使用者名義不明は、夜薬の火を伯爵家へ戻せません
使用者名義不明。
帳簿の上では、便利な言葉だった。誰のものでもない。誰の責任でもない。だから、管理責任を元の伯爵家台所係へ戻してよい。
けれど、小竈の前に立つと、その言葉はすぐに嘘になる。
火を見ている人がいる。浅鍋を洗う人がいる。湯冷まし壺を抱えて、ミラの夜薬が熱すぎないか唇で確かめる人がいる。
「名義不明、ですか」
私は青い札を一枚、返還品仮置き棚の上に置いた。昨夜の札はまだ乾ききっていない。北門小竈。浅鍋。湯冷まし壺。火ばさみと鉄網。その横に、今度は空欄だけの札が置かれている。
セレスティア様が薄紙を押さえた。
「伯爵家側は、使う者が決まらない道具なら保管責任を戻せる、と主張しています」
「決まっていないのではありません。大きい名前で潰しているだけです」
私は竈の前を見回した。
薬師見習いのノラは、包帯湯の鍋に布を入れる前に、必ず湯の色を見る。夜番の縫い子テッサは、帰院者が濡れた外套を脱ぐまで粥を椀に注がない。下働きの少年ペルは、火ばさみを棚へ戻す前に鉄網の焦げを落とす。
三人とも、伯爵家の台所係ではない。
けれど、今夜の火は三人の手で届いている。
「ノラさん」
呼ぶと、薬師見習いがびくりと肩を上げた。
「はい」
「この湯冷まし壺は、誰の薬に使いますか」
「ミラさんの夜薬と、二番寝台のロイさんの喉薬です。あと、夜明け前に戻る洗濯組の手洗い湯を少し」
「では、使用者欄は空ではありません」
私は札に書いた。
湯冷まし壺。夜薬確認、ノラ。口に届く相手、ミラ、ロイ、洗濯組二名。伯爵家へ再帰属不可。
ノラが息を呑む。
「私の名前を、道具の札に書いていいんですか」
「責任を押しつけるためではありません。あなたが何を見て、誰へ届けたかを消させないためです」
次に、テッサが前へ出た。縫い子の指は赤く荒れている。祝典衣装を縫った後、北門へ戻ってきた指だ。
「浅鍋は、私が夜番の粥を注ぐ前に底を見ます。焦げが残っていたら、薬の匂いに混じりますから」
「では浅鍋の使用者は、粥を食べる人だけではありません。底を見る人も含みます」
浅鍋。底確認、テッサ。粥到達、夜番三名。焦げ確認済みまで売却不可、再帰属不可。
ペルは火ばさみを両手で持ったまま、戸口で迷っていた。
「僕は、名前を書くほどの仕事では」
「火ばさみを戻さなかったら、明朝、誰が火を入れますか」
「……メイナさんが怒ります」
「怒るだけで済みますか」
ペルは少し考え、首を横に振った。
「包帯を乾かす火が遅れます。パン屋から来る硬いパンを温めるのも遅れます」
「なら、あなたの確認は明日の火の席です」
火ばさみと鉄網。洗浄、ペル。乾燥確認、メイナ。明朝火入れ、未完了。伯爵家台所係名義へ戻さない。
三枚の札が並ぶと、使用者名義不明という行は、急に小さく見えた。
大きい空欄の中には、人の手が隠されていた。薬を冷ます手。鍋底を見る手。火ばさみを洗う手。どれも爵位も家名も持たないけれど、今夜の北門施療院では、その手がなければ誰かの喉が熱すぎ、誰かの粥が焦げ、誰かの包帯が湿ったままになる。
私は最後に、自分の札を切った。
北門小竈。火順確認、リディア。料理責任、北門施療院臨時料理人。伯爵家台所係へ再帰属不可。
指が少し震えた。
自分の名前を書くことは、まだ怖い。父の帳簿に見つかれば、また「家のもの」と呼ばれるかもしれない。けれど、書かなければ、私が見た火まで使用者不明にされる。
セレスティア様が、四枚の札を順に読んだ。
「使用者名義不明ではなく、使用者名義を大項目で消した状態。生活影響明細不足につき、再帰属停止」
王宮厨房の印が、青い札の端に押された。
その瞬間、ミラが寝台からかすれた声で言った。
「……今日の薬、熱くなかった」
ノラが振り向く。ミラは小さく笑った。
「ノラさんが壺を持ってくれたから」
たったそれだけの言葉で、ノラの目に涙が浮かんだ。
使用者名義は、手柄の札ではない。薬が舌へ届いた時、誰の手が熱を見てくれたかを呼ぶための札だ。
小さな報酬だった。
伯爵家の補填費はまだ消えていない。父エルンストは、きっと別の行で取り戻そうとする。けれど今夜、湯冷まし壺はノラの名で棚に戻り、浅鍋はテッサの確認で粥を受け、火ばさみはペルの洗浄札と一緒に明朝まで置かれる。
私は母の計量匙を、小竈の前に置き直した。
「名義が不明なら、火は戻せません。火を見る人の名があるなら、伯爵家の帳簿だけでは閉じられません」
そのとき、セレスティア様が薄紙の裏をめくった。
そこには、父の印とは違う、金色の小さな封蝋が押されていた。
王宮晩餐会準備室。
旧北門施療院厨房具、使用者名義照合のため、代表責任者一名を王宮へ出頭させること。
代表責任者。
今、青い札の一番下には、私の名がある。




