第91話 市の日に名を呼ぶ
サリカ・ロウの名が戻った翌朝、亜人街の空気は少しだけ違っていた。
ベルディア南東の古い通り。
獣油と薬草、干し皮と焼き麦の匂いが混じる場所。
いつもなら外から来た者へ向けられる視線は硬く、扉は半分だけ開き、会話は路地の奥で細く交わされる。
だが、その日は違った。
家々の軒先に、古い布が吊られている。
皮職人の工房前には小さな台が出され、削った骨飾りや革紐が並ぶ。
薬師組合の若い者が、乾燥草の束を箱に詰めて運んでいる。
狐耳の老人が、焼いた芋を籠に入れて売っていた。
市の日だった。
大きな祭りではない。
貴族が来るような華やかなものでもない。
亜人街の者たちが、自分たちの品を並べ、足りない物を交換し、子どもたちが少しだけ甘いものを買ってもらえる日。
透たちは、そこへ来ていた。
透、リィン、バルザ、シェラ、ルカ。
それに、灰布の外套を深く被ったネイラ。
ネイラは角を隠し、黒炎皿も布の下に眠らせている。
それでも、彼女の周囲だけ空気が少し熱い。
バルザがそれを見て笑う。
「隠れる気があるのか、お前」
「ある」
「熱でばれるぞ」
「近づくな」
ネイラは短く返した。
ルカは市の通りを見て、目を丸くしていた。
「外で、物を並べる」
「市だからな」
透が答えると、ルカは頷いた。
「水も?」
「水は売らない」
横から薬師組合のニーナが言った。
彼女は薬草袋を抱えて、少し笑う。
「でも、薬草湯は配ります。今日はサリカも少しだけ外に出る予定です」
ルカの顔が明るくなる。
「サリカ、白になった?」
「はい。白になりました」
ニーナはその言葉の意味を知っている。
名簿番の骨札。
半白から白へ。
サリカ・ロウという名前が、番号ではなく本人の声で戻った。
ニーナは透へ向き直る。
「昨日、亜人街の記録を見直しました。白倉の名簿に似た名前が、まだ三人います。生存確認できたのは一人だけ。残りは、薬の配布が途切れています」
透の目が細くなる。
「名は」
「ミド・カラン。猫耳の少年、十歳。二週間前から姿がありません。
リザ・トール。山羊角の混血、十四歳。白花修道院に移された記録があります。
それから、サリカと同じ狐血の欄に、読み取れない名前が一つ」
シェラが即座に記録する。
「亜人街照合、追加三件。白花修道院接続、一件確定」
白花修道院。
透の中で、その名が灰へ沈む。
表向きは救護施設。
孤児や病人を預かり、聖薬を配る修道院。
だが、白倉回収人は言っていた。
ベルディアからの回収物は、北の聖薬荷車に紛れさせる。
中継は、白花修道院。
つまり、そこは白倉への道の一部だ。
リィンが静かに言う。
「白い花、いい匂いじゃないね」
「ああ」
透は短く答えた。
その時、通りの向こうから小さな歓声が上がった。
サリカが出てきた。
狐耳の少女は、ニーナに支えられながらゆっくり歩いている。
首には灰布を細く巻き、手には白くなった骨札を握っていた。
まだ顔色は悪い。
声も掠れている。
それでも、自分の足で立っている。
近所の者たちが、次々と声をかける。
「サリカ」
「戻ったんだね」
「よかった」
「喉、無理するんじゃないよ」
サリカはそのたびに、小さく頷いた。
名前を呼ばれる。
そのたびに、彼女は少しずつ、番号から遠ざかっていく。
ルカがサリカへ駆け寄った。
「サリカ」
サリカは顔を上げる。
「……ルカ」
掠れた声だった。
でも、声だった。
ルカは真剣な顔で言う。
「名前、ちゃんとある?」
サリカは骨札を見せた。
そこには、震えた字でこう書かれている。
サリカ・ロウ。
「ある」
「よかった」
ルカは頷いた。
それを見ていた亜人街の老人が、透の方へ近づいてきた。
狐耳の老人だった。
背は曲がっているが、目は鋭い。
「灰の主か」
「篠宮透だ」
「では、透殿」
老人は小さく頭を下げた。
「サリカを戻してくれたこと、礼を言う」
「俺だけじゃない」
「知っている。薬師、ギルド、灰の砦の名簿番、道を見る子、青い針の娘、記録する機兵、獣人の戦士。皆の手だと聞いた」
老人は通りを見た。
「だからこそ、礼を言う」
透は黙って聞く。
老人は続けた。
「亜人街には、名を消される怖さを知る者が多い。王国の帳簿では、我々はよく間違えられる。狐、犬、猫、角、混血、身元薄。名前より先に耳や角で数えられる」
その声には、長い疲れがあった。
「サリカが番号にされかけたと聞いた時、皆、怒った。だが同時に、諦めかけた。相手が白倉なら、神殿なら、王都なら、仕方がないと」
老人は透を見た。
「だが、あの子は名を持って戻った」
通りの先で、サリカが焼き芋を受け取っている。
ニーナが横で笑い、ルカが真剣な顔で芋の匂いを嗅いでいる。
老人は言った。
「それだけで、諦める理由が一つ減った」
透は短く答えた。
「まだ一人だ」
「一人目だ」
老人はそう返した。
透は少しだけ目を伏せた。
一人目。
それは小さな数だ。
だが、ゼロではない。
灰の砦の灰信線が初めて拾った名。
名簿番が半白から白へ移した名。
亜人街で再び呼ばれた名。
その一つが、街の空気を変えている。
バルザが小声で言う。
「こういうのも、戦だな」
透は頷いた。
「そうだな」
剣や灰骸刀で斬る戦いではない。
名前を呼ぶ戦い。
記録を残す戦い。
諦めを減らす戦い。
だが、それも敵にとっては厄介なはずだ。
白倉は番号にする。
灰の砦は名前を戻す。
正面からぶつかっている。
市の通りを歩くうち、ルカは焼き芋を半分受け取った。
サリカが差し出したものだ。
「熱い?」
「熱い。でも甘い」
ルカは慎重にかじった。
すぐに目を丸くする。
「地面の蜂蜜?」
サリカが小さく笑った。
「芋」
「芋、すごい」
シェラが記録する。
「ルカ、焼き芋を高評価。分類、地面の蜂蜜」
「違う」
透が言うと、ルカは焼き芋を抱えたまま首を傾げた。
「違う?」
「違う」
「でも甘い」
「芋だ」
「芋、地面の甘いもの」
「それでいい」
リィンの口元が少しだけ緩む。
ネイラは遠巻きにそれを見ていた。
サリカの狐耳。
亜人街の子どもたち。
名前を呼び合う声。
市の小さな賑わい。
彼女は外套の奥で、自分の黒角に触れた。
失敗作。
炉屑。
廃棄個体。
そう呼ばれていた。
けれど、灰置き場ではネイラと呼ばれる。
ルカはネイラと呼ぶ。
透もネイラと呼ぶ。
バルザは小娘と呼ぶこともあるが、失敗作とは呼ばない。
リィンは、黒炎を役割として見ている。
ネイラは小さく息を吐いた。
「名前を戻す、か」
透は横目で見る。
「何だ」
「何でもない」
ネイラはそっぽを向いた。
その時、シェラの右目が光った。
「灰信線、ベルディアギルドより追加符号」
市の賑わいの中で、空気が少し変わる。
透たちは路地の端へ移動した。
シェラが携行灰信片を開く。
灰色の小さな板に、短い符号が浮かんだ。
――白花修道院、明後日、聖薬配布日。孤児搬送荷車あり。
――神殿監査官ラザレス、同行予定なし。
――エルド、修道院訪問を申請。
――王都騎士少数護衛。
――白倉回収人、別動の可能性。
バルザが低く笑う。
「わざわざ日を教えてくれるとは親切だな」
シェラが続ける。
「レオナより追記。表向きの聖薬配布日に介入するには、正式理由が必要。亜人街および薬師組合から行方不明者照合依頼を出す案」
ニーナが息を呑む。
「私たちから……?」
狐耳の老人が静かに言った。
「出そう」
ニーナが老人を見る。
「ロウさん」
「サリカの件がある。ミド、リザ、他の子の名もある。薬師組合だけに背負わせない。亜人街自治会として、白花修道院へ確認を求める」
ニーナは少し震えながら頷いた。
「はい」
透は老人を見る。
「危険だぞ」
「知っている」
老人は答えた。
「だが、名を戻すのを君たちだけに任せていては、また奪われる。ここにいる者も、自分たちの名を守らなければならない」
その言葉に、透はしばらく黙った。
灰の砦だけが守るのではない。
守られた者たちも、少しずつ立ち始める。
それは、勢力が広がるということだ。
支配ではない。
命令でもない。
名前を戻された者が、次の名前を守る。
その線が伸びていく。
「わかった」
透は言った。
「灰の砦は、その依頼を受ける」
老人は深く頷いた。
シェラが記録する。
「正式依頼候補。亜人街自治会および薬師組合より、白花修道院への行方不明者照合。灰の砦、協力」
バルザがにやりと笑う。
「灰の砦って名前、外で使うのか」
シェラは淡々と答えた。
「既に市内噂で流通中」
「おい」
透が短く言う。
シェラは右目を瞬かせた。
「訂正不能」
リィンが静かに言う。
「もう、少し出てる」
ルカが焼き芋を抱えたまま頷く。
「灰の砦、名前戻すところ」
透は息を吐いた。
名はまだ早い。
旗もまだない。
けれど、言葉は先に歩き出す。
止めるのは難しい。
なら、名に負けない中身を作るしかない。
ニーナが少し不安そうに問う。
「白花修道院は、表では評判がいいんです。孤児を預かって、病人に薬を配って、神殿からも聖女様が来たことがあると……」
ネイラが冷たく言う。
「表が白い場所ほど、裏の汚れを隠しやすい」
リィンが頷く。
「白い花の根を見る」
ルカが首を傾げる。
「根?」
「地下」
「ああ。下に悪い道がある」
透はシェラへ言う。
「ベルディアへ返せ。依頼を正式化。明日までに白花修道院の地図、職員名簿、荷車の出入り、地下の有無を集める。名簿番はミド、リザ、読めない狐血の名を照合」
「了解」
シェラは灰信片へ符号を打つ。
名前。
白花。
依頼。
地図。
荷車。
地下。
照合。
灰信線が走る。
遠くギルドへ。
さらに、灰の砦へ。
そこではイーシャとケイルが、また骨札を動かすだろう。
白。
半白。
灰。
赤。
名前を戻す仕事は止まらない。
市の通りへ戻ると、サリカが小さな革紐を持って透の前に来た。
狐耳の老人が売っていた飾り紐だ。
淡い茶色の革に、小さな白い骨玉が一つついている。
サリカはそれを透へ差し出した。
「……お礼」
透は見下ろす。
「俺にか」
サリカは頷く。
「名前、戻してくれたから」
「俺だけじゃない」
「でも、持ってて」
透は少しだけ迷い、受け取った。
小さな革紐。
武器でも証拠でもない。
何かの力があるわけでもない。
ただ、戻った名前から渡された礼。
透はそれを腰の灰骸刀の鞘に結んだ。
灰色の鞘に、白い骨玉が小さく揺れる。
サリカの顔が少し明るくなった。
リィンがそれを見て、静かに言う。
「いい」
「そうか」
「うん。名前の印」
シェラが記録する。
「灰骸刀鞘へサリカ・ロウ礼紐装着。識別、名前の印」
「記録しなくていい」
「重要です」
ルカも頷く。
「重要」
透は反論しなかった。
バルザが笑う。
「主の刀が少し賑やかになったな」
「主じゃない」
「まだ言ってろ」
そのやり取りに、サリカが小さく笑った。
市の日の空気が、少しだけ柔らかくなる。
だが、その柔らかさの向こうに、白花修道院の影がある。
表向きは救護施設。
裏では白倉への中継点。
次に向かう場所は、神殿の白い顔の奥だ。
透は鞘の白い骨玉に触れた。
軽い。
だが、確かにそこにある。
名前を戻した証。
透は市の通りを見渡した。
サリカを呼ぶ声。
薬草を配るニーナ。
依頼を出すと決めた亜人街の老人。
焼き芋を大事そうに食べるルカ。
角を隠しながらもその場に立つネイラ。
記録するシェラ。
静かに周囲を見ているリィン。
人々の間で大きな体を少し縮めて歩くバルザ。
灰の砦は、地上でも少しずつ形を持ち始めている。
それは戦うためだけではない。
名前を呼ぶため。
戻った者が、また歩けるようにするため。
だからこそ、敵はこの線を嫌がる。
透は低く言った。
「白花へ行く」
リィンが頷く。
「根を見る」
バルザが牙を見せる。
「白い花をひっくり返すか」
ネイラが外套の奥で黒炎を沈める。
「根が腐っていれば焼く」
ルカは焼き芋を飲み込んで、道番の板を抱え直した。
「地下の道、見る」
シェラが灰信片を閉じる。
「白花修道院調査準備、開始」
市の日のざわめきの中で、次の道が決まった。
白い花の根に、灰が沈み始めていた。




