昼の賢者と、校舎裏の戦術会議(前編)
夜のIMA前。
街灯の下で待っていた佐藤遥先生は、昼間のスーツ姿ではなく、柔らかなニットに身を包んでいた。隣では、言い出しっぺの優子が「こっちこっち!」と大きく手を振っている。
「先生、本当に来てくれたんですね。……優子ちゃんも、暇だね」
「暇とは失礼な! 私は晶の開店準備を手伝いに来た、立派なスタッフなの」
優子が胸を張る。
僕は苦笑しながら、実家から運び出したトランクを引き、公園の奥へと歩き出した。
公園内は、暗黙の了解でゾーニングされている。
駅へ向かう人通りが多い中央付近には、蓮のような客商売の連中が陣取り。
そこから外れた静かな場所には、僕のような「停泊所」や、自分たちの世界に没頭する練習生たちが集まる。
いつものベンチにトランクを置き、琥珀色のLEDを灯す。
優子が手慣れた動作で折り畳み椅子を広げていると、闇の向こうから賑やかな音が近づいてきた。
「よう晶、今日も精が出るな」
翔だ。
デッキを小脇に抱え、数人のメンバーを引き連れて現れた彼は、僕の隣にいる女性たちに気づいて、少しだけ驚いたように足を止めた。
「兄貴! お疲れっす!」
翔の後ろにいた年下のメンバーが、僕に元気に挨拶する。
僕は軽く手を挙げて応え、翔の方を向き直った。
「翔、こないだからチームメンバーがこんなんなんだけど、ちょっと締めといてくれない? あんたの後輩たちだろ?」
僕が冗談めかして言うと、翔は「ああ?」と眉を寄せ、後輩の頭を軽く小突いた。
「おい、晶に迷惑かけんじゃねえぞ。……つーか、そちらさんは? 晶の彼女か?」
「……いえ、教育実習生の佐藤先生です。今日は僕らの仕事現場を見に来た、社会科見学。先生、あっちでスケボーを滑ってるのが、僕の……まあ、悪友です」
紹介された佐藤先生は、圧倒されていた。
昼間の教室では「生徒」としてしか見ていなかった少年たちが、夜の闇の中では、自分の足で立ち、自分のルールで生きる「個」として存在している。
翔たちが滑走路の跡地へと消えていく。
アスファルトを蹴る音、デッキが弾ける乾いた音が、夜の空気に鋭く響く。
「……みんな、あんなに格好いい顔をしてるんだね。学校にいるときより、ずっと」
佐藤先生が、カフェオレのカップを両手で包みながらポツリと呟いた。
「そうですよ。……学校は、彼らにとっても『演じる場所』ですから。先生も同じです。でも、ここでは誰もがただの人間。転んでも、誰も笑わない」
僕は、トランクの中で静かに光るルーンと、真鍮のコインを指先でなぞった。
昼間の喧騒も、夕方の絶望も。
この夜の静寂の中に持ち込めば、すべては一杯の飲み物と同じように、誰かの血肉へと変わっていく。
佐藤先生は、遠くで跳ねる翔たちの影と、その向こうに広がる光が丘の空を見上げた。
そこには、夕方の空き教室で見た『星』のカードと同じ、小さな、けれど確かな光がいくつも瞬いていた。
「……来てよかった。本当に、社会科見学だね」
彼女の横顔から、夕方の焦燥は消えていた。
僕はそれを見て、静かにポットの蓋を閉めた。
今夜の停泊所も、穏やかな風が吹いている。
翔たちが滑走音と共に闇の向こうへ消え、公園に静かな時間が戻ってくる。
僕はトランクから予備のステンレスボトルを取り出し、真っ白な陶器のカップに注いだ。
「先生、ココアです。……ここの夜は、学校より少し冷えるから」
「ありがとう。……甘くて、温かい」
佐藤先生は、湯気に目を細めながら、ホッとしたように一口啜った。
電解質の補給で体の揺らぎを整えた夕方とは違い、今は濃厚なカカオの甘さが、凍てつく不安をゆっくりと溶かしていく時間だ。
「先生。……今、気になる方角を指さしてみてください」
僕の唐突な言葉に、彼女は少し驚きながらも、頭上に広がる冬の紺碧を指さした。
「……あそこ。すごく明るい星がある」
指先が示す先には、冬の夜空の主役たちが、その存在感を競うように瞬いていた。
「……シリウスですね。おおいぬ座の心臓。全天で一番明るい星です」
僕は彼女の隣で、同じ空を見上げた。
「シリウスは、どんな暗闇でも決して見失わないほど強い光を放っています。……先生は『授業が退屈だ』って言ってたけど、君の放つ言葉は、もう誰かを照らしているはずだよ。生徒の目が今は遠くても、その光が届く瞬間は必ず来る」
「……私の言葉が、誰かの光に……」
「そう。……それから、あっち。御者が馬車を操る姿の、ぎょしゃ座です」
僕はカペラが輝く五角形の星並びを指した。
「授業は、馬車みたいなものだと思う。今は手綱が重くて、馬たちがどっちへ行くか分からなくて怖いかもしれない。……でもね、御者は急いで走らせるのが仕事じゃない。馬たちと一緒に進むことが大事なんだ。焦らなくていいんですよ」
佐藤先生は、促されるままに星座の線を指先でなぞった。
夕方の教室で広げたケルト十字の十の紋様が、今度は天上の光となって、彼女の心に降り注いでいるようだった。
「……本当だ。あんなに明るいのに、今まで全然気づかなかった」
彼女の瞳に、シリウスの白い光が宿る。
完璧な教師という仮面を脱ぎ、一人の「佐藤遥」として星を見上げる彼女の横顔には、もう迷いの影はなかった。
「藤崎くん。……明日、私、もう少し生徒たちの顔を見て授業をしてみるね。……ありがとう」
彼女は飲み干したカップを僕に返し、晴れやかな足取りで駅の方へと歩き出していった。
一人残された僕は、ベンチに腰を下ろし、冷え切った手をポケットに突っ込んだ。
指先が、祖父の真鍮コインと、磨かれたボーン・ルーンに触れる。
昼の喧騒の中にある机。
夕陽が差し込む空き教室。
そして、夜霧が立ち込めるこの公園のベンチ。
形は違えど、どれもが誰かにとっての「停泊所」なのだ。
嵐の海を渡るための準備を整え、再び帆を張るための、静かな場所。
僕は再び空を見上げた。
オリオンの三つ星が、かつての滑走路を静かに照らしている。
――さて、開店の時間はまだ続く。
僕は静かに満足感を噛み締め、次の「旅人」を待つために、ミルに新しい豆を落とした。




