王宮返送灯は、北門の帰院確認欄を代替済みにできません
黒印は、灯りまで王宮のものにした。
『北門帰院灯り、王宮返送灯にて代替済み』
けれど、その文の下で、カイルの靴先は暗かった。北門施療院の廊下は王宮の広間より狭く、薬棚の角で一度曲がり、古い敷居で少しだけ沈む。大きな灯りが遠くから光っていても、鍵穴の前の影は消えない。
リディアは黒印を破らず、カイルの手元の小さな灯りへ目を落とした。
「代替済みなら、カイルさんの足元はどこまで照らされましたか」
カイルは夜番鍵を握り直した。鍵束の金具が、かすかに鳴る。
「門までは、王宮返送灯が見えます。でも、薬棚の前は暗い。帰院簿を書く机も、鍵穴も、ここからだと見えません」
使いの少年が、困ったように紙を持ち上げた。
「王宮では、返送灯一基で北門分も含む、と」
「含む、では帰れません」
リディアは帰院確認欄を机の中央へ置いた。欄は白い。名前も、時刻も、鍵返却もない。ただ、黒印だけが上から「代替済み」と覆っている。
ノラが小さな定規を出した。テッサは包帯竿の影を避けて、廊下の角に立つ。セレスティア監督官は、黒印の横へ青い糸を一本通した。
「北門帰院灯りの確認項目を分けます」
リディアは声に出して読んだ。
「一、カイルさん本人が北門へ帰ったこと。二、薬棚前の鍵穴が見えること。三、夜番鍵を本人の手で返したこと。四、明日の朝、薬棚を開ける人がその鍵を見つけられること」
王宮返送灯は、遠くで白く燃えている。美しい灯りだった。けれど、白さは段差を覚えない。どの角で誰がつまずくかも、どの鍵穴へ手を伸ばすかも、王宮の灯りには書けない。
カイルが、灯りを掲げたまま一歩ずつ廊下を戻った。
「ここまでは見えます」
門の石畳。
「ここから先は、返送灯だけだと影になります」
薬棚の角。
「この高さなら、鍵穴が見えます」
小さな灯りを棚の横に置くと、古い真鍮の鍵穴が黄色く浮かんだ。カイルは鍵を差し、いったん回し、また抜いて、返却箱へ落とした。
こつん。
その音が、黒印より確かな帰院の音だった。
ノラの筆が動く。
『カイル、北門帰院。薬棚前灯り到達確認。夜番鍵、本人返却。確認者ノラ。立会テッサ』
カイルは自分の名前の横に、少し不器用な字で時刻を書いた。
「これで、明日の薬棚は開きます」
テッサがほっと息を吐いた。包帯を替える棚も、薬湯を温める小竈も、その鍵がなければ朝まで眠ったままだった。帰った人の足元が照らされることは、明日の薬が開くことでもある。
リディアは黒印の紙へ戻った。
「王宮返送灯は、北門の灯りを消す理由にはなりません。遠くから見える火と、帰った人が鍵穴を見つける火は、同じ欄に入れられない」
セレスティアが青い保留線を書き足す。
『代替済み、効力停止。帰院確認欄未添付のため、北門帰院灯りは返送不可』
使いの少年は、今度は少しだけ肩を下ろした。
「では、王宮へは何と」
「返送灯は見えました。けれど、帰院は未確認でした。いま、カイルさん本人が確認しました、と」
リディアはカイルの札を黒印の上に重ねなかった。横に並べた。王宮の灯りが嘘だったわけではない。ただ、北門の曲がり角を代わりに歩くことはできない。
カイルが返却箱の蓋を閉める。ノラがその蓋に小さな青札を掛けた。
『帰った人の名で閉じること』
それだけの札で、廊下の暗さが少し薄くなった。
リディアは小さな灯りを棚の端へ戻した。
「帰る灯りは、広さではなく、最後の鍵穴まで届いたかで数えます」
その時、王宮厨房から次の控えが届いた。
封の表には、油の匂いが移っている。
『北門灯油残量、晩餐会終了後に精算』
リディアは封筒の下を見た。
明日の朝まで燃やす分が、どこにも書かれていなかった。




