一括転記では、未了札の机と本人の声を王宮本帳へ移せません
正午を告げる鐘より先に、王宮厨房の書記官が厚い本帳を抱えて来た。
革表紙は新しく、角には金具がついている。表紙の中央には、黒い字でこう書かれていた。
王宮厨房本帳。北門生活到着未了札、一括転記用。
「原札をすべてこちらへ移します」
書記官は、悪いことを言っている顔ではなかった。
「紛失防止です。北門の小机に札が増えすぎていますし、王宮本帳へ一括転記すれば、検索も返答も早くなります。晩餐会全体を止めないためにも、正午までに原札をまとめます」
小机の上で、ミラの椀が小さく鳴った。
乾きかけの包帯。薪賃金名の薄札。鍵箱の帰着札。リディア本人の未整理名札。
それらは、書記官の言う通り、増えていた。増えたせいで、机の端は狭くなり、青線の紙は重なっている。
けれどリディアは、本帳を否定しなかった。
「転記できるものと、移せないものを分けます」
「分ける、ですか」
「はい。本帳に写してよいものがあります」
リディアは新しい紙を広げ、左側に書いた。
未了札の番号。
札の表題。
王宮側が見た時刻。
返答先。
写しの保管場所。
「これは本帳へ移せます。探すための文字です」
書記官は少しほっとしたようにうなずいた。
「では」
「でも、移せないものがあります」
リディアは右側に、ゆっくり書いた。
本人がまだと言える場所。
包帯芯の湿り。
次薬前の喉の音。
鍵を持って歩いた人の帰り道。
薪賃金を受け取る名。
私の名札を、私が読む机。
書記官の指が、本帳の角で止まった。
「それも、内容として転記すれば」
「文字にはできます。けれど、文字にしただけでは到着しません」
リディアはミラの前に膝を折った。
「ミラさん。王宮本帳に“次薬前確認未了”と書けば、あなたの喉は読めますか」
ミラは椀を両手で持ったまま、首を横に振った。
「ここで飲んで、むせるかどうかを見てもらわないと、わかりません」
「はい」
リディアはミラの札を本帳へ写すための小さな写し紙に、こう書いた。
写し可。原札は北門小机。本人前の次薬確認まで移動不可。
ミラはその字を見て、椀の縁へ口をつけた。半口だけ飲む。少し間を置いて、息を吐く。
「まだ、ここで待っていいんですね」
「はい。まだは、ここで言えます」
次にテッサが、包帯を一枚持ち上げた。表は白く乾いて見える。けれど折り目の奥は、指で押すと冷たかった。
「本帳には、乾燥確認待ち、と書けます。でも芯の湿りは、棚で折ってみないとわかりません」
リディアはうなずき、包帯札にも青字を足した。
文字写し可。芯確認棚は北門。乾燥済み転記不可。
ノラは薪賃金札を出した。
「金額だけなら本帳に写せます。でも、薪屋さんの名と、受け取る人の名が合わないと、明朝の細火は届きません」
「薪は、金額ではなく火口へ届くまでが薪です」
リディアは、薪賃金札の端を小机に残し、写し紙だけを本帳の横へ置いた。
カイルは鍵箱を抱え直した。
「俺の帰着札も、本帳に貼られるんですか」
「鍵箱の所在は写せます」
リディアは鍵箱の金具を見た。
「でも、帰着札は鍵箱の持ち物ではありません。夜を歩いたカイルさんが、ここへ戻って、自分の名で次番に渡すための札です」
「じゃあ、本帳へ移したら」
「帰る場所が、帳面の棚になります」
カイルは息を詰めた。
リディアはすぐに、鍵箱の横へ青い紐を結び直した。
鍵箱所在のみ転記可。本人帰着・次番読了は北門小机で確認。
「これで、鍵箱が王宮へ知られても、カイルさんの帰る欄はここに残ります」
書記官は本帳を開いた。厚い紙の行は整っていて、すべてを飲み込めそうだった。
「ですが、原札を北門へ残すと、本帳が完全になりません」
「完全でない本帳でかまいません」
リディアは、初めて自分の未整理名札に手を伸ばした。
旧台所係リディア。料理帳保管者照会中。帰着先未設定。
その札は、他の札より薄い。何度も触られて、角が柔らかくなっている。
「私の名も、写しだけで帰ったことにはできません」
声に出すと、胸の奥が少し痛んだ。
「料理帳保管者として王宮へ返答する範囲は、写せます。けれど、母の計量匙、前掛け、北門の返答先、私の賃金到着、そして私がどこへ戻るのかは、私がこの机で読むまで未了です」
ミラが、椀を両手で抱えたまま言った。
「リディアさんの札も、ここにいていいんですね」
その一言で、小机の端が、少し広くなった気がした。
リディアは自分の札へ青字を足した。
本人読了待ち。原札は北門小机。料理帳保管者写しのみ王宮本帳へ送付。
書記官は長く沈黙したあと、本帳の最初のページに新しい欄を作った。
写し受領。
検索番号。
原札所在。
本人確認場所。
「本帳は、探すための場所です」
リディアは言った。
「戻るための場所ではありません。一括転記で写せるのは文字です。本人の声と、止まる空白は写せません」
書記官は本帳に、北門小机、と書いた。
その時、王宮から持ってきた封蝋付きの細い札が、本帳の間から落ちた。
書記官の顔色が変わる。
リディアが拾い上げると、そこには次の指示があった。
原札現地保全を認める。ただし北門小竈横仮窓口を王宮厨房本帳出張閲覧所として封印管理する。
ミラの椀が、今度は鳴らなかった。
リディアは青い紐で留めた鍵箱と、自分の未整理名札を見た。
「机が残っても、本人が読めなければ、到着ではありません」
正午の鐘が、北門の外で鳴り始めた。




