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第75話 同じ卓には戻れない

 ベルディア冒険者ギルドの一階は、昼前だというのに夜の酒場より騒がしかった。


 王都から勇者訓練隊が来た。


 それだけなら、街の者たちは歓迎と好奇で集まっただろう。

 だが、門前で起きた出来事は、ただの来訪を別のものへ変えていた。


 神殿監督官が、灰の主に王都同行を命じた。

 拒否権はないと言った。

 灰の主は従わなかった。

 青い封印針の少女が、三枝美琴の監視封環を暴いた。

 灰が、その命令だけを喰った。

 神殿の腕輪は、証拠品としてギルドに押収された。


 話は、もうギルド内に届いていた。


 透たちがレオナに連れられて入ると、冒険者たちの視線が一斉に集まる。

 続いて王都の勇者たちが入ってきた瞬間、さらにざわめきが膨らんだ。


 相良迅。

 久世蓮司。

 姫野朱里。

 綾瀬真由。

 三枝美琴。

 黒瀬真琴。

 速水陸。

 藤堂絵里香。

 小鳥遊芽衣。


 かつて同じ教室にいた者たちが、異世界の迷宮都市のギルドで向かい合う。


 誰も、すぐには言葉を出せなかった。


 レオナは受付奥の大会議室へ向かいながら言う。


「まずは現地確認の前に、証拠の共有を行う。王都側、ベルディア側、双方の記録官を入れる。発言は記録される。感情論は後にしろ」


 エルドは穏やかな表情を戻していた。


「もちろんです。神殿としても、事実確認を重視します」


 その声を聞いたギルド職員の数人が、露骨に顔をしかめた。


 門前で拒否権はないと言った男が、事実確認を重視すると言う。


 ベルディアの者たちは、その言葉をもうそのまま受け取らない。


 大会議室には長い卓が置かれていた。


 片側にベルディア側。

 レオナ、ダグラス、ギルド記録官、門番隊の代表、学院教師メリザ、アルマ。

 そして、透たち。


 反対側に王都側。

 神官監督官エルド、武装神官ベリオ、護衛騎士の隊長。

 相良たち勇者訓練隊。


 同じ卓。


 だが、同じ側ではない。


 透はレオナの隣ではなく、少し離れた位置に立った。

 椅子は用意されている。

 それでも座らない。


 リィンはその隣に立つ。

 バルザは壁際。

 シェラは記録板を展開し、セイルは資料束を抱え、ルカは透の斜め後ろで周囲の道を確かめるように立っていた。


 王都側では、美琴が椅子に座っている。


 顔色はまだ悪い。

 腕輪を外された手首には、芽衣が巻いた布がある。

 そこに痛みはもうない。


 ただ、痛みが消えた分だけ、記憶と言葉が胸に戻ってきているようだった。


 真由は美琴の隣で、紙とペンを用意している。

 黒瀬は椅子の背に片腕をかけ、いつもより静かに透を見ていた。

 相良は卓の正面に座ることを避け、少し横の席を選んだ。

 久世は腕を組んで椅子に座り、苛立ちを隠さない。

 藤堂はリィンとシェラを交互に見て、何かを言いたげに口を閉ざしている。


 レオナが卓の中央へ証拠箱を置いた。


「では始める。剣杯商会ベルディア支店南三番倉庫より押収した裏帳簿、黒鞭商会南枝の追跡札、証言封殺札、学院灰札区画の外部干渉線、黒札区域の恐怖誘引札、骨噛み大型個体の命令輪片、旧水門跡の偽装術式片。全て封印済みだ」


 ギルド記録官が証拠箱を一つずつ開いていく。


 リィンが一歩前へ出た。


「その箱、先に右を緩めて」


 記録官はすぐに手を止める。


「右ですか」


「中の線が、左へ逃げてる。先に左を開けると札が割れる」


 記録官は頷き、右側の封印留めを緩めた。


 箱の内側で黒い棘のような術式が震える。

 リィンの針が一本、箱の縁へ落ちた。


 青い線が棘の先だけを押さえる。


 箱は崩れない。

 札も割れない。


 王都側の神官たちが、わずかに身じろぎした。


 ベリオが低く言う。


「神殿封印具ではない」


 リィンは彼を見ない。


「だから残ってる」


 その一言で、ベリオの顔が強張った。


 エルドが間に入るように微笑む。


「見事な技術です。しかし、こうした危険な封印術は、本来神殿の管理下で扱うべきものです」


 リィンはようやくエルドを見た。


「管理すると、残る?」


「何がですか」


「証拠。声。人」


 短い問い。


 エルドは一瞬答えに詰まった。


 レオナが口元だけで笑う。


「続けるぞ。まず南三番倉庫だ」


 シェラが記録板を卓上に置いた。


 青白い光が浮かび、地下檻の映像が再生される。


 鉄格子。

 藁の床。

 壁に貼られた声止め札。

 封環をつけられた人々。

 ミレアが膝を抱えて震えている姿。


 王都側の空気が変わった。


 姫野朱里が口元を押さえる。


 芽衣は顔を青くした。

 藤堂は何も言えず、ただ映像を見つめていた。

 久世でさえ、眉をひそめる。


 黒瀬は小さく呟いた。


「盛り話じゃなかったわけだ」


 次に、黒鞭の男の自白が再生される。


 ――俺たちは運んだだけだ! 倉庫の地下に一晩置いて、朝には別の連中が――


 シェラの声が重なる。


「発言記録。誘拐搬送関与。後続搬送先、迷宮外縁と推定」


 真由が素早く記録を取る。


 エルドは表情を変えない。


「黒鞭商会の罪は明白でしょう。神殿としても厳罰を求めます」


 レオナは次の証拠を出した。


「では、これだ。剣杯商会の裏帳簿。ベルディア支店副支配人の管理印、黒鞭南枝の受領印、そして上位印」


 帳簿の写しが卓上に広げられる。


 剣と杯。

 黒い鞭。

 そして、杯の底に王冠のような印。


 エルドの目がわずかに細くなった。


 それを真由は見逃さなかった。


「その印に見覚えがあるんですね」


 真由が言うと、エルドは穏やかに首を振った。


「神殿の儀礼印には似た形が多くあります。断定は危険です」


「断定はしていません。反応したように見えたので聞きました」


 真由の声は冷静だった。


 エルドは微笑を深める。


「賢者の職能は観察力に優れると聞きます。ですが、疑いすぎは時に真実を遠ざけますよ」


「疑わないことの方が、ここでは危険に見えます」


 会議室の空気が少し張る。


 透は真由を見た。


 王都で禁書庫を探っていたという話を、黒瀬から直接聞いたわけではない。

 だが、彼女の目は、召喚直後よりもずっと疑いを知っている。


 次に、学院灰札区画の記録が映し出された。


 オルベン・ラース。

 暴走した罠。

 ミレアを狙って伸びる赤黒い線。

 それを空中で縫い止めるリィンの針。


 芽衣が身を乗り出す。


「ここ……床の罠と口札の命令線が繋がってる」


 リィンが頷く。


「同じ糸だった」


 芽衣は真剣に映像を見る。


「だから、先に床を切るとミレアさんの喉に戻るんだ」


「そう」


「外へ逃がしてから、止めた」


「うん」


 芽衣は息を吐いた。


「そんな処置、王都の治療班でも見たことない」


 姫野が小さく言う。


「治癒魔法では、できないの?」


 芽衣は少し迷ってから答えた。


「傷になってからなら塞げる。でも、これは傷になる前に命令を外してる。たぶん、治癒とは違う」


 姫野は唇を噛んだ。


 聖女として、癒やす力を誇っていた。

 けれど、目の前の封印処置は、彼女の力とは別の場所にある。


 その事実を認めるのは、簡単ではなかった。


 続いて、黒札餌場の記録が再生された。


 暗い空洞。

 柱に括られた四人。

 周囲の迷宮犬。

 恐怖誘引札。

 骨噛み犬の親玉。


 映像の中で、バルザが迷宮犬を壁へ叩きつける。

 ダグラスが牙を受け、アルマが後方へ抜けた犬を止める。

 透が灰瞬壁で咆哮を逸らし、灰骸刀で骨噛み犬の命令輪だけを斬る。

 リィンが四人の札を、一人ずつ違う手順で外していく。


 会議室は静まり返った。


 久世は、映像から目を離せなかった。


 透の動き。


 速い。

 だが、速さだけではない。


 骨噛み犬の爪を真正面から受けず、灰壁で軌道を逸らす。

 灰骸刀で首を斬らず、命令輪だけを断つ。

 噛みつかれても右腕で耐え、額に残った命令を喰う。


 殺せたはずだ。


 だが、殺さなかった。


 それが、久世には余計に理解しにくかった。


 力があるなら斬ればいい。

 敵なら倒せばいい。

 それが剣の勝敗だ。


 だが、透は勝敗の外側を見ている。


 場を終わらせる。

 証拠を残す。

 人を戻す。

 魔物すら、命令を切って生かす。


 久世の握った拳が震えた。


 速水は乾いた声で言う。


「これ、ほんとに篠宮がやったのかよ……」


 黒瀬が横から返す。


「今さら別人説に戻る?」


 速水は黙った。


 相良は映像の中の透を見ていた。


 奈落へ落ちたはずのクラスメイト。

 自分が助けられなかった少年。


 その少年は、自分たちが王都で訓練を受けている間に、こんな場所で人を救っていた。


 聖剣を持つ自分ではなく。


 灰喰いと呼ばれ、捨てられた透が。


 相良の胸に、重いものが沈む。


 映像が終わると、レオナは卓上に最後の証拠を置いた。


 神殿の監視封環。


 美琴の手首から落ちた腕輪だ。


 封印布の中で、腕輪は物理的にはほとんど無傷のまま残っている。

 ただし、内側の命令線は灰に抜かれ、青い封印線で一部が保存されていた。


 エルドの顔が硬くなる。


「それは神殿管理具です。返却を求めます」


 レオナは即答した。


「却下だ。ベルディア門前で苦痛を発し、異界人の思考と言動を制限していた証拠品として押収する」


「安全管理具です」


「リィン、説明できるか」


 レオナが言うと、リィンは腕輪を見た。


「安全じゃない」


 短い。


 だが、それだけで終わらせず、彼女は針を一本取り出した。


 腕輪には触れず、封印布越しに青い線を浮かせる。


「ここが痛み。ここが記録。ここが思考止め。暴走を止める線は、外側に少しだけ。ほとんど使ってない」


 芽衣が立ち上がりかける。


「本当だ……痛みの線が太すぎる。魔力暴走を防ぐなら、脈と魔力流の方へ行くはずなのに、これは頭側へ伸びてる」


 真由が問う。


「つまり、安全管理ではなく、発言と思考の抑制が主目的?」


 リィンは頷く。


「そう」


 美琴は布を巻いた手首を握った。


「私が篠宮君のことを話そうとすると痛んだ。禁書庫の記録を思い出す時も。灰の話に近づくと、いつも」


 相良が美琴を見る。


「禁書庫?」


 美琴は真由と黒瀬を見た。


 真由が静かに頷く。


 美琴は息を吸う。


「私たち、見たの。篠宮君の職能照合記録が改竄されていたこと。灰の番人適性って記録が、神官長級の権限で消されていたこと」


 会議室が凍った。


 セイルが顔色を変える。


 レオナの目が鋭くなる。


 エルドが即座に言う。


「王都禁書庫への不正侵入を認めるのですか」


 黒瀬が笑った。


「そこに食いつくんだ」


「重大な規律違反です」


 真由が冷静に返す。


「職能記録の改竄も重大です。しかも、その後に本人は奈落へ落とされた」


 エルドの声が冷たくなる。


「不確かな記憶と、禁書庫から持ち出していない情報で神殿を断罪するのは危険です」


「だから腕輪で痛ませて、話せないようにした?」


 黒瀬の一言に、エルドの目が細くなる。


 相良は拳を握っていた。


「神官長は……知ってたんですか」


 エルドは答えない。


「篠宮が本当は必要な職能だったって、知ってたんですか」


「勇者様。現在はベルディアの事件確認が先です」


「答えてください」


 相良の声が強くなる。


 エルドは静かに相良を見た。


「あなたがた勇者候補は、魔王討伐と帰還儀という大きな使命を背負っています。過去の処理に心を乱されるべきではありません」


 処理。


 その言葉に、透の目が冷えた。


 美琴が震える。


 相良は唇を噛んだ。


「処理って……篠宮は、人間です」


「言葉の綾です」


「違う。今、そう言った」


 相良の声は震えていた。


 久世が苛立ったように口を開く。


「相良、今は神官と揉めてる場合じゃ――」


「じゃあ、いつならいいんだよ!」


 相良の声が会議室に響いた。


 久世が固まる。


 相良は続けた。


「篠宮が落とされた時も、今じゃないって思った。神官長に逆らう時じゃないって。俺たちは何もわかってないからって。結果、篠宮は奈落へ落ちた」


 息が荒い。


 聖剣が腰で小さく光る。


「また同じことするのかよ。管理とか、処理とか、拒否権はないとか言われて、また黙るのかよ」


 会議室の誰も、すぐには言えなかった。


 久世は顔を歪める。


 藤堂は目を伏せる。

 姫野は両手を握りしめ、芽衣は泣きそうな顔で美琴の手首を見ていた。


 透は相良を見ている。


 その目に、許しはない。


 だが、完全な無関心でもなかった。


 レオナが静かに口を開く。


「話を戻す。王都側が帰還儀とやらを理由に異界人を管理しているなら、その条件も確認したい。魔王を倒せば全員帰れる、という説明で間違いないのか」


 真由が即座に反応した。


「王国の説明では、魔王の黒王核を使えば帰還儀の逆門が開くとされています。ただし、儀式の対象者選定は王国と神殿の協議による、と記載されています」


 レオナの表情が険しくなる。


「全員帰れるとは書いていないわけだ」


「はい」


 美琴が小さく呟く。


「私たちは、魔王を倒せば帰れるって聞かされてた」


 芽衣が頷く。


「私も、そう思ってた」


 藤堂は不安そうにエルドを見る。


「でも、帰れるんですよね?」


 エルドは穏やかに答える。


「神殿はそのために尽力しています」


 真由が即座に言う。


「答えになっていません」


 エルドの笑みが薄くなる。


「帰還儀は高度な秘儀です。全てを皆様に説明することはできません」


「では、保証はない」


「信仰と王国への信頼が必要です」


 黒瀬が低く笑った。


「出た。信じろ」


 相良は顔を伏せた。


 自分が冊子を読んで感じていた違和感が、ここで形になっていく。


 魔王を倒せば帰れる。


 その言葉は、真実の一部かもしれない。

 だが、全部ではない。


 そして、神殿は全部を話すつもりがない。


 透はエルドへ言った。


「帰還儀に、灰が必要なのか」


 エルドの表情が、ほんの一瞬止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、会議室にはその一瞬を見逃さない者が多すぎた。


 真由。

 黒瀬。

 レオナ。

 シェラ。

 リィン。

 そして透。


 エルドはすぐに微笑む。


「灰とは?」


「とぼけるな」


 透の声が低くなる。


「俺を災厄職として捨てた。戻ったら管理すると言った。魔剣の術式を切る灰を危険だと言った。帰還儀の話になると黙る」


 エルドは答えない。


 セイルが震える声で言った。


「召喚陣や帰還陣は、異界魔力の汚染を受けます。通常は神殿の浄化陣で中和しますが、勇者召喚規模の術式では……灰処理、終端処理、死んだ魔力の沈殿除去が必要になるはずです」


 レオナがセイルを見る。


「つまり?」


「《灰喰い》は、災厄ではなく、召喚と帰還の安定装置だった可能性があります」


 会議室に、重い沈黙が落ちた。


 相良がゆっくり顔を上げる。


「じゃあ、篠宮がいないと……俺たち、帰れないかもしれないってことですか」


 エルドが強く言った。


「憶測です」


 セイルは肩を震わせながらも、続けた。


「はい、憶測です。でも、神殿が透さんをすぐ王都管理下へ置こうとする理由にはなります。危険だからではなく、必要だから」


 美琴が透を見る。


 痛みのない手首を握りしめる。


「そんな……」


 久世が椅子を蹴るように立ち上がった。


「ふざけんなよ。じゃあ何か? 篠宮を落とした連中が、今度は帰るために篠宮が必要だから連れ戻すってことか?」


 彼の声には怒りがあった。


 だが、その怒りの向きはまだ定まっていない。

 神殿へか。

 透へか。

 自分自身へか。


 透は久世を見ない。


 エルドへ視線を向けたまま言う。


「帰るために俺が必要だとしても、俺はお前らの道具じゃない」


 エルドの声が低くなる。


「あなた一人の感情で、勇者様方全員の帰還を危うくするつもりですか」


 美琴が息を呑む。


 卑怯な言い方だった。


 透の灰を奪おうとしながら、今度はクラスメイトの帰還を盾にする。


 相良が立ち上がる。


「それは違う」


 エルドが相良を見る。


「勇者様」


「帰るために篠宮が必要なら、頼むべきです。命令じゃなくて」


 透は相良を見た。


 相良の顔は苦しそうだった。


「俺たちが帰りたいからって、また篠宮の意思を無視したら、それは……あの時と同じだ」


 美琴が小さく頷く。


 真由も。

 芽衣も。


 藤堂はまだ迷っている。

 姫野も言葉を探している。

 久世は拳を握ったまま、黙っている。


 エルドは静かに息を吐いた。


「感情論です」


 レオナがそこで机を叩いた。


「感情論で結構。ここでの結論は一つだ。篠宮透はベルディア冒険者ギルド所属の正式登録者であり、現在進行中の事件協力者だ。本人の同意なしに王都へ移送することは認めない。神殿具の監視封環は証拠品として保管。帰還儀に関する説明不足は、王都中央ギルドへ照会する」


 エルドは冷たい目でレオナを見る。


「ベルディアが王都神殿と対立するおつもりですか」


「証拠を消そうとする者とは、最初から対立している」


 その言葉に、ダグラスが笑った。


「いいねえ、ギルド長。今日の酒はうまそうだ」


「黙れ」


 レオナは即座に返した。


 少しだけ空気が緩む。


 だが、根の部分は変わらない。


 透と王都。

 灰と神殿。

 帰還と管理。


 その線が、卓の上に浮かび上がった。


 会議が一度休憩となった時、美琴はゆっくり立ち上がった。


 真由が支えようとするが、美琴は首を横に振る。


 自分で立つ。


 透の前へ歩く。


 会議室の隅で、王都組もベルディア側も見ている。


 美琴は深く頭を下げた。


「篠宮君。さっきは、腕輪を外してくれてありがとう」


 透は答えない。


 美琴は頭を下げたまま続ける。


「あの時、止められなくてごめんなさい。言い訳になるけど、私、怖かった。神官も、王様も、クラスのみんなの空気も。声を出したけど、最後まで動けなかった」


 声が震える。


「謝って済むことじゃないってわかってる。でも、言わないまま、また王国側の席に座ってるのは嫌だった」


 透はしばらく黙っていた。


 それから、短く言う。


「謝罪は聞いた」


 美琴が顔を上げる。


 透の表情は変わらない。


「許すとは言ってない」


「うん」


「でも、聞かなかったことにはしない」


 美琴の目に、また涙が浮かんだ。


「ありがとう」


 透は視線を外した。


 そのやり取りを、相良は遠くから見ていた。


 自分も言うべきことがある。


 だが、今は言葉が軽すぎる気がした。


 黒瀬が相良の横に立つ。


「行かないの?」


「……今行っても、何を言えばいいかわからない」


「珍しく正解」


 相良は苦笑できなかった。


 黒瀬は透の方を見る。


「篠宮、生きてただけじゃなかったね」


「ああ」


「私たちが追いつくには、まず王国の言葉を疑うところからかな」


 相良は拳を握る。


「俺は、勇者だと思ってた」


「うん」


「でも、今日、何を守る剣なのかわからなくなった」


 黒瀬は少しだけ真面目な顔になる。


「なら、まだ間に合うんじゃない」


 会議室の外では、ギルドの酒場が騒がしくなり始めていた。


 王都の勇者たちが来た。

 灰の主と同じ卓についた。

 神殿の腕輪が暴かれた。

 帰還儀に灰が必要かもしれない。


 噂はまた、街中へ走る。


 だが、会議室の中にいる者たちにとって、それはもう噂ではなかった。


 同じ教室にいた者たちは、同じ場所へ戻れない。


 けれど、同じ世界に立っている。


 その事実だけが、重く残っていた。


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