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日常①。

 翌朝。


 屋敷の隅々には、まだ夜のしじまが残した冷たい外気が居座っていました。

 シャズは既に道具をもって玄関先で待っており、ピナは朝の支度で台所と玄関を忙しなく往復しています。


 そのほんの一瞬の隙を見つけて、ジゼルはセイムの前へ立ちました。


 彼はいつものように、今日も坑道へ向かう格好を整えています。

 その指先は朝日を浴びてなお、痛々しいほどに赤く乾いていました。


「……あの」


 声をかけると、セイムがゆっくりと視線をよこします。

 ただそれだけで胸の内で何度も繰り返した言葉はどこかへ霧散し、ジゼルは昨夜よりずっと落ち着かなくなりました。


「これ」


 差し出したのは、まだ革の匂いが残る片手分の手袋です。


「手が……その、ひどいので」


 自分でも情けなくなるくらい、突き放すような言い方になってしまいました。

 セイムはしばらく何も言わず、差し出されたそれとジゼルの顔を交互に見ています。


「僕に、ですか?」


「他に誰がいるんです」


 つい語気が強くなるのは、胸の鼓動がうるさすぎるせいかもしれません。


 セイムは吸い寄せられるように手袋を受け取りました。傷だらけの指先がひどく慎重に革の断面を、そしてジゼルが苦労して揃えた縫い目をなぞります。

 その縫い目の一つ一つの感触を、ジゼルの指先はまだ鮮明に覚えていました。

 だからでしょうか。彼がそこをなぞるたび、自分の手まで触れられているような、妙な錯覚がありました。


「…」

「……!」

 

 その仕草があまりにも無垢で、大人びていて、ジゼルはそれ以上なにかを聞く気も失せてしまいました。

 彼女はしばらくの間、ちらちらと横目で彼の指先を監視していました。


「ありがとうございます」


 やがて呟かれたのは雪が落ちるような静かな声でした。

 しかし、その一言だけで、今なお頭上に横たわる寝不足も、針で刺した指先の痛みも、少しだけ報われたような心地がしました。


「ちゃんと使ってくださいね」


 ジゼルは精一杯、事務的な口調を繕って念を押します。


「せっかく作ったんですから。飾っておくようなものじゃ、ないんですからね」


 セイムは小さく頷きました。

 けれどその目は、依然として手袋から離れません。

 奇妙なおまじないの品でも持たされたような面持ちで、しばらくじっと、片手分の手袋を見つめているのです。


 沈黙に耐えかね、ジゼルは追いかけるように声を張り上げました。


「急いで作ったんですから!……あ、でも、決して、その…いい加減に仕上げたわけでは、ありませんから!もう片側も!その、すぐに完成させるつもり…なんですから」


 やがて彼は乱暴にそれを腰に押し込むでもなく、作業着の内側に下げた道具袋を開き、その一番上へそっとしまいます。

 

 その過剰なまでの丁寧さに、ジゼルは安堵と、なんとも言えないくすぐったいような、少しだけ胸を締め付けられるような、不思議な感覚を覚えました。


「セイム」


 玄関先からシャズの低い声が飛びます。


「行くぞ」


「はい」


 短く応じたセイムは道具袋の口を閉じて肩にかけ直しました。


 扉へ向かう直前、彼は一瞬だけ立ち止まり、振り返りました。

 何か言いたそうに唇を動かし、けれど結局、何も言わないまま外へ出ていきました。


 開いた扉の向こうから朝の冷たい空気が流れ込みます。

 その背中を見送りながら、ジゼルは胸の奥に残った妙なざわつきをどう名付ければいいのかわからないまま、未だに情けなく震える指先をそっと握りしめていました。

 

 いってらっしゃい。気をつけてね。


 口の中がからからに乾いていたので、その言葉が告げられることはとうとうありませんでした。



―――


 

 それから、さらに数日が過ぎました。


 朝が来れば、セイムはいつものように谷底の暗がりへと降りていきます。

 ジゼルは彼を見送り、ピナとともに家の仕事をこなし、夕方になれば土と鉄の臭いをまとったその背中が再び屋敷へ戻って来るのでした。

 そんな、同じページを繰り返しめくるような日々。

 最初の二日ほど、ジゼルはあえて何も問いませんでした。

 あの手袋はもう使われている。

 当然のように、そう信じていたからです。


 ですが、三日目の夕方のことでした。

 玄関先で上着を脱いだセイムの手を見た瞬間、彼女の胸は小さく軋みました。

 指の節は相変わらず赤く裂け、爪の脇には新しい傷が見えています。

 剥き出しになった掌も、少しも良くなっている気配はありません。むしろ、前よりひどくなっているようにすら見えました。


「……」


 ジゼルは言葉を失いました。

 期待と不安を抱えていた胸の奥が、急速に冷え切っていくのを感じます。

 

 セイムはそんな視線に気づいているのかいないのか、いつも通り無表情のまま、壁際に道具袋を下ろします。

 その横顔には、痛みを隠すような強がりも、我慢を誇るような威勢もありません。かつての自分に向けられていた、温かな情に満ちた視線さえ見当たりません。

 ただ本当に、気にしていないだけの―――無関心な顔でした。


 それが、ジゼルには堪らなく腹立たしく、そして、やりきれなく思えました。


 夕食の卓についても、彼女の視線は磁石に引かれるように、彼の剥き出しの手元へと吸い寄せられてしまいます。

 パンをちぎるたび、スプーンを口に運ぶたび、無防備に晒された皮膚が痛々しく赤みを増していくようです。その一つ一つの動作が、ジゼルの心に小さな針を刺していきました。


 一方のセイムは、まるで自分の手が他人のものであるかのように、淡々と、何事もなく食事を続けていました。

 湯気の向こう側で、彼だけがどこか遠い場所に置き去りにされているような、奇妙な静寂がそこにはありました。




 その夜。

 食後の片づけを終えたジゼルは、壁際に置かれた道具袋へ、ほとんど無意識のように手を伸ばしていました。


 確かめたかったのです。

 ただそれだけでした。

 

 指先を伸ばしては引っ込める、その繰り返し。

 結局彼女は、それすらも誰かのせいにして、セイムの道具袋の中を覗くことにします。


 紐を解き、袋の口をそっと開くと、閉じ込められていた知らない場所の匂いがふわりと立ち昇りました。

 なかには使い古されたロープ、鈍い光を放つ金具、泥の染みついた布切れなどが乱雑に詰め込まれていました。坑道で使うのに必要な、無骨で消耗を前提としたものばかりです。


 その一番上。無機質な暗がりのなかにそれはありました。


「……!」


 ジゼルは思わず息を呑みます。

 重ねられたそれらは、まるで使う機会を待つように、綺麗なまま袋の内側に収まっていました。

 掌の革にも、指先にあてた布にも、擦れた跡はありません。それどころか、泥も汗も、わずかな汚れすら寄せ付けていないようでした。


「……どうして」


 ジゼルは、それを震える手で取り上げました。

 夜な夜な縫い上げた縫い目。傷の位置を思い描きながら重ねた布。自分よりも一回り大きなセイムの手を想像して少しだけ余裕を持たせたその形。

 手袋は、彼女の記憶の中にある姿とまるで変わらないままでした。


「……使ってくださいと、言ったのに」


 誰に向けるでもない声が自然とこぼれます。

 込み上げてくるのは怒りなのか、あるいは悲しみなのか。

 期待を裏切られた惨めさと、差し出した善意が拒まれているような疎外感が、ジゼルの胸をちりちりと焦がしました。


 ちょうどその時、背後で床板が硬い音を立てました。


 リズミカルに鳴らされる蹄の音。

 振り返ると食堂の入口にピナが立っていました。

 夜更けの薄い灯りの中で、彼女はジゼルの手元をひと目見て、何もかも察したように目を細めます。


「……使って、くれてないみたいです」


 言い訳のようにジゼルは喉を震わせました。

 その声には、痛々しい自嘲が滲んでいます。

 ピナは、すぐには答えませんでした。

 ただ静かな足取りで歩み寄り、ジゼルの手の中にある手袋へと視線を落とします。


「よほど、大事なものなのね」

「そんなの知りません……っ!」


 思わず語気が強くなり、自分で自分が嫌になります。

 脳裏に浮かぶのは、何かによって感情が削り落とされてしまったセイムの顔でした。


 ピナの手が、ジゼルの頭を優しく撫でていました。

 それに気づいたのは、声を荒げてからしばらくたった頃でした。


―――


 翌日。


 その日の食卓には、いつもより少しだけ重たい沈黙が漂っていました。


 暖炉の火は変わらず赤く、煮込み料理の湯気も柔らかく立ち昇っています。

 黒い鏡のような窓ガラスの向こう、ジゼルは、自らの浮かない表情を気にかけずにはいられません。


 シャズは相変わらず何事もない顔で肉を切り分け、ピナは静かに皿を運び、セイムは向かい側で黙々と食事を口へ運んでいました。

 そのいつも通りの光景が今の彼女の視界にはどうしても収まりませんでした。


 わざわざ視界に収めるまでもありません。

 セイムの指は、相変わらずのひどい有様です。


(……どうして、使ってくれないの?)


 必要が無いのか。それとも迷惑だったのか。

 ならばなぜ、あの時受け取ったのか。


 何か言わなくてはと思うのに、うまく言葉になりません。

 どれも喉元まで上がってきて、結局、そこで詰まってしまうのです。


 ふと見れば、セイムは何一つ知らない顔で、硬いパンを指先で割っていました。

 その瞬間、薄く乾いていた傷の一つがぱきりと小さく割れるのが見えてしまいました。


 ジゼルの指先がぴくりと震えます。

 けれど、セイムは眉ひとつ動かすことなく、そのパンを平然と口の中へ放り込んだのです。


 それは彼女の『我慢』が、『無理』へと変わった瞬間でもありました。


「よく食うな」


 ふいに、シャズが言いました。

 その低い声が、静かな食卓に不協和音を投げかけます。

 彼はスープの皿を持ち上げ、日常をなぞるような気やすさで続けました。


「この飯がそんなに美味いか?」


 シャズの視線がセイムに注がれます。

 セイムはすぐには答えません。食事の手を一旦止め、適切な言葉を選んでいるようでした。 


「食った分は働いてもらう、お前もそれでいいだろう。セイム」


 その一言で、今度はジゼルの手が止まりました。

 ナイフを握る手に力が入り、皿の縁を滑ったそれが、きぃと耳障りな硬い音を立てます。


 シャズは特に気にした様子もありません。

 勝手に転がり込んできた同居人に対して、ただ事実を述べただけ。そう言わんばかりの顔でした。


 セイムもまた、何も言いませんでした。

 あるいは、その機会が訪れなかったのかもしれません。


「……いいわけ、ないでしょう」


 ぽつりとこぼれた声は、自分で思っていたよりもずっと尖っていました。

 食卓の空気がわずかに張り詰めます。

 シャズがゆっくりと視線を上げました。


「何か言ったか?」

「言いました」


 ジゼルは俯いたまま、けれど逃げることなく、震える声で言葉を繋ぎました。


「そんな手で、何が『いい』んです。全然、問題だらけじゃありませんか」


 セイムの顔がすっと持ち上がりました。

 しかし、その瞳に宿っていたのは、ジゼルが期待していたような共感ではなく、名前も知らない赤の他人の迷惑行為を、偶然目撃してしまった時のようなただの戸惑いだけでした。


 それを見て、ジゼルは余計に腹が立ちました。


 その瞳は雄弁に物語っていました。

 ジゼルの知らない、知る由もない()()()をです。


「毎日毎日、泥だらけで帰ってきて……手だって、あんなにひどいのに…」


「シオちゃん」


 ピナが静かに名を呼びました。

 しかしその優しい響きすらも、今は自身の孤立を深めるための宣告のように頭に響きます。


「大体、穴なんて掘って何になるんです……!エレメントを操作すれば、怪我だってしないのに!」


 両手でテーブルを叩きながらジゼルが顔を上げました。手元のスープに映り込むその頬は、怒りのせいか、あるいは別の何かのせいか、ひどく赤く歪んでいます。

 

 シャズは何も言い返しませんでした。

 大きな手をテーブルに置いたまま、ただ真っすぐにジゼルを見ています。


 その沈黙がさらに彼女を焦らせ、追い詰めました。


「それとも、男の人はみんなそうなんですか。傷だらけになっても、だれにも頼らない方がいいって……!()()の力なんて必要……ないとでもおっしゃるのでしょうか?」


「シオちゃん」


 今度はピナの声が少しだけ強くなりました。


 ジゼルはそこでようやく自分が誰に向かって怒っているのか分からなくなっていることに気づきます。

 なのに。ただ、みっともない。

 それだけは、嫌になるほど分かってしまいました。 


 凍り付いた食卓の空気はジゼルの優等生としての自尊心を痛く傷つけました。

 自分の正論が、この場ではただの騒音に過ぎない。

 突きつけられたその事実に、彼女は熱くなっていた頬が、今度は急激に青ざめていくのを感じました。


「食器はそのままで、結構です……っ!」


 誰の顔も直視できないまま、ジゼルは吐き捨てるように言い残し、足早に食堂を飛び出しました。

 階段を一段ずつ踏みつけるような激しい足音。やがて二階のどこかで、扉が固く閉ざされる音が屋敷中に空虚に響き渡りました。


「……」


 一言も告げぬまま、今度はセイムが席を立ちました。

 彼はジゼルを追って二階へ向かうことはしませんでした。

 静かな、しかし、あまりにも迷いのない足取りで玄関へと向かい、そのまま重い扉を開けて夜の帳が下りた外の世界へと消えていきました。


『……』


 残された食堂には、再び不自然な静寂が戻ります。


 やがて、シャズがふんと鼻を鳴らしました。彼は冷めかけた料理に何事もなかったかのように手を伸ばし、口へと運び始めました。


 彼は残された料理を手際よく処理していきます。


「……シャズ?」


 しばらくして、ピナが低く、しかし一切の逃げ道を塞ぐようなトーンでその名を呼びました。

 

 けれど、シャズは聞こえていないふりをして、黙々とスプーンを動かしています。

 今の彼にとって、食卓いっぱいに並んだ料理は、ピナが何かの手違いで作りすぎてしまったものに過ぎなかったのかもしれません。

 

 しかし、


「シャーーーズーーー?」


 語尾を長く引き、ピナが眉を吊り上げます。

 巨大な馬体がわずかに苛立ちを露わにし、蹄がコツ、と床を小さく打ちました。

 それはこの屋敷においてなによりも恐ろしい警告音です。


「…なんだ」


 シャズは観念したように食事を止め、深く重いため息を吐き出しました。

 ピナの短く鋭い号令が飛びます。


「追いかけて!」


 シャズは面倒そうに視線を動かしましたが、腰を上げる気配は見せません。


「どっちをだ?」

「決まってるでしょ、早く!もたもたしないの!」


 ピナの勢いに押されるように、シャズは渋々といった様子で椅子から立ち上がりました。

 頑健な体を揺らし、彼はピナと共に玄関へと向かいます。


「だから俺は言ったんだ。『手袋(そいつ)を俺によこせ』と」

「いいから行きなさい、もう」


 ぶつぶつと文句を垂れる男をピナは力強く促し、二人は温かな屋敷から暗く冷たい砂の大地へと踏み出していきました。

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