2 うんていの秘密
午前中、長坂保育園の園庭には、南からの日差しが燦々と降り注ぎ、南側の窓からは、多摩川が望めた。いわゆる南傾斜地なので、陽を遮るものはなく、緑川さんちの竹林のお陰で、夏だって、まるで草原か何かにいるような、涼しい風が吹き抜けた。贅沢過ぎる場所にその保育園はあった。
今、おてんば盛りのみすずの興味は、園庭の一番西側奥にある、長い雲梯に注がれている。今年の夏休み、みすずはパパに連れて行ってもらった公園で、始めて雲梯に挑戦した。すいすい進むパパの横で、なかなかできなくて、悔しくて、みすずはパパの腕の中で泣いた。だけど、負けず嫌いのみすずを良く知っているパパは、お休みの間ずっとみすずに付き合ってくれて、一週間ほどのお休みの終わりには、雲梯の端から端まで渡れるようになったのだ。だから、保育園のみんなに、
「私ね、こんなに出来るんだよ。」
って見せたくて仕方ないのに、保育園ではいつまでたっても雲梯ができない。なぜって、それは雲梯に黄色と黒でできた、まだら模様のロープが張られていて、そこには
「ここであそんではだめ」
と、書かれた張り紙がしてあるからだ。さらには、ご丁寧に、その雲梯よりも遥か手前で、黄色のポールが立てられていて、そのポールにもロープが張られ、近づけないようになっていたのだ。
「先生。アタシ、『うんてい』したい。」
この夏、みすずは何度もそう言って、先生に訴えたのだが、担任の遠藤先生も、外遊びを見てくれるパートの原先生も遠野先生も、
「だめって書いてあるでしょ。違うので遊ぼうね」
そう言って、取り合ってくれなかった。でも、どうしてもやりたいみすずは、家でもパパやママに、
「なんでやらしてくれないのかな。やれるように、パパやママからお願いしてよ。」
と、盛んに訴えていたのだった。
東西に長く広がる園庭の、ちょうど西側に引かれたそのロープは、園庭を五分の一くらい仕切ってはいたが、それでも、園児たちが体を動かすのには十分な広さだった。現に、
『危ないから』という保育園側の説明に親たちは差して疑問も持たず、そのロープの本当に意味に、気付く事はもちろん、疑問を持つ親はいなかったようだ。
みすずは考えた。どうしたら、保育園の雲梯で、みどりちゃんと遊べるかって。
「アタシ、パパと練習して、うんていできるようになったんだよ。」
「え~すごい!。見た~い。」
って、みどりちゃんに言われたみすずは、そっと先生の目を盗むように近づいて、やってみせようとした瞬間、先生にみつかって、
『だめ』
と、叱られた。みすずがあんまりやりたがるので、庭で遊ぶ時には、先生が園庭の端っこに立って、みすずが近寄らないように、先生の目が光っていた。
その日のお迎えの時、綾子は朝持っていたお仕事用の鞄の他に、もう一つ、紙袋を提げていた。
「これ、なあに?」
とみすずが訊くと、
「緑川さんちへのお見舞いよ」
そう言って、中をのぞかせてくれた。駅前のイタリヤーノのクッキーだった。
「みすずの分はちゃんと買ってあるから。」
と言うと、仕事用のバッグの中をのぞかせてくれた。
「やったあ」
みすずはジャンプして喜んだ。
「いつも、緑川さんちのおばあちゃまに飴玉をいただいているでしょう。今日は帰りにちょっと寄って、様子をうかがって、お菓子を置いて帰りましょうね。」
と綾子は言った。
「おばあちゃま、病気かな」
と言うと、綾子は、
「ちょっと心配よね。今までたくさん頂いた飴玉のお礼に、クッキー置きに行こうね。」
とみすずをみて、にっこりした。
登り坂は嫌になるけど、いつも保育園の帰り道はあっという間で、おまけに今日は緑川さんちの前で立ち止まったので、みすずは歩いた気がしなかった。綾子がチャイムを押すと
「はい。どなたでしょう。」
という声が聞こえ、
「いつも、子供がおばあちゃまに飴玉をいただいている、結城と申します。」
と、綾子が答えると、ぎいっと門が自動であいて、
「どうぞ」
と聞こえた。
中は門から玄関まで、まるでお城か何かのように長い石畳があって、もうそれだけで、みすずは興奮した。
「保育園より広いね。」
みすずがそう言った緑川家の庭は、一面秋のバラで埋め尽くされていて、とてもよい匂いだった。玄関先には、お手伝いさんのような人が立っていて、
「大奥様がお会いになるそうです。」
と言って、中まで通してくれた。
正直、綾子は後悔した。そっとクッキーをおいて、さっさと帰った方が良かったのではないかと思ったのだ。まさか家の中まで通されるとも思わず、ましてや、門の中がこんなに立派だとは知らず、心臓がドキドキしていた。
「いらっしゃい」
そう言って、緑川夫人が、車いすに乗って、右足の膝から下に包帯をぐるぐる巻きにして、みすずたちの前に現れた。
「おばあちゃん、どうしたの?」
みすずは、ソファーから体を乗り出すようにして、隣に座っていた綾子に
「こらっ」
と、膝を叩かれた。
「階段から落ちてしまってね。」
緑川夫人はそう言って、みすずににっこりほほ笑んだ。
「すみません。突然やってきまして。この子が、このところ、緑川さんにお目にかかれないのを、毎日のように気にかけておりまして、病気なのかもと、やってまいりました。少しばかりでお恥ずかしいのですが、どうぞ、これを。」
と言って、駅前で買ってきたお菓子を差し出した。
「まあ、嬉しい。動く事が出来ないものだから、甘いものはとてもうれしいわ。」
緑川夫人はそう言うと、とてもうれしそうにしながら、そのあと、何度も
「ご心配いただいた上に、お心使いいただいて」
と、何度も頭を下げていた。
みすずには、
「元気に歩けるようになったら、また飴玉持って待ってるからね。ママを困らせちゃだめよ。」
そう言って、やっぱり、
「ありがとう」
と、何度もおじきしていた。
その後、「すぐに用意させるから、食事していって。」と、緑川夫人は言ったのだけど、
「主人がもう帰ってきますから。」と綾子は丁寧に頭を下げて、自宅に戻ったのだった。
帰るとすぐに、綾子が、
「あ~、すごいお屋敷だったわね。緑川さんちって何食べるのかしら?」
と下世話に言うので、みすずが、
「そんなに気になるなら、ご馳走になればよかったじゃん。」
と言うと、近くにあった新聞紙で頭をパンっと叩いて、
「食べた気しないよ、きっと。」
と、貴彦と目を合わせて笑っていた。
その日、我が家はスパゲッティだったのだけど、寝る頃になって、
「きっとおんなじスパゲッティでも、緑川さんちとは味も見た目も違うんだろうな。」
と、貴彦が余計なひと言を言ったので、
「どうせそうよ。」
と、綾子はまるで子供のように、拗ねていた。すると、みすずが、
「じゃあさ、今度パパとみすずと一緒に行って食べてこようよ。」
と、屈託のない笑顔を見せたのだった。
それから、しばらく経っても、緑川夫人は、脚の具合が良くないのか、待っても待っても外には出てきてくれなかった。




