72.決裁未了
十月の定期人事で中尉に昇進した。辞令には、実務の実態が少尉の職責を超えているとあった。
九月の第一波、スタンピード以降砦は慌ただしくなった。
第一波の事後処理も終わらないまま、第二波への備えが並行して走っていた。
休養日はなくなった。正確には、シフト上は週に一日残っていたが、どの日も索敵が入った。
十月中旬、小波が来た。
スタンピードほどの規模ではない。壁区の迎撃で対処できる範囲だった。だが、東区画で混乱が出た。報告が遅れ、火力の集中が間に合わず、迎撃線が一時後退した。
翌日、オペ室から話が来た。東区画の斥候が北北東で妙な反応を拾っている。距離も規模も切れない。確認できるか。ハワードが了承し、リュシアは東区画に入った。
近くで観測していた斥候によると、壁下に近づく十体ほどの魔獣の向こう側、二千ほど先に魔力の塊が感知できた。索敵できるギリギリの範囲。細く鋭く張り巡らせ、できうる限り遠くの魔力を読み取る。
反応は群れというより塊だった。個体ごとの揺れはあるのに、全体としては前に出てこない。そこに留まったまま、壁外で蠢いている。
「北北東、二千。密集反応あり。数は切れません。内部移動あり。位置はほぼ固定。接近傾向なし」
「受領。北北東二千、滞留反応。継続で。動いたら即時」
「了解」
索敵を続ける。変わらず揺れはあるが、動きはない。
中型が壁に取り付いた。隣の魔法騎士の詠唱が一拍遅れる。
東区画の誰かが短く何かを叫び、次の瞬間、リンクの向こうで声が飛んだ。
「フォルティス少尉、迎撃優先。右壁際、中型二。処理後、索敵復帰」
「了解」
索敵を切った。二射で落とした。
右隣から短く声が飛ぶ。
「助かった。戻っていい」
リュシアは返事だけして、すぐ索敵に復帰し、残りの時間を観測で埋めた。
食堂ですれ違った時にミラが言った。
「北北東の滞留反応、継続監視に入りました。あのデータがなかったら気づくのが遅れてました」
リュシアが返事をする前にミラは早口で続ける。
「あと、東区画の誤射率、先月から四割減ってます」
「索敵の反映ですか」
「それもありますけど、入力の形式が揃ってきたのが大きいです。拾う側が迷わなくなってる」
ありがとうございます、と言い置いてミラは足早に去った。
手帳を開いた。
十月十八日。東区画臨時支援。索敵六回、迎撃二体。
東区画誤射率四割減(ミラ報告)。
それだけ書いて閉じた。
十一月に入ると、小波の頻度が上がった。
そのたびにリュシアへの臨時要請が入った。索敵で入って、火力で残る。パターンが定着しつつあった。
五回目の要請が来た時、驚きはもうなかった。
ハワードは顔色を変えずに了承した。
「お前の本務は第三中隊だ。忘れるな」
「了解しています」
「了解していればいい」
それ以上は言わなかった。
遊撃の話は進まなかった。
リュシアは遊撃の詰所に何度か足を運んだ。過去の出撃記録を見せてもらい、帰投路の選定基準や壁外での交戦判断の手順を記録した。
遊撃隊士のコリン・ブレナーが、遊撃隊長ダンカン・ロウと話しているところに声をかけた。
「中尉の決裁、まだ降りないんですか」
「まだです」
コリンが舌打ちしそうな顔をした。
「あれだけ見せて、まだ止めるのか。壁外に出たら助かる側でしょう」
リュシアは頷いた。
「ベイル大尉には、ここから先は政治だと言われました」
ダンカン・ロウがそこで口を開いた。
「その通りだ」
声は低く、短かった。
「現場だけの話で言えば中尉が壁外にいた方が助かる。それは分かってる」
コリンがすぐに続ける。
「じゃあ何で止まるんです」
「壁外は何があるか分からん。万が一のことがあれば遊撃隊の判断で済まないからだ」
ダンカンは記録板を机に置いた。
「フォルティス公爵令嬢を壁の外に出して事故があった。そうなれば、誰が通したのか、誰が許可したのか、誰が責任を持つのか、の話になる」
コリンは苦い顔のまま黙った。
「現場だけじゃ責任を負いきれない」
少し間が空いてから、コリンが言った。
「だが第二波に間に合わなかったらどうするんですか」
「それも含めて上の仕事で上の責任だ」
ダンカンはそこで初めてリュシアを見た。
「中尉が悪いわけじゃない。止まってるのは能力の話じゃない」
「はい」
リュシアはそれだけ答えた。
答える立場にない。決まれば行く。決まらなければ今の仕事をする。それだけだった。
ただ、壁上の距離からでは観測できない魔力の塊がある。あれを壁外から観測できれば、精度は上がるという確信はあった。
十一月末。手帳を開く。
定点観測継続。三点。
臨時支援、今月五回。索敵二十四回、迎撃八体。
東区画損耗率、九月比で三割減。
遊撃決裁未了。
自分が入った区画の損耗が減っている。
それだけ確認してリュシアは手帳を閉じた。




