復讐の神の領域
扉を潜ると同時に光体を纏った。
度重なる上位存在との戦いで力の制御を覚えた俺の光体は、現世での俺の体に酷似した姿を取って現出した。上位世界の力の制御を獲得した証しだ。
人間に偽装した姿は鎧を身に着け、目元を仮面の付いた兜で隠した見た目をしていた。
あくまで仮の姿だが、戦闘をおこなうつもりはないので問題はないはずだ。
視界を覆っていた白い光の靄とでも言うべき物が晴れていくと、周囲の景色が見えてきた。
そこは薄暗い世界だった。
空はどんよりと濁った錆色をしており、なにかわからないが、その濁った空の中を無数の赤い光の筋が通っている。光源となっているその赤い筋はまるで血管のように見えた。
ときおりそれは脈打ちながら光の塊を運んでおり、強い光が薄雲の中をゆっくりと移動するのが見えた。
不気味な空の下に広がるのは土が剥き出した広野だ。
地面はところどころ隆起したり窪んだりしているようで、遠くには様々な形をした山が見えていた。
その山や地表は場所によって色が異なっていた。
赤みの強い茶色い地面や、けばけばしい青い色をした山肌。黄色い山や黒い山。しかもそれらは牙のごとく尖っている物や、岩が溶けているかのように見える丸みを帯びた山もあった。
そのいくつかの山から奇妙な色の噴煙が上がっていた。
それらは山肌の色と同じ色の噴煙で、赤や青や黄に染まった毒々しい色の煙を立ち昇らせている。
突然、遠くに見える青い山が噴火した。
ごごごごごっという地鳴りを響かせながら山の一部が崩落すると、青黒い煙と共に真っ青な火を火口から噴き上げさせた。
溶岩は流れていないようだったが、ひび割れた山の中腹から火柱が勢いよく吐き出されると、山の側面が裂けて頂上の火口と繋がり、膨大な火柱を放出した。
轟音と共に火山雷が発生したかと思うと、それらはすぐに静まった。
ここではそんな事が幾度も繰り返されているらしく、傷口の開いた青い山肌はすぐに閉じていった。
(まるで生き物のような大地だ)
警戒して歩き出すと、乾いた地面の一部がえぐれ、そこに小川が流れているのを発見した。
川の水は透明感のある朱色をしていて、大きく窪んだ所をちょろちょろと流れている。
小川の周囲にも生物の気配はなく、木々や草花も見当たらない。
でこぼこの地面の先に大きな亀裂があり、その裂け目を覗き込むと、深い大地の底から不気味な呻き声らしきものが聴こえてきた。
一瞬、地の底の闇の中に赤い光が見えた気がした。
それがまるで狂気に染まった人間の目のように見え、俺は思わず後退りした。
闇の中からこちらを睨んでいた双眸は、強烈な敵意や殺意を滲ませていた。その視線は俺の皮膚に氷の棘が刺さりでもしたような感覚を与えてきた。
この異様な上位世界に人間が存在しているはずはなく、先ほど見たものが仮に人間のものだったとしても、それは「人間だったもの」の成れの果てと言うべきだろう。
深い闇を孕む裂け目を飛び越えると、緩やかな丘を目指して歩く。
その丘は黄土色の土からできており、丘の向こう側には黒曜石の柱のような物が見えている。
円柱に見えたそれは、丘の上に立った時に間近で見てみると何十何百、あるいは何千もの角を持つ円柱状に削られた柱だった。
これが自然に発生した物だとしても、この領域での自然とは、物質界のそれとは異なるものだ。
丘を降りて黒い艶やかな表面をした黒曜石の間を通り抜けると、黒い柱に囲まれた広場に出た。
そこには根元から切断された柱が横倒しにされ、切られた下の部分が黒曜石の台座とでもいった感じで三つほど置かれている。
切断された柱は一本しか無く、三つの台座の中央に寝かされていた。
ここで台座に腰かける者でも居るのだろうか?
などと考えていると、黒曜石の上に黒い影が現れた。
それは人の形をした、真っ黒ななにかだった。
『おぅ、ここに正気の人間が来るなんて、おかしな事もあるものだ』と、その黒い靄は言った。
気配は特に感じられない。生きているものでも、ただの亡霊というものでもなさそうだ。
「あんたも正気に見えるが」
『いやいや、気が狂っているからこそ私はここに居るのだ。でなければとてもここに留まり続けるなんてできっこない。なにしろここは、自らを滅ぼすほどの憎しみや悪意に取り憑かれた者が集う場所なのだから』
だとしたら(ここでは)、狂気に捕らわれた者でも会話が通じるようだ。
その狂気の度合いにもよるのだろうが、彼がかつてなんだったのかは朧気ながら理解できた。
「あんたは魔術師だったのか」
そう尋ねると、黒い靄が一瞬小さくなった。
影のごとき人は、ゆらゆらと揺らめきながら『ああ』と小さく返事をした。
『そうだった。魔術師……そう、上位存在に迫らんと欲し、その果てに自らの命も魂をも奪われた、魔術師の成れの果てだ』
どこか自嘲気味なのは、男とも女とも判断のつかないこの魔術師の元々の性情によるものなのだろう。人格らしきものを残しているのは、この魔術師が生前におこなっていた魔術の力によるものだと思われる。
「ここにも上位存在が居るのだろう。どこに行けば会える?」
『なぜだ? あれと対峙してなにをするつもりなのだ。奴の力がなんであれ、人間が触れていいものではない。この領域にまで来る事のできる魔術師が居るというのも驚きだが、悪い事は言わない。引き返すのだな』
黒い靄はそう言ったかと思うと突然、黒い体の中に赤い雷光に似たものを発生させた。
『うぉォオおぉォぉ……』
バシバシと音を立てて閃光が走り、黒い靄は大きく波打ったり、弾けたりしながらなんとか人の形を保っている。
「おい、平気か?」
そう声をかけながらも俺は大して心配はしていなかった。──当然だろう、ここに居る連中は存在しているようで存在しない、亡者亡霊の類いに過ぎないのだから。
『ぉォオぉォおぉぅ……こ、ここから、向こうにゆけ』
靄はそう言いながら一方を指差す。
黒曜石の柱の間から赤茶色の丘が見え、その丘の陰に金属っぽい色をしたなにかがあるのが見えた。
『あの丘の向こうで、おまえを待っている』
黒い靄はそう言うと俯くような格好になって、ぴくりとも動かなくなってしまった。
まるで操り人形の糸が切れたかのように微動だにしなくなった影をその場に残し、指示された方向に向かって歩き出す。
金属の質感を持ったそれは、なんらかの象徴を表した物体のようだ。
彫像とも柱とも違う物が開けた場所の中央に立っていて、回り込んでみるとそれはどうやら玉座であるらしい。
「だとしたら相当な巨体の持ち主が座るのだろう」
黒い光を反射する金属質の玉座には肘かけと背もたれが付いているが、背もたれから生えている角に似た物が、左右非対称な形で上部に向かって突き出ている。
禍々しいその玉座の前にやって来ると、玉座の上に白や赤、青や緑といった色の混じる炎が噴き上がり、大気を震わせる轟音を解き放った。
「うっ」
凄まじい魔力の流出が起こり、その中心にあった様々な色をした火の混沌が渦巻くと、その中になにかを形作り始めた。
それは黒を中心とした配色の、巨大な汚泥の塊。
黒い塊は蠢きながら暗赤色や暗紫色の光を脈動させている。それは見た目とは異なる重々しい音を立てながら段々と姿を現していったのだ……
黒く輝く玉座に腰かけたのは、闇から生まれた狂気の巨人とでも言うべきものだった。
そいつは緋色の布を体中に巻きつけたような姿をしていた。両腕を胸の前で交差させ、手首を黒革の拘束具で固定されている。足首も鈍色の鎖で拘束され、体中に鉄の杭らしき物が打ち込まれている。
拷問でもされていたのかという姿をしたそれは、顔から頭にかけても赤い布が巻かれており、口元には顎が開かぬよう、黒い金属の拘束具が嵌められていた。
赤い布の隙間から黄色く光る右眼だけが見えていて、ぎょろりとその眼がこちらを見下ろしてきた。
『まずは現世でのそなたの働きに礼を言おう』
その異様な姿の巨人らしき怪物は念話を通して語りかけてきた。
「なに?」
『我の中にあるものが、あの者共への復讐を望んでいるのだ。今もなおその復讐の炎は絶える事なく燃え続けておる』
あの者共とはレファルタ教教徒の事だろう。
あの時、執拗に俺の精神の暗部から働きかけていた力の源。それがこの上位存在なのだ。
だが目の前にあるものが、その力の一部の顕現に過ぎない事はすぐに判った。
というよりも俺はそもそも、すでにこの異質な神に接触していたのだ。
この領域。
この領域のすべてが、この神そのものと言っていいものなのだ。
この大地も、大地の底から見上げていたあの邪悪な眼も。
「あなたはなんという神なのか」
『神────そう、そうか。おまえらの総体でもある我は、そう呼ばれても不思議ではないのだったな。もっとも、多くの者は我を忌避し、避けるべき邪悪の総体と見なしているが』
嘲笑うような響を含んだ思念が伝わり、それが俺の魂には冷気のように感じられた。
乾いたもの、腐ったもの、怨念、悪意や憎悪すらも凍てつかせる、破滅的に燃える冷たい衝動。
人間の無意識。精神の暗部には、このような深淵が潜んでいるのである。
尋常な人間ならば、この神の言霊はあまりに強く、聴く者の魂を破壊してしまうかもしれない。
この狂気じみた力を浴びて正気でいるには、霊的に高位な位階に踏み込むだけの防衛手段が必要になるだろう。
光体を纏っていたのは正解だった。
霊体のままこの神の前に立っていたら、無事では済まなかっただろう。
「あなたの中にディオダルキスも居るのか」
『名などに意味はない。その者は我であり、おまえも我が一部なのだ』
「俺はあなたの力を利用し、自らの苦境を脱した。あなたは俺の体を利用し、不滅の憎悪を解放する一端を担わせた訳だ」
『下界の魔術師が捏ねる理屈などどうでもいい。ともかくおまえは我と繋がるだけの事をした。殺意を抱くにしろ、人を手にかけるにしろ。そのきっかけがある限り、おまえは我の一部なのだ』
痛烈な言葉だったが、俺にはそれこそどうでもよかった。
自らの意志で決定し、行動に移すという事は、その結果にも責任を負うものだ。
愚か者は自らのおこないの是非について理解せず、応報によって災いを招くが。魔術師はそうではない。
魔術とは人間的な柵に捕らわれず、自由に選択するものなのだ。
時に悪意を利用し、時に善意を利用する。
それを自由に取り扱えなければ魔術師には成り得ない。
自らの中に悪意も善意も同期できなければ、それは不完全な精神を構築する。対立するものを包含できないものは、未熟な精神位階に留まり続け、やがては暗部に引き込まれるものだ。──レファルタ教を盲信する連中のような偏った考えの行き着く先は、そうした精神の暗闇に続いている──
それに対抗するだけの意志。対立するものを纏め上げるだけの強靭な精神がなければ、階を上がる事はできないのである。
「あいにくと俺は自らの弱さに捕らわれてしまうほど弱くはない。悪意も殺意も、自らの必要とするところによって扱いもすれば、切り離しもする。
ここに来たのは、なぜ俺をここに招く必要があるのか、それを確認したかっただけだ」
緋色の神は俺の返答に不満の溜め息を漏らしたが、否定を挟む事はしなかった。
『おまえは我が手足として現世での働きを示した。その事について褒美をやろう。なぜならおまえは魔術師であり、死を纏う者なのだから。おまえは我の手足でありながら、それを超えて存在する者。復讐を司る我が権能に於いて、おまえに条理を越える力を与えてやる』
古き神はそのように告げ、拘束された足先で地面を踏んだ。
すると大地が揺れ始め、どこからともなく重い車輪でも転がしているような音が聴こえてきた。
俺と緋色の神の間にある地面がぼこぼこと音を立てて迫り上がると、その土の中から黒光りする石の柱が現れ、その上に真紅の宝石らしい物が乗っているのが見えた。
『受け取るがいい』
俺は警戒しながらも、復讐の神が与える恩寵というものがどんなものかと興味を抱き、その宝石を手に取った。
怪しげな光を発する宝石を握ると、それは様々な濃度の赤い火を放ち、俺の光体に溶け込んでいく。
その力は″復讐の呪い″とでも呼ぶべきものだった。それはレファルタ教の砦で殺害した者たちを復活させ、呪いの力で死霊を強化したあの力だ。
復讐の神の呪われた力を注ぎ、簡単には倒れない兵士を生み出す力。
『神々の創り出した世界は不完全だ。故にそれは破壊され、新たに創り直されなければならぬ。苦痛、死、絶望。それらを与えられた者はなにを憎む? 人か、世界か。それともそれらを創り出した存在をか。我はその答えを知るものなり』
──我が望むのではない、人類の絶望がそれを望むのだ──
復讐の神はそう言っているようだった。
複雑な気持ちではあるが、この力を使えば幽鬼兵も一時的に「復讐の軍勢」の一員となり、強力な呪いの力を得られるだろう。
それにこの力は生者にも効果を発揮する。
砦での俺がそうだったように、復讐の呪いに捕らわれた者は凶暴性を増すだけでなく、疲労や苦痛に耐えるだけの活力を与えられるのだ。




