幼き日の思い出
あれはいつだったか……。
特別な夜会が開かれるとかで、朝から屋敷中が慌ただしく、廊下には使用人たちの足音が絶えず響いていた。珍しく誰にも相手にされないものだから、少し不貞腐れながら、私は窓際で寝転んだりミルクを飲んだりして過ごしていた ―――。
テラスの植え込みには、お姉さまが熱心に育てている、薄紫色のパステルの花が風で揺れている。
姉様の母上に仕えていた老侍婆に、「この忙しい日に其処らをウロウロされたらかなわない、お嬢様がた、コチラにおいでなさいませ」と、大変貴族的な微笑みと共に子供部屋へと押し込められたのは、昼食後の、自由時間でのことだった。
ウロウロなんてしないわ。ちゃんと大人しく待ってるもの、と、腑に落ちない気持ちを抱きながら、
一緒に押し込まれた姉とは、互いに何かを語り合うこともなく、互いに干渉しあうことなく、それぞれに違うことをして時間を潰していた。特に他意も無く、それが私たち姉妹の普通だったから。
午前中に女家庭教師から出されていた課題の答えを、なんともなくぼんやりと考える。遠くに響く大人たちの喧騒を子守唄へと変えて、ともすれば瞳を閉じてしまいそうな木漏れ日の中で、私は寝椅子の上で子供向けの厚いガラス杯に入れられたよく冷えたミルクを口に含みながら、庭園を眺め……、ポカポカと温かな室内が心地よくて………、
「あ……」
まどろみの中でその小さな手は徐々に力をなくし、握られていたガラス杯は、石畳の床へと滑り落ちた。
魔法で強化された丈夫で厚いガラス杯は、そのままの重みで降下して、ホタル石が練り込まれた石畳の床には、ゴッという鈍い音が響く。しばし呆然としていると、近くで本を読んでいたお姉さまが声をかけてきた。
「…リリー?どうかしたの?」
「ミルクを…」
ガラス杯から溢れたミルクはそのままくるりと弧を描き、石畳の床を広範囲に濡らしていた。職人の手によってどれほど平らに均された床とはいえ、石畳の凹凸の中にミルクが入り込めば、布巾でさっと拭っただけではとてもじゃないが取り除けそうにない。
「………………。」
「ねぇ見て、リリー。この床に溢れたミルクの模様…。闇の女神さまの横顔に似ていない?」
言葉を失った私の姿を見た姉様は、慰めたかったのか、それとも本当に、ただそう思っただけなのか、さっきまで読んでいた本の表紙をこちらに向けて微笑んでいる。その本には確かに闇の女神さまの横顔があった。
「………お姉さま、それは偶然よ、偶然そう見えるだけ。3つの点が集まると人がそれを目と口だと感じて、そこに顔を見出してしまうような…。壁の女神様に、雲の竜王様。ええっと、真似っこ妖精の幻影、あと…、星詠みの錯覚って、いうのかしら?」
女家庭教師から教わった内容をたどたどしく説明する私に、姉様は穏やかに微笑む。
「ええそうね、リリアナは、よくお勉強をしているのね。」
反論されたからと腹を立てることもなく、姉はただ本心からの小さな賞賛を妹へと贈る。そこに、搦手で罠にはめるなどという無粋な思惑は皆無である。
瞳に映る私のすべてを、ただ肯定するような温かな眼差しを向けて、沈みなく清冽な音色を響かせる…。その特別に高く遠く澄んだ声色で褒められると、自分までもが一等特別な人間になったような錯覚に襲われる。
例えるならば…、溢れかえる民衆に埋もれた、まるで無個性な自分が、突如スポットライトで照らされるような眩い高揚感。そして、幼子のように胸の隅で泣いていた自尊心が、その民衆から1つ上に置かれ満たされていくような至福感。
隠しても溢れるとめどない恍惚を心の端に覚える。
「それにしてもそっくりね、どのカーブも美しく、まさに、闇の女神さまだわ…。」
続く姉の呟きに、床を濡らすミルクへと視線を移す。確かにその輪郭は、姉が示した闇の女神さまの絵をなぞったかのように似ていた。
「まるで、私たちのこの世界のようね――、
何億回、何兆回、その膨大な試行回数の果てに発現する偶然が、たまたまこの神秘的なカタチを描き出したのよ。その裏でいったい、どれだけの液体が、貴族の屋敷の、平民の家屋の、あるいはギルドの床を濡らしたことでしょう。
今、私たちの前に“現実”として存在しているこの偶然の裏側に、誰にも見留められることなく処理された日常が眠っているの…。
言うなればそう、それは、生命が陸地に上がらなかった回数のようなものよ。
そして、この拾い上げられたカタチですら、いつしか忘れ去られる日常の一幕でしかないのだわ。
永遠に続く時空の中では積み重ねられた生命の神秘ですら、ただの小さな数遊びの1つよ。」
少しほほを染め、しかし普段通りの温度感で語る姉様と、その口から紡がれる話の内容の途方もなさに、強張りかけた私は、息継ぎを急かすようにゴクリと喉の奥を鳴らした。
「それでもこの美しさは、確かに存在する…。
神の采配なんて何処にもない。ただの偶然。ただの数遊び。
それでも、闇の女神さまは今ここに、確かに顕現おわしめたの。……ふふっ。」
お姉さまは象徴劇のロマンティストのように、大げさに、仰々しく、愉快そうに、女神の祝言を告げた。ちょっと大げさな演技に笑ってみせる、その声までもが美しい。
「人々の営みの結果もこれと同じね。
偶然を何度も繰り返して到達した境地…、
ねぇ、リリー。
これをきっと、人は奇跡と呼ぶのね。
永い時の底でふっと生まれて消える、小さな光の泡のように、
奇跡に気づかず踊るコマドリのよう、だからこそ、こんなにも愛おしいのね。
――私たちは等しく貴重であり、そして、無用なんだわ。」
自分の思索を語りきった姉様は、どこか満足げな表情で庭へと目を向ける。 その視線の先では、パステルが植えられた柔らかな土の周辺を、コマドリたちが何かを探るように小さく跳ねていた。
姉様はその小さな鳥たちの、無知で無力な儚さを愛おしいがりながら、まるで自分もその一部であるかのような顔をする。
その顔が私には恐ろしかった。
『私たちは等しく貴重であり、そして無用なんだわ』
その言葉が私の胸に響くほど、私の核はじわじわと消されていく。そんな焦燥感に包まれる。息が浅くなる。自分を豆粒ほどに小さく感じ、その言葉を否定しなければ、足場が崩れてしまう、そんな恐怖に包まれた。
「お姉さま…、なんだか怖いわ。」
コマドリから視線を外し、変わらぬ瞳で私を見つめる姉様…、
慈愛に満ちたその瞳は、私を映しているようで映していない。私が踏みしめてきた過去のすべて、あるいは先の未来の可能性までをも愛しているようだった。
「私は…、私………。」
「私はここにいて…、考えているわ!。転んだら痛いし、…悲しい。明日を夢見て眠りたい。私はここにいるのよ!奇跡なんかじゃない!生きてる…、人間よ!」
分からない、自分が何を言っているのか、何を言いたいのか…、ただ、自分を守っていた何かが剥がされかけている、その危機感だけが体を支配していた。
姉様はミルクの跡を奇跡だと言った、そして、奇跡はただの偶然とも…。
それはつまり、想像主さまの零される、”奇跡の雫”までもを否定する、そんな言葉に…、
神の奇跡もが否定された世界で、私はどうやって生きていけばいいのだろう。想像主さまの温かき鳥籠から放たれて、コマドリのように愉快に踊っていられるだろうか。
私はいる、此処にいる…。
私は…、私は、勉強をしてきた。気高き貴族であろうと努めてきた。
何もしないだけの貴族にはなりたくなかったから…。
生命の転換に訪れる重要なキーでもなければ、世界を変える程の大業を成す人物でもない。ましてやその次元を超えた存在など考えも及ばない…。
でも、何もしない貴族と同じでもない。
私は此処に存在している…。
「あなたは…、痛みを知って、明日を夢見るのね。」
その言葉に、沈みかけていた意識がゆっくりと浮上する。
何かに納得したように小さく微笑む姉様の、その瞳に、一瞬だけ、火花のような熱のほとばしりを感じた。
「ごめんなさい、私ったら、神秘の探求に、ついつい熱くなっちゃうの。」
次に瞬きをしたときには、その熱はもう跡形もなく消えていた。姉様の語るその言葉はいつも通りで、それでも、その瞳は、今ここにいる私に向いているように感じた。
――思えばこの日から、姉様は私を”リリーちゃん”と呼ぶようになった。
「お嬢様がた、お着替えの時間でございますよ」
老侍婆の登場に、さっきまでの空気はふっと霧散する。
姉妹の去った部屋には、掃除に入った侍女だけが残った。
「まあ、なんだかこのカタチ…、闇の女神さまのようね…。」
「ほんとう!まるで、物語を紡ぐ創造主さまのお戯れみたいね!」
姉様とお姉さまが同居してるひーん(後でどっちかに統一します)。




