヶ崎、智代子さん?」
「…………」
その影は、智代子をそのまま小さくしたような顔をしていた。そして、その言葉に応えるように、その影は小さく頷いた。
「なんでわたくしのなまえをしってるのですか?」
「それは……いえ、なんでもいいでしょう。とにかくあなたに会えてよかった。早く……あー……」
説明が難しい。智代子になんと言えばこの世界を修復できるのか。いうのもやるのも難しいところである。
「……もしかして、へんしつしゃさんなのですか?」
「違います。私は……緑川沙紀です。変質者じゃないです」
「でもすごいかっこうですわ。みずぎのようなふくそうですの」
「……仕方ないです、これは。気にしたら負けです」
ゼロツーの戦闘服は、確かにかなり際どい。この服装自体に、少し思うところはあったが、ゼロツー用にカスタマイズしているからこそ、ゼロツーはこれを着るしかない。だからもう慣れたし、気にしてはなかったが、言われてみると少しだけ恥ずかしくなる。
コホン。ゼロツーは小さく咳をして、しゃがんだ。智代子と目線を合わせて、ぎこちなくにこりと笑う。
「城ヶ崎さん、私ときてくれませんか。ここを正常に戻す手伝いをお願いしたいです」
「それならかんたんですわ。わたくしあんないできましてよ」
「っ、それは本当ですか?」
「ええ、ほんとうですわ。わたくしはうそをつきません……でも、ひとつだけ、おねがいしたいことがございますの」
「なんでしょうか?」
お願いか。何を言われるかわからないけれども、情報をくれるのだから、よぼと無茶じゃない限りは聞くべきだろう。
そうすると、智代子は小さな手を差し出してきた。
「てをつないでくださいまし」
「……わかりました。ただ、急いでください。こちらにも時間はありませんので」
そんなんでいいのか。少しだけ拍子抜けしながらも、智代子の手を取る。やわらかい、少女の手だ。
ヒタヒタと、廊下を歩き、外に出る。智代子はその間ずっと無言だった。ゼロツーも喋るタイプではないので、無言の時間が続いていく。
歩きながら気づいたことだが、周りはどうやら有月市とは大きく異なるように見える。まるでおもちゃのブロックをメチャクチャにくっつけたように、歪な形だった。
「ここは、わたくしのきおくのせかいですわ」
記憶の世界。その言葉を頭の中で何度か咀嚼して飲み込んだ。
「記憶の世界、ですか。次元のズレが生まれると人間はこうなるのか……」
「ええ。そしてここにはわたくしのこころが、じがをもっております。そのなかの……こどものこころがわたくしですわ」
「そうですか……じゃああそこにいるのは?」
「わたくしのなみだ……つまりかなしみですわね」
大泣きしてる智代子を指差して、子供の智代子はつぶやいた。他にも、顔を真っ赤にして怒っている智代子や、ふわふわとニコニコ浮かんでいる智代子に会う。
見た目と声は智代子と変わらない。しかし、心が自我を持っている姿だからだうろか、上手くコミュニケーションは取れなかった。
しばらく道を進むと、一つ。見覚えのある場所に着いた。確かここは、智代子と共に連れ去られた倉庫の前だった。
ここで、私は初めて智代子と話した。少しだけ懐かしい思いになると同時に、倉庫の扉が重い音を立てて開く。子供の智代子はその先に行けと、目配せをしていた。この先に答えがあるのだろうか。
ゼロツーはゆっくりと前に進む。中は薄暗かったが、外の薄い光で、中を見るのには苦労はしなかった。そして、真ん中には一人の少女が座り込んでいた。
じっと、こちらを見つめる目は、冷たい氷のように感じてしまい、ゼロツーは全身が震えた。しかし、探していたものはいた。ゼロツーは息を整えたのちに、口を開ける。
「城ヶ崎さん、ですよね」
「まぁ、緑川さま。どうしてここに?」
「貴方の身体に次元のズレが出てしまっています。早くなんとかしないと、貴方の体は取り返しのつかないことになります」
「……なんとかって、何をすれば良いのでしょうか」
「いつもの通りなら、ここのどこかに次元のズレを安定させている次元獣がいるはずです。貴方の世界ならば、貴方なら見つけれるかと」
「……次元獣がいなかったら?」
「その時は自然消滅するまで待ちましょう。貴方はおそらく城ヶ崎さんの根っこの心の部分。何か起きてからでは遅いですので、私と共に来てください」
「……いえ、逆ですわ。貴方がここに残ってくださいまし」
その瞬間、倉庫の床が揺れ始める。危険を察したゼロツーが横に大きく飛ぶと、先ほどまで立っていたところに、大きな穴が開いていた。
そして、その穴から一本の大きな手が延びていた。それは獲物を逃したことを悔やむように、地面の中に消えていく。
今一瞬だけ、次元獣の気配を感じた。つまり、あの巨大な腕が次元獣だと言うのだろう。
しかし、今。結論をつける優先度が高いのは、次元獣の方ではない。ゼロツーは細心の注意を払いつつ、智代子に目を向ける。
「貴方は何者なんですか」
「ふ、ふふ……いやですわ、わたくしも智代子ですわ。少しだけ、醜い、わたくしですわ」
智代子はそう言って、手を前に差し出した。すると、地面が突然盛り上がり、ゼロツーは立っていられなくなる。
智代子は何か、土台のようなものに乗っており、そのまま上に持ち上げられる。揺れる大地の影響で崩壊する倉庫から智代子を守るように、無数の腕が智代子の上に屋根を作った。
ゼロツーは転がりながら倉庫から出る。何度も咳払いをして、煙が晴れるのを待った。
煙を突き破るように、腕が伸びてきた。ゼロツーはそれを紙一重でかわした。伸ばした腕は、何かを使うように空中で手を握り、そのまま消えていく。
「まぁ、たいへんなことになってますわね」
声が聞こえた。その方を見ると、物陰から顔をひょっこりと出した子供の智代子と目があった。
物陰に隠れていた子供の智代子が手真似をして、ゼロツーを呼ぶ。その間には、無数の腕は、何かを探すようにあたりを漁り始めていた。
「あれは、なんなんですか」
「みにくいわたくし。わたくしがかくしたかったぶぶんです」
「醜い、城ヶ崎さん。ですか。彼女の醜い部分……それは一体?」
「くわしくはわたくしにきいてくださいまし」
の智代子はそう言って、小さく笑った。
(子供の精神にしては、かなり落ち着いてますね……いや、これ自体を遊びだと考えてるのか……)
「緑川さま、隠れてないで出てきてくださいまし」
息を一つ吐く。今できるのは、隠れることではなく、前に進むこと。ゼロツーは前に大きく飛び出した。
こちらを見つけた智代子は無数の腕を差し伸ばしてくる。一つ一つだけなら、避けるのは容易いことだが、数があまりにも多すぎる。
捕まったらどうなるか。そんなことを考えは頭を振り、かき消す。とにかく今は、あの、腕を倒さないといけない。
「フッ——!」
避けながら、腕に蹴りをめり込ませる。グギィと、肉が潰れるような音がして、腕は地面に叩きつけられた。
その後、しばらく蠢いたかと思うと、ピクリとも動かなくなる。どうやら、腕自体はそこまでの強さはないようだった。
(問題は、数。か……時間はかかるが、集中すれば必ず……)
一つ一つ、ゼロツーはかわしていく。そして、腕を倒すと言う作業を続けていく。この世に無限はない、いずれ尽きるはずだ。ゼロツーはそう考えていた。
汗は滲み、少しずつ。呼吸も荒くなっていく——そのうちゼロツーは、考えたくないことを考え始め——舌を一度小さく弾いた。
二つ、三つ、五つ、七つ。
十本、十五本、二十三本、二十六本。
三十四本、二十八本、三十二本。
今何本目かわからなくなってきた。ゼロツーは無限とも思われるその時間に囚われ続け——
「しまっ……」
とうとう腕に体を押さえつけられた。地面に強く叩きつけられて、ゼロツーは口からカエルが潰れたような声を出す。
抜け出そうにも、ゼロツーの残った体力では、少しもがくことが限界で、グギリと、体の悲鳴の音を聞くことしかできない。
ズルズルと、ゼロツーは腕に引きずられる。そして、真ん中に座っていたであろう智代子と、目があった。
「ようやく捕まえましたわ。鬼ごっこはわたくしの勝ちですわね」
智代子は笑っていた。優雅に、可愛らしく。
「ああ、腕ですけど。これ、わたくしも数えられないくらいはあるので……ふふ。無駄なことでしたわね」
そして彼女は腕を撫でる。それは、可愛さと優雅さとは程遠い、邪悪さを感じるには充分だった。
「貴方はなぜ、私を捕らえようとするんです」
「ふふ、だって貴方は……わたくしだけのものにしたいから」
ゼロツーの呟きに、智代子は答えた。言ってる意味がわからず、ゼロツーは訝しげな声を出す。
智代子はくすくすと笑い、そして続けて口を開ける。
「わたくし、初めて貴方のことを意識した時、おもいましたの。わたくしのそばから離したくないって」
「……どう言うことですか」
「言葉通りの意味ですわ。いつも一人の貴方をみて、わたくし。貴方を所有物にしたいって思ったのですわ。ふふ、ふふ……そのためならなんだってします」
所有物にしたい。智代子はそう言って、うっとりと笑った。ゼロツーは自分に向けられてるその視線に、強い寒気を覚える。
「ここに残ってくれるなら、わたくし、貴方を生かしてあげますわ。その代わり、逃げるようでしたら——」
ギチチ……腕の力が強くなり、ゼロツーの全身から悲鳴が聞こえる。苦痛による声も張り上げてしまい、ゼロツーはぐるぐると脳内がごちゃごちゃに混ぜられていく。
苦しい、死ぬ。ゼロツーは目が白黒に点滅し始めた。智代子の笑顔は、それでも終わらない。
「く、ぅあ——」
ゼロツーは、そこで意識を手放してしまった。
◇
「緑川さま!」
「緑川さま?」
「緑川さま〜」
「緑川さま」
声が、聞こえる。たくさんの、一人の少女の声が、聞こえてくる。
「喫茶店に行きませんこと? 最近新しいメニューが出たらしいですわ」
「聞こえておりまして? も〜無視なんてひどいですわ!」
「一緒に帰りませんこと? 家まで送りますわよ!」
一つ、一つ。声が、流れていく。意識が消えていき、このまま魂まで消えていく。いや、もう消えてしまいたいのに、その声は、消えることはなかった。
「わたくしは、ここにいます。だってわたくしは——」
◇
「——なっ」
「が、がぁ! ぬがぁああぁ!」
消えていく意識。しかし、そこから戻ってきたゼロツーは、持てる力全てを振り絞り拘束を解こうと、全力をこめていた。
智代子は慌てて残りの手を増員し、ゼロツーを包み込む。その姿を見た彼女は、ニヤリと小さく笑った。
「無理ですわ! あなたはここで、わたくしと過ごすしか残されておりませんわ……!?」
「ながああああぁ!!!」
ブチブチブチ——! 物を引きちぎれる音がして、智代子を包んでいた腕は四方八方に飛び散った。全身から血を流し、ぼろぼろになっているゼロツーが智代子の方を見つめている。
肩で激しく息をして、顔を青くして、目が虚な彼女は、倒れていてもおかしくない。しかし、ゼロツーは立っていた。それが現実だった。
「な、なんで……なんで、立っていられるんですの……!」
「ぜぇ……ハァ……ん。んんっ……!」
「なんで折れないんですの!? はやく、わたくしのものになってくだ——」
「あなた、は……醜い心だと、聞きました……」
「っ……そうですわ。わたくしは貴方を自分のものにしたい。わたくしだけを見る存在にしたい! そんな醜い、最低な、心——!
「ぐ、ふっ……そうかも、しれませんね……でも、だから、なんなんですか……?」
「……え?」
ゼロツーは不敵に笑う。その顔を見て、智代子は、ぞくりと、小さな寒気に襲われた。
「しゃ、喋らないでくださいまし!」
「私のことを所有物にしたい貴方も……子供みたいな貴方も……笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりする貴方も——」
智代子は耳を塞ぐように、無数の腕をゼロツーに襲い掛からせる。それら全てを、ゼロツーは紙一重で避けながら、確実に、着実に、前に進んでいく。
「やめてくださいまし! わたくしは、貴方にひどいことをしようと、少しでも考えてるのですわ! なのに、なぜ——!」
「ひどい、なんて……私は思ってない、ですよ……それに人間なんて、一つくらい隠したい、醜いところもありますよ。それが知れて、むしろホッとしてます」
「う、わたくしは……わたくしは……!」
無数の腕は、やむことなく。ゼロツーはまた捕まってしまう。しかし、彼女の顔はもう穏やかに笑っていて、指の隙間から、手を差し出す。
「貴方は私のことを、友達だと言ってくれた……その時、とても私は嬉しかったです」
「み、緑川……さま……」
「だから、今。いいます……友達に、なってくれますか……智代子さん」
その瞬間に、まるでそこになかったかのように腕が消えていく。支えを失ったゼロツーは、ふらりとその場に落ちていく。
糸が切れたかのように、彼女はそのまま前に倒れようとした。
しかし彼女は、倒れなかった。智代子が、ゼロツーを抱き支えていたのだ。ぎゅぅと、力強く抱きしめる彼女を見て、ゼロツーは少しだけ、顔がにやけてしまった。
「ごめんなさい、わたくし……貴方に対して、失礼なことを……」
智代子はポツリとつぶやいた。その言葉に、ゼロツーは首を横に振り、口を開ける。
「貴方に一度、私は助けられたのだから……次は、私の番。それだけです」
「緑川さま……ありがとうございますわ……」
そう言って彼女はゼロツーを抱きしめる。優しく、暖かい温もりをゼロツーは感じた。
この温まりこそが、彼女本来の心なのだろう。
◇
ドォン!!
「数が多い! どんだけいるんスか!」
智代子を守りながら、紫は悪態をつく。それもそのはず、次元獣は留まることはなく、無限に増え続けていたから。
早く帰ってきてくれ。と、無意識にゼロツーのことを期待している自分に喝を入れ、目の前にいる一体一体を、確実に、一撃で処理していく。
数が多いからか、戦闘力自体は低いようだった。それでも、紫たちにとっては、絶望と言えるような戦力差はあった。
「このぉ! あたいをなめんなよ!!」
「女の子が頑張ってるんだ! 俺が諦めてたまるか!」
千枝が叫び、綾部が気合を入れて、戦い続ける。しかし、現実は非常だ、数で勝る次元獣は、やがて彼らを追い詰めていく。
過呼吸になっても、汗が止まらなくても、口から吐瀉物が出てしまおうとも、次元獣は止むことはなかった。
「しまっ——」
そしてついに、数体の次元獣が倒れている智代子に向かって飛び掛かる。今から走っても間に合わない。その気持ちともに、次元獣によって、智代子は見えなくなった。
終わった。全てが。そう思った時、遠くから「まぁ!」と言う、大きな声が聞こえた。その声を出したのは——
「ようやく、ようやく……二人の愛が……愛が!」
——バチィ!
次元獣が、爆発に巻き込まれたように大きく吹き飛ばされた。そしてその爆発の真ん中には、一人の少女が当たり前のように立っている。
「この世はヤるか、ヤられるか……貴方はどっち?」
「っ——沙紀さん!」
体がボロボロになっているが、ゼロツーは無事だった。こくりと、彼女は紫を見て頷く。
「あ、ああ、なんということ! やはり愛は! 愛は素晴らしい!!」
「…………」
ゼロツーは、一瞬だけ、息を吐き。そして、土を蹴散らして走り出す。周りにいた次元獣は、ゼロツーを止めようと襲い掛かるが、それら全ては一瞬で塵と化す。
ニヤニヤ笑っているベニヒメに向かってゼロツーは蹴りを繰り出した。ベニヒメは、それを受け止めて、恍惚な表情を浮かべる。
その時、空いた掌をベニヒメはゼロツーに向かって仰いだ。わずかに感じる甘い香りに、紫は嫌な予感に襲われる。
「ハハぁ——! 至近距離からの毒の香り! 流石に貴方も耐えられ——」
「——うるさい」
ガゴォ! ゼロツーの蹴りに、ベニヒメは弾かれる。何が起こっているのか、周りの者は誰も理解してなかった。
地面に激突したベニヒメは、それでも薄ら悪い笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がる。ふらつく足の彼女と、まだ前を見据えてる彼女。勝負は明白だった。
「く、ふふひひ……私の負けです……」
「……解毒剤の場所だけ聞きます。どこですか」
「ふふ、ひひ……解毒剤は、そうですね……ふひひ……強いて言えば……」
ベニヒメはそう言って、ゼロツーを指差した。
「……やはりお前は毒なんて仕込んでなかったのですね」
「次元のズレは……ふひゅ、毒みたいなものですよ……で、どうするんですか?」
そのベニヒメの問いに、ゼロツーは足を強く踏み締めて答えた。バチバチと光る青い光は、この狭い部屋を覆っていく。
ベニヒメは、その時いっそう大きく笑い始めた。青い光の音と笑い声は、この世界にこだましていく。
「貴方は私に……ふひ、素晴らしい愛を見せてくれた……そのお礼に、一つ教えてあげますよ」
「…………」
「ゼロワン様は貴方の帰りをまだ待ってますよ——ふひひ」
「そうですか」
「……ふひ、ふふひ……あぁ、最高の愛をみれて死ねるなら……本望で——」
ゼロツーはベニヒメの胴体に向かって、回し蹴りを差し込んだ。ぐにゃりと言う音。そして、何かが弾けるような音が響き出す。
赤い雨が辺りに降り注ぐ。ゼロツーは地面に転がっている生き物だったものをチラリとみたあと、深く、息を吐いた。
「う、うん……? あら、わたくし……なにを……」
智代子が目を覚ましたらしい。その時、先程の智代子の中でのやりとりをゼロツーは思い出した。もしかして、とても恥ずかしいことを言ったのではなかろうか。
コホン。何度か空咳をする。先ほどあったことを智代子が覚えていないことを、心の底から願いながら。
◇
「……ベニヒメちゃんが死んだみたい……お母さん、悲しいわ」
「えっ——」
川が流れる橋の上で、白い服を着た女性。ゼロワンがつぶやく。その声を聞いていたもう少年は驚いたように目を見開いた。
「そんなぁ、ベニヒメさんが死ぬなんて……うえええん!」
「まぁ、泣かないでアリウムくん……ベニヒメちゃんは、精一杯やってくれたの。今は彼女の冥福を祈りましょう。ナムナム……」
ゼロワンは手を合わせて祈り出す。ドクン。彼女の心臓部分が、その時強く跳ね上がった。
愛を知れた彼女は、その愛をゼロワンに教えてくれてる。だから彼女の死は無駄ではない。むしろ、収穫だ。
口元が、少しだけ緩み出す。こう言う時は笑ってよかったっけ。それともダメだったか。そうにやけるゼロワンを見て、アリウムは遠慮がちに口を開ける。
「ゼロワン様……どうしたんですか……?」
「ああ、ごめんなさい。お母さんは大丈夫よ。それより、アリウムくんに頼んだことはやれてるかな?」
「は、はい!」
「頼りにしてるからね、アリウムくん」
ゼロワンはアリウムの頭をぐりぐり撫でる。すると、先程まで涙目だったアリウムの顔から、涙がどんどん減っていった。
ゼロツー、待っててね。必ずお姉ちゃんが救ってあげるから。
ゼロワンの考えは、誰もわからない。




