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第98話 灰の名を持つ器

 白花修道院からベルディアへ戻る列は、ただの護送ではなかった。


 先頭を歩くのは、Aランク冒険者オルガだった。


 灰色の外套を風になびかせ、肩に槍筒を背負っている。

 馬には乗らない。

 彼女は馬を荷車の横へ回し、自分の足で道を歩いていた。


 理由はすぐにわかった。


 道の左右、森の奥。


 潜む気配を、彼女は一つずつ潰していった。


 槍を投げる音は、ほとんど雨だった。


 ひゅ、と短い風切り音。

 次の瞬間、林の奥で悲鳴が上がる。


 殺してはいない。


 足元。

 袖。

 外套の裾。

 剣を握る手のすぐ横。


 槍は逃げようとする者を地面へ縫い止め、潜んでいた者の場所を暴く。


 まさに鉄雨。


 バルザが楽しそうに牙を見せた。


「派手だな」


 オルガは前を見たまま答えた。


「派手に見えるなら、まだ抑えている」


「ほう」


「証拠と子どもがいる。森ごと沈めるわけにはいかん」


 その言葉に、透は少しだけ目を細めた。


 わかっている。


 この女は戦場で何を壊していいか、何を壊してはいけないかを見ている。


 単純な強さだけではない。


 仕事としての強さ。


 Aランクというものが、ただ腕力の階級ではないことが、その歩き方だけで伝わった。


 護送列の中央には、救出された子どもたちがいた。


 ミド・カランは薬で眠っている。

 猫耳が時折震えるたび、芽衣が毛布を直す。


 リザ・トールはニーナの隣を歩いていた。

 まだ顔は青いが、自分の名を書いた骨札を胸元に握っている。


 ノイ・バルトは、半白の骨札を何度も見ていた。

 「たぶん」と書かれた横の小さな文字を、指でなぞっている。


 名を思い出せない幼い子は、ルカの服の裾を掴んで歩いていた。

 ルカは道番の板を抱えながら、時々振り返る。


「ここ、石。気をつけて」


 幼い子が頷く。


「こっちは、荷車の影。寒くない?」


 幼い子は首を横に振る。


 ルカは小さく頷いた。


「じゃあ、進む」


 誰かを引っ張るのではない。

 道を示している。


 その姿を、オルガが一度だけ横目で見た。


「小さい道案内か」


「ルカだ」


 透が答える。


「役は?」


「道番」


 オルガは短く息を吐いた。


「役がある子どもは、折れにくい」


 バルザが笑う。


「同じことを言う奴が砦にもいる」


「そいつは戦場を知っている」


「ああ。片腕の老兵だ」


「なら正しい」


 オルガはそれだけ言って、また前を向いた。


 列の後方では、久世とアルマが証拠箱の護衛についていた。


 久世は何度も森へ視線を向ける。


 敵が出れば斬りたい。


 だが、透からの指示は明確だ。


 証拠箱へ伸びる手だけを止める。

 子どもの列へ近づくものだけを止める。

 自分から前へ出ない。


 その制限が、今の久世には重い。


 だが、彼は抜かなかった。


 アルマが横で言う。


「我慢できていますね」


「馬鹿にしてるのか」


「いいえ。以前なら先に飛び出していたと思います」


 久世は顔をしかめた。


「……否定できない」


 アルマは小さく頷く。


「斬らないことも、剣の仕事です」


 久世は黙った。


 少し前なら、その言葉に腹を立てていた。

 今は、白花の地下で燃焼瓶を斬らずに止めた感覚が残っている。


 斬らないことで守れるものがある。


 それを認めるのは、悔しい。


 だが、見てしまった。


 相良は列の中央で歩いていた。


 聖剣は鞘の中。

 顔はずっと硬い。


 透が白花橋でやったことが、頭から離れていない。


 名前を消した男に、痛みの中で名前を書かせた。

 右手を潰し、もう番号を書けないようにした。

 殺してはいない。

 だが、許してもいない。


 正義の味方ではない。


 透はそう言った。


 相良は勇者として、その言葉にどう向き合えばいいのかわからなかった。


 だが、列の中でリザが骨札を握っている。

 ミドは呼吸を取り戻している。

 サリカと同じように、番号ではなく名で呼ばれた子どもたちがいる。


 正しいかどうか。


 それだけでは測れないものが、目の前を歩いていた。


 黒瀬が隣へ来て、小さく言う。


「難しい顔」


「考えてた」


「篠宮のこと?」


「ああ」


「やめた方がいいよ。あれを勇者の物差しで測ると、たぶん壊れる」


 相良は眉をひそめた。


「どういう意味だ」


「篠宮は、誰にでも手を差し伸べる人じゃない。手を伸ばす相手と、折る相手を分けてる」


 黒瀬は前を歩く透を見た。


「そこが怖い。でも、だから助かる人もいる」


 相良は答えられなかった。


 列がベルディアの外門へ近づく頃、灰信片が鳴った。


 シェラが携行板を開く。


「ベルディアギルドより受信。北門通過許可取得済み。亜人街療養所、薬師組合、ギルド地下証拠室、受け入れ準備完了。灰の砦より返信あり」


 透が振り返る。


「砦は」


「名簿番、白花救出者用の骨札棚を増設。水番、受け入れ用水瓶を確保。灰布番、寝床布を準備。ガルド、防衛段階を一つ上げたまま維持。ネイラの黒炎番候補二名、眉の損傷なし」


 ネイラが横で舌打ちする。


「そこを報告に混ぜるな」


 シェラは続ける。


「イーシャより追記。白花から来る子へ、最初に水と名前を渡す」


 その言葉に、透は少しだけ目を伏せた。


 水と名前。


 灰の砦らしい受け入れ方だった。


 オルガがその報告を聞き、透へ視線を向けた。


「お前たちの拠点か」


「ああ」


「水番、名簿番、灰布番、防衛段階。ずいぶん整っているな」


「必要だから作った」


「そうか」


 オルガはしばらく黙って歩いた。


 やがて、低く言う。


「それはもう、ただの隠れ家ではない」


 透は答えない。


 オルガは続ける。


「水を管理し、名を記録し、寝床を用意し、外敵に備え、受け入れる者を選ぶ。逃げ込んだ者を渡さない掟もあると聞いた」


「ある」


「なら、砦という言葉でも足りなくなり始めている」


 バルザが横でにやりと笑う。


「言ってやれ、Aランク」


 透が視線を向ける。


「黙ってろ」


 バルザは楽しそうに黙った。


 オルガは容赦なく言った。


「小さな国の芽だ」


 透の足が、ほんのわずかに止まりかけた。


 ルカが振り返る。


「国?」


 透はすぐに歩き出す。


「国じゃない」


 オルガは否定しなかった。


 ただ、灰色の目で透を見た。


「今はな」


 その言葉は重かった。


 透は前を見た。


 灰の砦は国ではない。


 王を立てた覚えもない。

 旗を掲げた覚えもない。

 税を取る気もない。


 ただ、水を奪わせない。

 人を所有させない。

 逃げ込んだ者を渡さない。

 名を消された者の名を戻す。


 それだけを積み重ねてきた。


 だが、その積み重ねが、外からは何に見えるのか。


 透はまだ答えを出さなかった。


 ベルディア北門に着くと、門番隊がすでに待機していた。


 レオナの手が回っているのだろう。

 いつもの検問ではなく、救出者と証拠箱を通すための臨時通路が開けられている。


 門番隊長がオルガを見て、すぐに背筋を伸ばした。


「鉄雨殿。ギルド長より連絡は受けています」


「救出者優先。証拠箱はギルド地下へ。捕縛者は別枠で拘束。神殿側は勝手に触らせるな」


「了解しました」


 オルガの言葉には、命令に近い重さがあった。


 冒険者でありながら、門番隊が従う。


 それがAランクの権威なのだろう。


 エルドも同じ場にいたが、口を挟まなかった。


 彼は今、強く出られない。


 白花修道院の地下を見た者が多すぎる。

 証拠が多すぎる。

 Aランク冒険者が護衛についた。

 ギルドが中央へ直接送った。


 王都神殿の手で、簡単に握り潰せる段階ではなくなっている。


 その事実を、エルドは理解している。


 だから沈黙している。


 透はその沈黙も記憶した。


 ベルディアの街へ入ると、通りの両側に人が集まっていた。


 噂は先に届いていたのだろう。


 白花修道院から子どもが救出された。

 地下に白倉の番号札があった。

 灰の主が、白い花の根を掘り返した。

 Aランク冒険者が証拠を守って戻ってきた。


 人々の視線は、子どもたちへ向けられる。


 驚き。

 怒り。

 同情。

 不安。

 そして、ほんの少しの希望。


 亜人街の者たちが、門近くまで迎えに来ていた。


 ロウ老人が前へ出ると、何人もの亜人が駆け寄った。


「リザ!」

「ミドは?」

「その子は誰だ?」

「白花にいたのか」

「名前は? 名前はわかるか?」


 ルカが一歩前へ出た。


「順番。水、薬、名前」


 小さな声だった。


 だが、不思議と通った。


 ロウ老人がすぐに頷く。


「聞いたな。まず水と薬だ。名は急かすな。思い出せる者からでいい」


 亜人街の者たちは頷いた。


 救出者の一部は、薬師組合の療養所へ。

 一部は亜人街の仮宿へ。

 身元不明の子どもたちは、ギルド地下の保護室で一晩様子を見ることになった。


 灰の砦へ行きたい者が出るかどうかは、本人が落ち着いてから決める。


 透はそれでいいと思った。


 奪われた者に、すぐ選べと言うのは酷だ。


 選べるようになるまで、守る。


 ギルドへ着くと、レオナが入口で待っていた。


 彼女の顔には疲労が見える。

 だが、目は鋭い。


「戻ったな」


「ああ」


 透は証拠箱を示す。


「白花だけじゃない。白石施療院、聖灯孤児舎、北巡礼宿、王都東倉庫区。白倉本庫への線もある。灰番関連候補の記載も見つけた」


 レオナの眉が深く寄る。


「最悪だな」


「まだある」


 透は白い筆の証拠袋を渡す。


「番号を書いた事務長に、名前を書かせた。サリカ、ミド、リザ。筆も残した」


 レオナは袋の中の折れた白い筆を見た。


 その横にある三枚の名前札。


 震えた字。

 だが、名前として読める。


 レオナは低く言った。


「いい証拠だ」


 相良はその言葉に、少しだけ顔を上げた。


 レオナは相良を見た。


「何か言いたい顔だな、勇者」


 相良は迷った後、言った。


「篠宮は……その男の手を潰しました」


 周囲の空気が少し止まる。


 レオナは透を見る。


「殺したのか」


「殺してない」


「証言は取ったか」


「取った」


「証拠は残したか」


「残した」


「また番号を書ける状態か」


「書けない」


 レオナは少しだけ目を伏せた。


 そして言った。


「なら、ギルドとしては治療して拘束する。右手については、現場での制圧処置として記録する」


 相良が息を呑む。


「それでいいんですか」


 レオナは淡々と答えた。


「よくはない。だが、あの男が水路ごと子どもを焼こうとしたなら、現場判断としては甘い方だ」


 相良は言葉を失った。


 オルガが後ろから言う。


「勇者。戦場で誰も傷つけずに全員を裁けると思うな」


「でも……」


「迷うのは悪くない。だが、迷っている間にも、番号を書く手は動く」


 相良の顔が歪む。


 オルガは透を見た。


「灰喰い、お前もだ。正義を名乗らないのは勝手だが、手を潰す判断を一人で抱え続ければ、いずれお前の灰は濁る」


 リィンの目が少し動いた。


 透は黙っている。


 オルガは続ける。


「組織を持つなら、裁きの形を作れ。捕らえた者をどう扱うか。誰を生かし、誰を渡し、誰を働かせ、誰を追放し、誰を殺すのか。お前一人の怒りで決め続けるな」


 その言葉は重かった。


 透は怒りに任せているつもりはない。

 だが、白花橋で判断したのは透一人だ。


 仲間がいないからできたこと。

 仲間がいたら、違ったかもしれないこと。


 灰の砦が大きくなるなら、その判断も増える。


 境目房にゼグラがいる。

 白倉回収人もいる。

 オルベンも入る。

 これからもっと増える。


 誰が境目を決めるのか。


 透だけか。


 それでいいのか。


 レオナは書類を一枚、机へ置いた。


「それも含めて、話がある」


 ギルド奥の会議室へ移動する。


 そこには、既にいくつもの書類が積まれていた。


 白花修道院事件の速報。

 中央ギルドへの緊急文書。

 Aランク護衛依頼の控え。

 救出者の仮保護名簿。

 白倉関連証拠の目録。


 そして、一番上に置かれていたのは、新しい登録用紙だった。


 透はその紙を見る。


 冒険者クラン登録申請書。


 レオナが椅子に座らず、机に手を置く。


「篠宮透。お前たちを、もうただの個人冒険者やパーティとして扱うのは無理だ」


 透は黙っている。


「白花で動いた人数、役割、救出者、証拠保全、灰信線、名簿番、灰の砦との連絡。これはパーティの仕事じゃない。小規模クラン以上の動きだ」


 シェラが静かに記録する。


「ギルド長、クラン登録を提案」


 レオナは頷く。


「提案ではあるが、実務上はほぼ必要だ。クラン登録すれば、団体依頼を受けられる。救出者の保護、証拠護衛、複数班行動、地上拠点の賃借、物資購入、ギルド経由の保管がやりやすくなる」


 透は紙を見た。


「名前を出せば狙われる」


「もう狙われてる」


 レオナの返答は早かった。


「名前がない方が危険だ。王都神殿や白倉に勝手な名前をつけられるぞ。灰喰い一派、奈落魔族団、危険職能結社。好きなように呼ばれた後で否定する方が面倒だ」


 オルガが壁にもたれながら言う。


「先に名乗れ。名を戻す側が、自分の名を敵に任せるな」


 ルカがその言葉に反応した。


「名前、取られる?」


「取られる」


 オルガは子ども相手にも容赦なく答える。


「名乗らない者には、敵が名前をつける」


 ルカは真剣な顔で透を見た。


「じゃあ、名前いる」


 リィンも静かに言う。


「地上で動く器。砦そのものとは別」


 シェラが補足する。


「灰の砦は所在秘匿。クランは地上活動用の公開名義。機能分離、妥当」


 バルザが笑う。


「とうとう看板か」


 ネイラは不満そうに腕を組む。


「看板を出せば、火も矢も飛んでくる」


 レオナが返す。


「出さなくても飛んでる。なら、こっちから依頼と金と物資を取れる形にした方がいい」


 ネイラは黙った。


 透は登録用紙を見つめる。


 クラン。


 地上での器。


 灰の砦を国とは呼ばない。

 旗も掲げない。


 だが、地上で名を持つ必要がある。


 名前を消された者を戻すために。

 証拠を守るために。

 救出者を受け入れるために。

 白倉の根を掘るために。


 透は問う。


「クランを作ると、誰が所属になる」


 レオナは答える。


「中心登録は、篠宮透、リィン、バルザ、シェラ。ルカは未成年かつ非戦闘役として保護登録。ネイラは……」


 レオナは少しだけネイラを見る。


「表向きは特殊協力者。魔族と明記はしない。今はな」


 ネイラは鼻を鳴らした。


「隠されるのは好きではない」


「隠さなければ、神殿が面倒を増やす」


「知っている」


 シェラが言う。


「灰の砦側の名簿番、水番、灰布番、防衛隊は、クラン支援員または後方協力者として段階登録可能」


 レオナが頷く。


「その通りだ。全員を一度に出す必要はない。まずは地上窓口を作る」


 透はさらに問う。


「灰の砦の場所は」


「出さない。クラン拠点はベルディアに置く。倉庫兼事務所を用意する。地下に証拠保管庫と灰信線の板を置ける場所がいい」


 ルカが目を丸くする。


「地上の砦?」


「砦ではない」


 透が言う。


 オルガがすぐに返した。


「支部だな」


 バルザが笑う。


「国っぽくなってきたな」


「国じゃない」


 透の声は低い。


 だが、即座に否定するその言葉に、以前ほどの強さはなかった。


 レオナは透を見る。


「国じゃなくていい。少なくとも今は、クランで十分だ」


 オルガが続ける。


「だが覚えておけ。壁を持ち、水を守り、住む者を数え、逃げ込んだ者を渡さない。そういうものは、外から見ればただの集団ではない」


 透は黙る。


 リィンが横で言った。


「名前は、自分で決める」


 ルカも頷く。


「取られる前に」


 透は机の上の登録用紙へ手を伸ばした。


 まだ書かれていない空欄。


 クラン名。


 そこに何を書くか。


 灰の砦。


 それは帰る場所の名だ。

 まだ正式に掲げるには早い。


 王でも国でもない。

 だが、地上で動くための印はいる。


 灰標。

 帰る道の印。

 灰信線の起点。

 迷った者が戻れる目印。


 透は炭筆を取った。


 書く前に、一度だけ全員を見る。


 リィン。

 ルカ。

 バルザ。

 シェラ。

 ネイラ。

 レオナ。

 オルガ。

 相良たち。

 救出された子どもたちの名が記された骨札。


 透は静かに言った。


「俺たちは国じゃない。まだ旗もない」


 誰も口を挟まなかった。


「でも、名前を消された奴を拾うなら、俺たちにも名が要る」


 炭筆が紙へ触れる。


「勝手に呼ばれる前に、俺たちで決める」


 透は空欄へ書いた。


 ――灰標団。


 シェラの右目が光った。


「クラン仮称、灰標団。記録」


 ルカが小さく繰り返す。


「灰標団」


 リィンが頷く。


「道の印」


 バルザが牙を見せる。


「悪くねえ」


 ネイラは少しだけ目を細めた。


「逃げる道ではなく、戻る道か」


「そうだ」


 透は炭筆を置いた。


 レオナが登録用紙を手に取り、深く息を吐く。


「これで、地上での器ができる」


 オルガは腕を組み、透を見た。


「器を作ったなら、中身も問われるぞ。灰喰い」


 透は答えた。


「わかってる」


 会議室の外では、白花から救われた子どもたちの名を呼ぶ声がしていた。


 サリカ。

 ミド。

 リザ。

 ノイ。


 まだ思い出せない名もある。


 灰標団。


 それは旗ではない。

 王冠でもない。


 けれど、地上に打たれた最初の灰標だった。


 誰かが迷った時、戻るための印。


 白倉が名を消すなら、灰標団は名を戻す。


 その名が、ベルディアギルドの登録用紙に刻まれた。


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