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85/85

85.旗印


旗印


 王都に着いたのは、二日目の夜遅くだった。


 フォルティス邸の玄関広間は、普段より灯りが落とされていた。夜番の使用人が静かに頭を下げる。リュシアは外套の留め具を外しながら、父母はもう休んでいるだろうと判断した。


 だが、支度部屋には灯りが残っていた。


 扉を開けると、礼装軍服が広げられていた。濃い布地、手袋、靴、外套、階級章。式典用の一式が、すでに揃えられている。


 その前にカタリナがいた。


「ただいま戻りました」


 リュシアが頭を下げると、カタリナが一歩近づいた。


「お帰りなさい、リュシア。長旅でしたね」


「はい。予定通り到着しました。もうお休みかと」


「あなたが帰ってくるのに寝ていられないわ。お父様も起きていますよ」


 カタリナは目元を和らげて近づいた。

 まず、リュシアの顔を見た。頬、目元、唇の色。次に肩、腕、首元を見る。抱きしめるより先に状態確認が入る。


「痩せてはいないわね」


「食事量が決められていました」


「そういう返事になると思ったわ」


 レオンハルトが部屋に入ってきた。表情は大きく変わらない。だが、リュシアを見る時間は、普段より少し長かった。


「北方でよく務めた」


「はい」


 それだけだった。だが、リュシアにはそれで充分だった。


 カタリナが礼装軍服の肩線を見た。


「指定されたのが礼装軍服で良かった。ドレスなら一晩では無理でしょうから」


 侍女が静かに近づき、袖丈を確認した。肩と上腕のあたりで、布がわずかに張る。


「肩周りが少し変わっているわね」


 侍女が針を入れる位置を確認し、別の者が手袋と靴を合わせる。新しく仕立てる必要はなかった。肩と上腕、袖口を少し直せば済む。


 カタリナは襟元を指で整えた。


「明日は令嬢としてではなく、功労者として立つのね」


「だが、王都の者が同じように見るとは限らない」


 レオンハルトが言った。


「はい」


「大スタンピードの功労者、フォルティス家の娘、元第二王子の婚約者、北方の魔法騎士、王都はどれか一つでは見ない」


 リュシアは黙って頷いた。

 カタリナが最後に、階級章の位置を見た。


「明日の朝、もう一度確認しましょう。今夜は休みなさい」


「はい」


 リュシアの部屋はそのままだった。寝具だけが新しい匂いがした。



 翌日、式典の事前確認のために王宮の門をくぐった。婚約破棄以来だ。王太子府の控室に入ると、リュシアはまず人の多さを確認した。


 北方方面軍の出席者だけではない。王太子府の事務官、宮廷儀礼官、軍務連絡局の職員、式部官、護衛騎士、記録係。廊下には別の控室へ向かう文官が行き交い、扉の外では名簿の照合が続いていた。


 王太子府の動きは、通常の慰労式より明らかに重かった。


 控室には、北方方面軍から来た他の出席者もいた。年配の将校、工兵隊の代表、治癒班の代表、前線兵の代表。全員が控えめに言葉を交わし、指定された席に座っている。


 宮廷儀礼官が入ってきた。


 説明は短く、正確だった。


 入場順。呼名後の進み方。王太子への礼。記章の受け取り。下がる位置。式典後の待機場所。祝賀会場への移動。返答を求められた場合の定型文。


 リュシアは一つずつ記憶した。


「フォルティス中尉は呼名後、中央線から三歩前へ。礼の後、記章を受け取り右へ下がってください。祝賀会では軍務連絡局の担当者が導線を管理します」


「了解しました」


 続いて服装確認が入った。


 礼装軍服の襟元、階級章、手袋、靴、外套の留め具。宮廷儀礼官は、軍装に不慣れではなかった。確認は細かいが、無駄はない。


「歩幅はこの線です。礼の位置は、ここで止まってください」


「はい」


「王太子殿下から記章を受け取った後、視線は下げすぎないでください。軍人としての礼で結構です」


「了解しました」


 式典は手順だった。ただ手順の量が多い。

 確認が終わりかけた頃、控室の扉が開いた。


 ヴァレリオ・カラディン大尉が入ってきた。手には別の書類を持っている。外套はなく、式典用の礼装でもない。王太子府の実務担当として動いている服装だった。


 リュシアを見ると、短く頷いた。


「説明は受けたか」


「はい」


「不明点は」


「一点あります。出席者の選定基準が分かりません」


 ヴァレリオは一瞬だけ、扉の外へ視線を向けた。廊下に別の職員が立っている。待っているのだろう。


「手短に言う。戦果順ではない。王都に示す役割ごとの代表だ」


「役割ですか」


「方面軍の指揮、前線、工兵、治癒、魔法騎士。北方が何で守られたのかを、王都に見せるための人選だ」


「私は魔法騎士枠ですか」


「それだけじゃない」


 ヴァレリオは短く言った。


「公爵家の令嬢が北方の前線に立った。その事実も含まれる」


「了解しました」


「祝賀会では、返答に迷う相手は軍務連絡局へ回せ。長く応じるな」


「はい」


 廊下から、王太子府の職員がヴァレリオを小さく呼んだ。


「後で確認する」


 ヴァレリオは一言だけ返し、それからもう一度リュシアを見た。


「式典中は、呼ばれた通りに進め。判断はしなくていい」


「了解しました」


「では、明日」


 ヴァレリオはそれだけ言って、控室を出た。


 扉が閉まる。


 控室の空気はすぐに元へ戻った。宮廷儀礼官が最後の確認を続け、事務官が出席者の名簿を照合する。北方から来た将校が手袋の位置を直し、工兵隊の代表が黙って背筋を伸ばした。


 リュシアは自分の手元を見た。


 礼装軍服。手袋。階級章。


 戦果は個人だけのものではない。

 だが式典では個人の名で呼ばれる。

 嘘ではないが不正確だ。




 表彰式当日、王宮の大広間には人が多かった。


 貴族、文官、軍人、王太子府の職員。北方方面軍の席は前方寄りにまとめられている。上座に国王の名代としての席があり、その下に王太子が立つ位置が設けられていた。


 国王の裁可を受けた表彰を、王太子が授与する形だった。


 式部官の声が響く。


 北方大規模スタンピード防衛戦。主砦防衛線の維持。民間被害なし。限られた損耗。北方方面軍の功績。王太子府による支援と調整。投入された人員と物資。守られた領地と民。


 文言は、事前に読んだものと大きく変わらなかった。


 誇張ではない。


 ただし、全てではない。


 名前が呼ばれていく。方面軍の将校、前線指揮官、工兵隊の代表、治癒班の代表、遊撃隊の代表。


 そして、リュシアの名が呼ばれた。


「北方方面軍第三中隊、リュシア・フォルティス中尉」


 ざわめきは起きなかった。


 だが、静けさの質が変わった。


 リュシアは中央線から三歩前へ出た。指定通りに止まり、礼をする。視線は下げすぎない。宮廷儀礼官の説明通りだった。


 王太子が記章を差し出した。


 王太子の表情は、式典にふさわしく厳かだった。感情はほとんど出ていない。


「北方方面軍フォルティス中尉。任務への献身と、防衛線維持への貢献を称える」


「謹んで拝受いたします」


 リュシアは記章を受け取った。


 手順通りに下がる。


 それだけだった。


 だが、下がるまでの数歩の間、視線はずっとリュシアに集まっていた。


 公爵家の娘。

 元第二王子の婚約者。

 北方の魔法騎士。

 大規模スタンピードの功労者。


 王都は、そのどれか一つでは見ない。


 そう言われた意味を、リュシアはこの時、少しだけ理解した。


 式典が終わり、控室へ戻る途中だった。


 廊下の角で、年配の貴族が一歩近づいた。リュシアに向けて口を開きかける。


 だが、その前に王太子府の事務官が半歩入った。


「フォルティス中尉は、この後の移動確認がございます」


 柔らかい声だった。だが、進路は完全に塞いでいた。


 貴族は一瞬だけ目を細め、それから笑って下がった。


「それは失礼。後ほど」


 リュシアは礼をした。


 後ほど、という予定は、導線表にはなかった。


 控室の前で、軍務連絡局の職員が待っていた。


「フォルティス中尉。祝賀会場へ移動します」


「はい」


 表彰式は終わった。


 だが、見られる時間はまだ終わっていなかった。


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