ヘイリー、弟子を取る
まただ。
視線を感じて顔をあげると、こちらを見る緑色の瞳と目が合った。
『また何かやっちゃったかな』
なお現在、出勤に使う辻馬車の中である。
ヘイリーはとある貴族の屋敷に通いで雇われている料理人である。
といってもデセールを担当するパティシエールであるからして、最初の仕事は午前のティータイムである。
そのため少々ゆっくりした出勤だ。
辻馬車もぎゅうぎゅうという訳でもなく、
いつもゆったり席に座って移動している。
このところ、
辻馬車の中でよく視線を感じるようになった。
日に焼けた少年であったり、
同世代の女性だったり、
厳格そうな紳士だったりするのだが、
みなヘイリーをじいっ…っと見て、
目が合うとサッと逸らしてしまうのだ。
ヘイリーは恐れていた。
もしかして私、とんでもないマナー違反をしでかしてるんでないだろうか。
服装があまりに不適切、とかないだろうか。
それとも何か、私の顔に付いてるとでも言うんだろうか。
時間にして10秒ほどのことではあるが、
出勤前の、一日の割と始めのほうの時間にコレをやられると、やる気のような気力のようなものがゴリゴリに削がれるのであった。
職場である屋敷に到着し、
清潔な調理服に着替えるなり、
屋敷の主人であるナイーダ伯爵が厨房の入口に顔を出す。
「ヘイリー、今日も頼むぞ!
国家の命運は!
お前にかかっている!」
これは伯爵最近のお気に入りフレーズである。
ナイーダ伯爵は、
本来料理全般を請け負うことの多い料理人の仕事において、ヘイリーの作るスイーツを気に入りそれ専用のパティシエールなる専属職を作り出すなど、食に関しては大変前衛的な人物である。
あまりに食に貪欲なあまり、
たびたびこうして厨房に現れては、
このように変なプレッシャーの掛け方をしてくるのである。
「はいはい承知いたしましたよっと。
特別なリクエストでも?」
「おお、
客人はディナーにヘイリーのショコラをご所望だ」
「承知いたしました」
ナイーダ伯爵家には現在、
長期でお客様が滞在されている。
といってもヘイリーは裏方であるため顔も見たことがないが、1日に2度のティータイムには焼き菓子を、ディナーにはデセールをたくさん召し上がる甘味好きだ。
「さて、ショコラとな」
実はショコラはヘイリーの得意科目であった。
『火魔法の才能の無駄遣い』とは、魔法学園時代の同期の言葉である。
自慢じゃないが、火魔法にかけてだけは在籍中首席を譲らなかった。
派手な攻撃魔法も一応学びはしたが、ヘイリーはそのスキルを調理関連に全振りした。
ヘイリーのショコラのウリは、
その卓越したテンパリング技術からなる口溶けの滑らかさと、艷やかな見た目の美しさである。
さあご客人!
今日のスイーツも美味いぞ!
ご賞味あれ!
ーーーーー
「弟子」
「そう、弟子」
ヘイリーが本日の仕事を終え、今まさに帰らんとするその間際、ナイーダ伯爵がちょっとちょっとと手招きしていた。
ちょっとちょっとと執務室に招かれ、
ちょっとちょっとと珈琲を頂き、
ちょっと頼まれごとをしてくれんかねと切り出されたのは、なんと弟子を取れとのご要望だった。
しかも例のご客人絡みである。
「いや、先方はヘイリーのスイーツをいたくお気に召してな。
菓子作りの技術を仕込んでくれとのご所望でな」
「はあ」
「なるだけ多くの菓子を習得したいらしいのだが」
「滞在中だけでそれは無理ありますよ」
「ああ、だから一品だけ。
ショコラが最優先とのことだ。教えてやってくれんか」
「おお…」
よりにもよって難しいところを…
「ヘイリー、すまん。
ワシを、国を助けると思って、受けてくれ。
受けなかったらお前の身も危ういかもしれん」
おいおい、一気に不穏なワードが出てきたぞ。
「はいはい、わかりましたよ。
大げさなのはいつものことですけど、
伯爵には恩義がありますからね。
ショコラだけですよ」
「ありがとうありがとう!!!」
両手を掴まれぶんぶん振られ、
「じゃ、部屋用意してあるから!
今夜から昼夜問わずでよろしくね!」
パードゥン?
ヘイリーは思わず聞き返したが、
伯爵の執事に有無を言わさず客間に連行され、
ぽおいと投げ込まれバッタンガチャンと鍵を閉められてしまった。
監禁じゃないですかーーーー!!!
扉の向こうから執事の声がする。
「ヘイリー、くれぐれも、
くれぐれも、くれぐれも、
失礼のなきように」
3回も言ったよ…
執事の足音が去り、
ヘイリーが開かぬ扉を前にガックシとしていると、
「おい」
と後ろから声がして驚きのあまり飛び上がった。
「わあぁっ、びっくりした…
申し訳ありません、先にどなたかいらっしゃるとは。
ドアの鍵を閉められてしまいまして。
お目汚し失礼いたしますが、
脱出するまで少々お待ちいただけますでしょうか」
執事のやろう既に使用中の客室に間違えて放り込むとか致命的だぞ!!!
と内心プンプンヒヤヒヤしていると、
「伯爵から聞いたか?
俺が弟子だ」
「え、あ?」
「よろしく頼む、
パティシエール・ヘイリー師匠」
深いお辞儀をヘイリーに向かって繰り出しているのは、
年の頃同じくらいに見える、体格の良い青年だ。
「あ、ええ…お話お伺いしております…」
「皆からはハクジと呼ばれている。
髪が白いからな。
師匠もそう呼べ」
こ、高圧的…!弟子のくせに…!
もうちょっと敬いなさいよと口元まで文句が出かかったが、
『くれぐれも失礼なきよう』
執事の言葉が脳裏を過ぎり、すんでのところで堪えた私偉い。
「承知いたしました。
ハクジ様、本日はもう夜更けゆえ、
明日改めてのレクチャー開始ということでよろしいでしょうか」
「ならん」
パードゥン?
思わずヘイリーは聞き返した。
「レッスン開始だ、今すぐに」
ハクジが指さした先には、
なんと立派なシステムキッチンが鎮座していた。