3 入りたくても入れない不思議なところ
ある夜の事だった。
「だからさ、俺に何をしろって言うんだよ。」
貴彦の声がいつもより上ずって大きくなっている。傍で聞いていたみすずが不安げに、
「ママ、パパは誰としゃべってるの?」
電話の向こうの相手を気にしていた。
「道子おばちゃまよ。大丈夫よ、喧嘩しているわけじゃないから。」
もう20分近く、貴彦は2つ下の実妹の道子と声を荒げながらしゃべっていた。
「だから、綾子は関係ないだろう。」
みすずは、最近、道子おばちゃまとパパやママが、大きな声で電話している事で、何かあった事を敏感に感じていた。
「ねえ、ママ。パパはどうしちゃったの?」
「どうもしない。大丈夫よ。」
綾子は区役所で働いている。区役所の住民票やいろいろな証明書を窓口で発行する係だ。その綾子あてにこのところ、貴彦の妹から何度となく電話がかかって来ている。
貴彦の妹は、貴彦と綾子の住むマンションからはかなり距離があるものの、同一区に住んでおり、来年の春1歳になる子供が一人いる。小さいながらも堅実経営している嫁ぎ先の印刷会社で夫は働いており、妊娠が分かるまでは、その印刷会社を手伝っていた。妊娠が分かったあとは、「元気な子供を産んでほしい」という嫁ぎ先の義両親の意向もあり、仕事を休んでいた。本来なら、小学校に入るまでは、「育児に専念してほしい」と言っていた義両親だったのだが、折からの不況で雇っていた従業員をあらかた解雇してしまい、その代わりの働き手として、貴彦の妹道子が復帰せざるを得ない状況になってしまったのだった。道子は仕事が好きだ。働くのも決して嫌ではない。でも、今は、1歳になる子供がいる。その子を預ける事が出来ない限り、嫁ぎ先の仕事を手伝う事は出来ないのだ。実際、わが子を預ける、という段になって、はたと困ってしまった。もともと、貴彦や綾子の住む区は、いわゆる「激戦区」で、希望どおりに保育園に入れる子供はとても少ない。共働きでやってきた貴彦と綾子でさえ、公立の保育園に入れるようになったのは、みすずが2歳になってからだった。それまでは、私立の所謂――無認可保育園――にみすずを預け、保育園に入るための点数を稼いだ。結果的にはその事で、預け入れの点数が上がりようやく、公立の認可園に入園できた。道子は、と言えば、まだ、無認可園にも入れておらず、とても子供を預けて働けるような状況ではなかった。無認可ともなると、月に7~8万はかかることとなり、働かないうちにはそんな費用を捻出できず、春からの募集に応募してはあるものの、受け入れ決定の通知は届かなかった。
道子だって仕方が無い事くらい良くわかっている。自分だけ、何とかして欲しい、と思ったところで、あっちでもこっちでも順番待ちばかりで入れるはずが無い事は良くわかっているのだ。だが、嫁ぎ先にはそんな事情が通用するはずはなかった。それくらい、困窮していたのだ。毎日のように、義両親から、
「なんとかならないのか」
とせっつかれた。春になれば、という期待もあったが、もし、どうにもならない期待をさせて裏切る様な結果になれば、せっかくうまくやってきた、嫁ぎ先との間にもひびが入る事になるだろう。そんなこんなで、道子は藁をもすがる思いで綾子にすがったのだ。
綾子は区役所の職員だ。なんとか頼み込めば入れるのではないか。自分が頭を下げに行ってもいい。担当の人を紹介してくれるだけでもいい。とにかく、道子は居ても立ってもいられなかったのだ。
そんな思いが道子にはあった。同じように働く身の上なのだから、綾子も自分に協力してくれるに違いない。毎日のように電話をした。でも、綾子はつれなかった。
綾子にしてみれば、どうにもこうにも力を貸すことができなかった。顔見知り程度の役所の人間を紹介されて、道子はどうするつもりなのだろう。自分には紹介するだけの縁故もなく、職場での地位もない。私にどうしろ、と云うのだ、と思っているうち、貴彦と連夜のように夫婦げんかになってしまった。貴彦は、断ればいい、という。義妹と保育園の事などで言い争っても仕方が無い。「自分にはそんな力もないし、そう言う事は通じない。」何度そう説明しても、道子には理解してもらえなかった。もしも、綾子にそんな力があって、仮に綾子が頭を下げて、自分達には姪にあたる道子のところの子供が保育園に入園出来たとして、そのあと、綾子に降りかかるであろう嫌疑について、道子は何も考えないのか。これから先の綾子の仕事の立場を考えて欲しい、そう貴彦は思ったのだ。それから、毎晩のようにかかってくる電話には、貴彦が出た。電話の向こうで泣く道子に声を荒げてしまう事もあった。
綾子だって、協力したい。保育園に入れるかどうか、それがどんなに大変な事なのか身をもって体験しているのだから。綾子は道子に言った。
「とにかく、一度、無認可に預け入れをする事。」
だが、そんな事をしても入れる保証はない。道子はどうしたら入れるのか、必死でネットで調べた。調べて、また悩んだ。そこには、本当なのか嘘なのか、信じられないくらいの情報が並べ立てられていた。
「とにかく、しばらくは、おんぶ紐でおんぶしてでも働いたらどうだ。」
貴彦のその言葉に、道子は逆上した。逆上して、電話で言い争いになったのだった。
綾子だってどうにかしてあげたいが、どうする事も出来なかったのだった。
「保育園に入れるかどうか、本当に大変な事なんだな。」
ふっと貴彦の漏らしたその言葉に、綾子は頷いた。
そんなことがつづいたある日。いつものように保育園の園庭でみすずは、庭木がさっぱりしている事に気がついた。周りの友達も気がついていたようだ。
「木、切っちゃったの?」
みすずが訊くと、先生は丁寧に教えてくれた。
「今の季節にきれいにしてあげるとね、来年の春にまた、ぐんと大きくなって、きれいな花を咲かせてくれるんだよ。」
そう言われて、子供たちが、さっきまでは、「かわいそうだよねぇ」と言っていたのに、「そっか、そっか」と納得したようだ。
「来年が楽しみだよね」
と、みすずが言うと、
「でも、みんなは来年の春には、小学生なんだよ。ここには、もう来ないんだ。」
と、担任の遠藤が言った。
「え~やだ。絶対、やだ~。」
と、子供たちが口ぐちに言い、一瞬のうちに園庭がにぎやかになった。その時だった。
「いい加減にしろ。煩いって何度言ったらわかるんだ!」
園庭のちょうど真西の、あのロープの先の、雲梯よりももっと先、隣接する隣のお宅の東側の雨戸が、ガラッと開いて、そこの家のおじいさんが、園庭ではしゃいでいた子供たちに怒鳴ったのだ。
「殺されたくなかったら、静かにしろ!」