9 迷惑施設と世の中のルールとマナー
「それはね、もう20年も前の事さ。この保育園は以前はブドウ園だったんだ。ここらあたりは、本当に田舎でね、あちこち畑だったさ。大根畑だったり、ジャガイモ畑だったり。そして、ここはブドウ園だった。秋になると、たくさんの人がやってきたさ。みんな、笑顔で楽しんで帰って行ったんだ。
隣の落合さんちには、一人娘が居てね、結婚して、おなかに赤ちゃんがいて、出産で実家に帰って来て、まだ、春には少し早いか、っていう寒い日に、元気な女の子を産んだのさ。可愛い子でね。おっぱいをたくさん飲んで、すごく元気な子だったよ。そうして、秋口、その子をつれて里帰りして、赤ん坊は、車にはねられて死んじまったんだよ。
あんた達のように、落合さんちの敷地に勝手に車をとめたバカ野郎が居てね。でもね、落合さんはみんながブドウを楽しみにしてるんだからって、寛容だったんだよ。今と違って、そんなに車が多いわけじゃなかったからね。
ようやく、はいはいを始めたその子が、出ちまったんだよ。外へ。そうして、ブドウを楽しんで帰るだけだった、親子連れの車に轢かれたんだ。
落合さんは悲嘆に暮れたさ。あんた達だって親なんだからわかるだろ。善意で停めさせてやってたのに、後悔したって遅かった。娘はそれっきり誰とも口を利かなくなって、離縁されて家にいるのさ。それだって、娘が元気なら、落合さんだって、老夫婦で娘と一緒に再起できたさ。でも、娘は、『自分のせいだ』って、何度も死のうとしてねぇ。今だって、なんとかっていう、結構有名なその筋の病院を行ったり来たりさ。だから、留守が多いのさ。奥さんが亡くなった後はもう、年寄り一人で娘支えてるんだから、大変に決まってるさ。
あの事故のあと、ここはずっと荒れ地のままだったのさ。いつのまにか、観光農園なんて、廃れちまったからね。ずっと空き地だったのさ。そこを、行政が買い取って、なんと困ったことに保育園にするっていうじゃないか。近所はみんな『反対』だったんだよ。」
「反対…」
「そうさ、大反対。あんた、自分のうちの隣にある日、保育園ができますよ、と言われて、『はい、どうぞ』って言えるかい?」
あんた、と言われたのは、川原裕也の父だった。裕也の父は、真っ赤な顔をして、腕組みしたままだ。
「そうだろ。誰だって嫌さ。煩いからねぇ。おまけにね、あんなことがあって、未だに、当時の事を引きずっている、落合さんちの境界線まで全部保育園だって言うじゃないか。ほんと、たまげたよ。だから、この話が出た時は、それこそみんなで反対したさ。せめて、落合さんちの隣は、一軒分は空けてやったっていいだろう。でも、それじゃ、認可に満たない大きさだからとかで、行政ってやつは、勝手な理屈つけやがって、ここができちまったのさ。いいかい、ここはね、周りから見たら、迷惑施設でしかないんだよ。」
「迷惑施設でしかない…」
「そうさ。」
保護者のほとんどが顔を下に向け、ハンカチを握るもの、ズボンの裾を握るもの。涙をこらえる母親もいた。
「出来てみたら出来てみたで、そんなことがあった場所に平気で停めてるバカがいる。」
「バカってそういう言い方はないでしょう、知ってりゃ停めませんよ。それに、そんなに嫌なら、引っ越すとか、敷地を囲うとか、いくらだって方法はあったんじゃないんですか?」
そう言ったのは、毎日のように、大きな外車を停め続けていた、清水あやのの母であった。
「バカが気に障ったのかい?だけどね、もう現役を引退して、必死に子供の面倒みている年寄りに、どこに引っ越せって言うんだい?どこに家の周りを修繕する金があるって言うんだい?そんな事を言うなら、あんたが出しておやりよ。」
「私はただ正論を言ったまでで。」
「正論だってぇ。あんたね、そんな事を言うなら、この保育園が出て行きなよ。他にいくらだって土地あるだろ。ここじゃなくちゃいけないわけないんだから。さっさと居なくなっておくれ。」
そこまで言うと、緑川夫人は大粒の涙をこぼしていた。
「緑川さん、そうおっしゃらずに、落ち着いてください。」
堀田園長は、その場を収めるのに必死だった。必死で言ったのだ。
「それでも、この地に保育園ができるように尽力してくれたのは、ここに居る緑川さんなんですよ。一緒に落合さんのところに話をして下さったりして。とにかく、緑川さんが居なかったら、ここに、長坂保育園はないんです。」
皆の目が緑川夫人に注がれた。
「大きな声を出して、申し訳なかったね。だけど、」
緑川夫人は前を見据えて言った。
「自分の権利だけじゃ生きていけないのさ。だから、落合さんは必死で生きてる。車くらい、ちゃんと駐車場に停めるんだ。最近じゃ、コンビニの駐車場にまで停めてるっていうじゃないか。人の親なら、恥ずかしくない生き方おしよ。」
そう言って、車いすを押して出ていったのだった。
「どういう関係なの?」
綾子はそう言われて、
「関係なんてないわ。だけど、私、やっぱり間違っているのは私達だと思うの」
と云った。
「なんだって。」
綾子の突然の言葉に廻りの父兄は一斉に驚いた。まるで、裏切り者でも見るような眼だった。
「私が、保育園に子供を初めて預けようとした時、区役所で、無理だって言われました。理由、なんだかわかりますか?」
「…」
「定職があって、収入があったからです。」
「へえ…。」
「おかしいと思いませんか。私は、普通に働いて、普通に給料もらって、収入があって。でも仕事してるんです。収入があるなんて、そんなの当たり前のことなのに。だから、復帰するのに保育園に子供を預けたかったし、なのに、収入があると、子供は保育園に預けられないんです。」
「無認可に預けろ、って事?」
「みたいです。収入があるのなら、認可の安いところに入れる必要なし、って事みたいでした。ひどい話だと思いました。」
「なんだよ、入れりゃよかったじゃないか、無認可に」
川原裕也の父は言った。
「無認可に入れ(いれ)ましたよ。結果的に一年半年後には認可に入れ(はいれ)ましたけどね。待って待ってようやく。でも、いっつも疑問でした。」
「何がだよ。」
「だって、必死で働いて、一生懸命税金払って、その恩恵にはあずかれない、って事ですよね。」
「しようがないだろうが、それだけ稼ぎがあるってことだろ。」
「でも、入れました。一年半年後に。その間、毎月八万円払い続けました。一年で百万。何のために働いているのか、わからない一年半年」
「ほんとうよね、一年半で150万って、なんなんだろうねぇ。」
「うまく言えないけど、やっと入れたんです。ずっと、ここで、みんなと仲良くやって行こうと思いませんか?」
「思うさ、だけど、仲良くしたくないのは向こうだろう。」
「こっちが、世の中のルールを守れば、それで済むんですよ。ルールやマナーを守れば、みんな仲良く付き合ってくれるはずです。」
「…」
「みんなで、少しずつ、守りましょうよ。世の中のルールを。」