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3.リュシア・フォルティス

 フォルティス公爵家・王都邸、リュシアの寝室。


 目を開けたとき、リュシアはまず自分の頭の状態を確認した。


 まず、頭。痛みなし。重さなし。思考の流れは滑らか。

 昨日まで、意識のどこかに薄くかかっていた霧のようなものが、きれいに晴れている。


 昨日のサロンの光景はすでに「出来事」として整理されていた。

 王子妃候補だった案件:破談。

 王妃陛下との関係:悪化。

 フォルティス家の立場:一時的に注目を浴びているが、致命傷ではない

 感情については――評価保留

 少なくとも、王子妃ルートよりは感情の負荷は下がったと結論づける。


 天蓋付きのベッドから身を起こし、寝間着の襟を直す。

 枕元の小机には、昨夜エレオノーラに押し戻された王子妃ノートが置かれていた。


 リュシアはそれを手に取る。


 最初のページには、練習で震えた字。

 最近のページになるほど、字も内容も整っている。


『王妃陛下の前での視線の高さ』

『場が静まったときの対処』

『誉め言葉への標準返答』


 どれも、もう当面使う予定はない。

 データとしての価値は、ゼロではないが「保留案件」として、頭の中の棚に置き直した。

 捨てる必要はないが、今すぐ使うこともない。


 今から考えるべきなのは、新しいノートの中身だ。

 どこで、どのように使われるのが、自分という駒にとって最も効率がいいのか。


 扉をノックする控えめな音がした。


「リュシア様、朝でございます」


 侍女の声に、「今起きました」と返事をして立ち上がる。


 顔を洗い、髪を整え、いつも通りのドレスに着替える。鏡の中の自分は、昨日と同じ顔をしていた。


 肩のあたりでまとめた薄い金色の髪に、光の加減で灰色にも見える淡い青の瞳。


 骨ばった輪郭ではないが、柔らかい印象とも言いがたい。笑っても、笑わなくても、印象が大きく変わらない顔だ。

 王子妃には不向きだった。だが支障はない道もあるはずだ。

 そう確認してから、リュシアは食堂へ向かった


 翌朝の食卓は、いつもより静かだった。


スープの湯気の向こうで、長兄アルバートが封書を卓上に置いた。

 夜明け前に戻ったばかりのはずなのに、服の皺ひとつない。顔色だけが少し硬い。


「王太子府から、正式な書状だ」


 言い方は淡々としていたが、語尾が重い。

 アルバートは封蝋を指先で確かめ、開封済みの紙を揃えてから続けた。


「第二王子殿下の昨日の発言は、王家の総意ではない。

 フォルティス家とリュシアに対する不快な扱いを詫びる――そう書いてある」


 カタリナが一口だけスープを飲み、何でもないふうを装って頷く。

 レオンハルトは短く「ふん」と鼻を鳴らした。


 アルバートは、読み上げる調子を変えない。


「添え書きに、陛下も同じお考えだとある。

 ……あの場での第二王子殿下の振る舞いについては、王宮として然るべき処置を取る、と」


 リュシアはパンを噛んでから、一度だけ「そうですか」と返した。

 陛下や王太子の対応、戦況に対する投資判断を考えれば、一人の王子と王妃の問題を、王国全体と同一視するのは誤りだ。

 そこは、もう結論が出ている。


 アルバートが、今度はリュシアを見る。

 視線は柔らかくない。だが、責める種類でもない。


「当面、王宮への出仕は免除で通す。父上と話は付けた。

 表向きは“体調不良”だ。余計な噂を増やさない」


 レオンハルトが軽く頷く。


「お前はもともと体が強くない。しばらく領地で静養させたい、と陛下に申し上げるつもりだ」


「体は強いです」


 リュシアが反射的に口を挟むと、卓の端でエレオノーラが小さくため息をついた。


「強いかどうかと、休んだ方がいいかどうかは別問題よ、リュシア。 昨日だって、顔は平気そうでも目が全然休んでなかったわ」


「公的には『体調不良』で通す」


 父は軽く手を上げて遮った。


「理由はどうでもいい。必要なのは、王宮から距離を置くことと、お前に一度状況を整理させる時間だ」


「了解しました」


 反論はなかった。

 建前として最適とは言えないが、王家にとっても家にとっても、処理コストの低い落としどころだ。

 王子妃ルートが消えてリソース配分を見直す必要はある。


 王子妃として王宮に固定される未来は、自分の特性から見て「失点の発生しやすい配置」だった。

 昨日の夜より、今の方がその計算がはっきりしている。


 アルバートも立ち上がり、肩にかけていた上着の襟を整えた。余計な皺が残らない動きだけが妙に板についている。


「俺も、そろそろ戻る。王太子府に顔を出さないといけない」


 そう言ってから、一拍置いてリュシアを見る。


「今日のことは、『体調不良で公爵邸に下がった』で通す。噂の形を、こっちで決める」


 カタリナが静かに頷いた。


「そうね。必要な連絡は、アルバートと私で止めるわ」


 エレオノーラが、言葉を探すみたいに一度だけ口を閉じてから言う。


「……外で変なことを言われても、受け止めなくていいんだからね。今はとにかく気持ちを落ち着かせること」


 アルバートは視線を戻し、話を続けた。


「その間に、これからどうしたいか考えておけ。王子妃になるだけが、貴族令嬢の仕事じゃない」


 リュシアが聞き返す。


「……どうしたいか、ですか」


「どう置くかでもいい。家として、お前自身として。今のまま王都に置くのはリスクだ」


 レオンハルトが、低い声で言う。


「……我々は、いずれ領地に下げる選択肢も考えていた。家の防衛戦力としてだ。王都で晒すよりは、筋が通る」


 エレオノーラが小さく眉を寄せた。


「お父様、言い方」


「言い方は悪いが、事実だ」


 レオンハルトは言い切ってから、少しだけ声を落とす。


「父としては、まず守りたい。公爵としては、才を遊ばせたくない。……その間で考える」


 リュシアが、短く息を吐いてから言った。


「ユリウス先生をお呼びしてもよろしいですか。選択肢を整理したいです」


 カタリナが、すぐに頷いた。


「ええ。先生も気にされているわ」


 アルバートも、重く頷く。


「呼べ。相談した形にしておけば、先生も動きやすい。――外向けの説明も、一本にできる」

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