11の孤高
11の孤高
期末考査三日前。放課後の図書室は、蒸し暑い校舎の中で唯一、沈黙と冷房が保証された「聖域」だ。
「……藤崎先輩。この部報の校正、あと三ページです。終わるまで帰さないって、部長が言ってましたから」
ボブカットの眼鏡越しに、一年生の瀬戸しおりが冷徹な視線を向けてくる。彼女は文芸部の期待の新人だ。すでに二年生の数学すら「論理が美しくない」と切り捨てるほど予習を終えている天才肌で、実務能力も恐ろしく高い。
「わかってるよ。……でも、こっちの『壊れた針金』も何とかしてあげないと」
僕が指差した先では、優子ちゃんが数学のワークを前に、今にも泡を吹いて倒れそうになっていた。
「……朝倉先輩。その問題、解法を暗記しようとするから詰まるんです。筋肉と同じで、力の入れどころを覚えれば勝手に動きます」
しおりは迷いのない手つきで赤ペンを走らせる。一年生に教わる二年生、という奇妙な構図だが、背に腹は代えられない。
「……しおりちゃん、天才。でも、頭が痛い……」
「栄養不足です。はい、ラムネ」
しおりが淡々と優子ちゃんの口に糖分を放り込んだ時、近くの書架から一人の少女が音もなく現れた。
一宮千夜。以前、雨の日の占いで「読めない文字」を抱えていた彼女だ。彼女は図書委員として、返却された本の一冊一冊を、慈しむように棚へと戻している。
「……藤崎くん。また、騒がしいのを連れてきたね」
千夜ちゃんは、手にしも、さっき文芸部の部長がカウンターに来た。『晶を逃がすな、来年はあいつを部長にする』って、貸出カードの裏にメモしていったよ」
「……げっ」た詩集で口元を隠しながら、小さく微笑んだ。彼女は図書委員として放課後のほとんどをここで過ごしており、誰がどの席で何を読み、どんな悩みを持ってここに来るのか、図書室のすべてを静かに把握している。
「ごめん。試験前だから、少しだけ場所を貸してほしいんだ」
「いいよ。……で
思わず声が出た。三年生の部長――あの豪腕な先輩なら、やりかねない。
「逃げられませんよ、先輩。あなたがこの図書室に居場所を持っている以上」
しおりが追い打ちをかけるように告げる。
情熱をデータに変換しようとするダンサー二人と、言葉の海を見守る図書委員。
そして、それらすべての「重力」を整理しようと奮闘する、自称・幽霊部員の僕。
図書室の窓の外では、梅雨明けを告げる強烈な陽光がアスファルトを焼き、陽炎を揺らしている。
閉め切られた室内は冷房が効いているはずなのに、どこか重苦しい熱気が漂っているのは、試験を目前に控えた生徒たちの「焦燥」のせいだろう。
「……うぅ。なんで……なんで、さっき覚えたばっかりの公式が、もうどっか行っちゃうの……」
背後の円卓から、優子ちゃんの魂が抜けたような呻き声が聞こえてくる。パサリ、パサリと力なくページをめくる音と、時折机に突っ伏す鈍い音。それが今の僕たちのBGMだ。
「…ところで…藤崎先輩。あちらの騒音源をどうにかしていただくか、さもなくば場所を変えませんか。私の思考回路がノイズで汚染されます」
僕の正面に座る一年生、瀬戸しおりが、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせた。
彼女の前の机には、文芸部の部報に掲載予定だという自作の短編原稿が置かれている。だが、その白い紙面は、数学の答案用紙とは対照的に、驚くほど真っ白なままだった。
「ごめん。……それで、相談っていうのは? 数学の天才が、文字で詰まるなんて珍しいね」
「数学は論理です。AならばB、という美しい証明の鎖がある。でも、小説は違います」
しおりは苛立ちを隠さず、細い指先でペンを回した。
「感情……特に『心の混沌』というやつが書けません。怒りの中に悲しみがあるとか、愛情の裏に殺意があるとか。そんな非論理的で証明不可能な状態、バグでしかありません。……私は、自分の書く文字に納得がいかないんです」
彼女にとって、感情は「計算式の合わない数式」のような恐怖の対象なのだろう。
僕はトランクから、藍色の布と一本のペン、そして白紙のメモ帳を取り出した。
「……数字で、心を整理してみようか。瀬戸さん、数秘術って聞いたことある?」
「占い、ですか」
しおりの口調に、明らかな懐疑の色が混じる。
「統計学的な根拠があるなら聞きますが、確率でしか説明できないなら時間の無駄です」
「根拠というよりは、共通言語かな。……数秘術はね、ピタゴラスの時代から続く、誕生日や名前を数字に変換して、その人が持つ『本質』や『今年のテーマ』を読み解くものなんだ」
僕はメモ帳に、いくつかの数字を書き込みながら説明を続ける。
「数学みたいに計算で答えが出るから、君みたいな子には分かりやすいかもしれない。……でも、数字はあくまで『可能性』を示すだけの記号だ。それをどう解釈して、どう使うかは、最終的には君の自由だよ」
「……計算で出るなら、やってみてもいいですが」
しおりは渋々といった様子で、制服のポケットからスマートなデザインの関数電卓を取り出した。
「まず、君の誕生日を西暦から教えて。すべての数字をバラバラにして、一桁になるまで足していくんだ。それが君の『道』になる」
「2009年9月9日です」
彼女の指が、電卓のキーを正確に叩く。
2 + 0 + 0 + 9 + 9 + 9 = 29
2 + 9 = 11
「……11。一桁になりませんでしたが、計算ミスですか?」
「いや、それでいいんだ。11や22は『マスターナンバー』といって、特別な意味を持つ数字として扱う。……君の数字は11だね」
しおりは電卓の液晶に浮かぶ『11』という数字を、まるで新種の数式でも見るような目で見つめた。
「11はね、内省と直感……そして、目に見えないものを鋭く感じ取ってしまう数字だ。論理の枠に収まりきらない『神秘』を、生まれつき抱えていると言ってもいい」
「神秘……。一番、私が嫌いな言葉です」
しおりが苦々しく呟いたその時、後ろで再び「……あぁっ、もう! xがマイナスになるなんて、私の人生みたいじゃん……」という優子ちゃんの絶望した声が響いた。
僕は苦笑いしながら、しおりの『11』という数字の下に、静かに一本の線を引いた。
「嫌いなのは、それが自分の中にあるって、どこかで気づいているからじゃないかな。……論理で割り切れない自分を、君自身が一番怖がっている。そうだろ?」
しおりのペンを回す手が、ぴたりと止まった。
図書室の古い紙の匂いの中、僕としおりの間に、計算式では導き出せない「沈黙」が落ちた。




