後編
わたしは、母と二人きりで海に行った。
多分、小学校一、二年ぐらいだろう。
電車に長いこと乗った。どこの海岸かははっきりわからない。
スーパーまで外出すること自体、息苦しさから嫌っていた母が、(肺が片方昔の結核でつぶれていた)一番疎んでいたわたしだけを連れて、それも嫌いな「海」に行くことなど珍しいを通り越して、奇矯な行動だった。
だいたい、家族旅行以外で遠出をしたことは一度もないのだ。
しかし夢ではなく、今も現実として詳細に思いだすことができる。
高い崖の続く下に狭く入り組んだ浜辺が続き、そこを母は無言でズンズン進んでいく。その青いワンピースの後ろ姿。
「どこまで行くの? 何しに来たの?」
聞いても応えはない。
ただ、前を向いたまま「早く来なさい」というだけ。
沖合の波はだんだん高くなり、気が付くと満潮を迎えていた。足元の砂浜はどんどん狭くなる。
「ママ、砂浜がなくなっていくよ。溺れちゃうよ」
さすがに、荒れてゆく海を見て怖くなったわたしは言った。
ついに、崖にへばりついても砂浜が見えない状態になると、母はいきなり踵を返し、わたしの方を一切見ないで駆け戻りはじめた。海の中に頭を出している岩を伝って。
でもこっちは体の小さい子供なので、岩に飛び乗って移動することはできない。そのうちに、見えていた岩がなくなっていく。母の姿もどんどん小さくなる。
「ママ、戻ってきて! 溺れちゃうよ!怖いよ!」
一番大きい岩の上に立ってそう泣き叫んでいると、太ももまである長靴をはいた漁師さんがざぶざぶ海からやってきて、「危ねえなあ」とひょいとわたしの腰をつかんでつかつかと母のもとへわたしを運んでくれた。
「奥さん、子どもを忘れちゃいけねえな。満潮なの、見てわかるだろ。何やってんだよ」
確かそう言ってとがめていたと思う。
「まあ、この子ったらグズグズしていくら呼んでも来ないで。困っていたんです。ありがとうございます」母は作り笑顔で私を抱きとめた。
嘘だ、ひとことも呼ばれてなんかいない。
母は満潮の海にわたしを置き去りにしようとしたのだ。そのための海行きだったんだ。わたしは直感した。
家に帰るまで、ひとこともお互い口をきかなかったのは憶えている。
後のことはさっぱり思いだせない。
息を引き取る間際になって、最後の最後、「あなたがいちばんやさしい」と言ってくれた母が、実は、小学校低学年の自分を海で消そうとした? それは、わたしの脳裏にだけくっきり刻印された、ブラックホールとなった。
だが、本当にそうだろうか。そう信じては、記憶としてこれからも耐えられない。
あれは例えば、家族五人で江ノ島にでも行って、岩場と砂浜を探検するのが好きな私が暴走するのに母がついてきただけかもしれない。幼いころの記憶は断片となって残るものだ。
その母が鬼籍に入って十六年、母の愛した家に父は一人で住み続けた。
最初の一年こそ、ああママさんに会いたいものだ、としきりにため息をついていたが、そのうち趣味の会に入って友達を増やしていった。わたしや姉が持っていくお惣菜や好物のシュークリームをを食べては囲碁友達や油絵仲間とそれなりに楽しく過ごしていた父は、肺炎で亡くなった。九十二歳だった。
八十を過ぎても女友達の来訪が絶えず、バレンタインデーにはポストにチョコレートが入っていた。いつも外出にはしゃれたステッキを持ち、山高帽をかぶって上品なスーツを着ていた父は、年をとってもダンディーだった。
母と空の上で再開したとたん、たぶん襟首を締め上げられたことだろう。
わたしたち夫婦は命日やお彼岸にはお墓参りに行ったが、姉二人は、納骨して十年たっても両親のお墓参りをしなかった。
無人の実家に来て仏壇に手を合わせることもしない。とくに歌子姉は遺影を見るのが怖くて顔が上げられないというのだ。あなたはいまだにわたしの思い通りになっていないと、そう怒られる気がして、遺影を見ることが怖くてできないと。
見ていると、仏間に座ると本当に震えるようにして俯いている。
まともに笑顔の遺影を見ることができるわたしの方が、殺されかけても、傷は浅いというのだろうか。
いや違う、殺されかけたという思い込みは誤解の末の記憶という可能性もある。わたしはこの決めつけをこの頭から放逐しなくてはならない。あまりに母親に失礼だからだ。
姉二人は、葬儀の時から今まで両親を思って泣いたことは一度もないという。その気持ちは、なんとなくわかる。たまに三人そろってお茶を飲むことがあっても、両親の話はあまり出ない。全員二人の子持ちで、皆立派に明るく育っている。ただ、共通して出る言葉は
「わたしたち、がんばったわよね」
「うん、本当によくがんばったわよ」
がんばったことのひとつはこれだ。
実は愛妻家の父は、母の遺骨の一部をひそかに隠し持っていて、自分が死んだら自分の骨壺にその骨も入れてほしいとわたしたちに言い残していた。
寝室の箪笥の隅の備前焼の壺にその骨は入っているという。
(母の遺骨の一部を入れるために焼いてもらったもので二十万はすると言っていた)
父の納骨を前に、わたしたち三人は覚悟を決めてある日寝室に入り、その時のために焼かせたという備前焼の壺を開けることになった。いかにも名工が焼き上げたという風情のある、渋い色合いの見事な蓋つきの壺だった。
「ほんとうに、こんな宿題を出された娘の気持ちにもなってほしいものだわ」と珍しく静子姉が不満を漏らしていた。確かに、気持ちのいい作業ではない。
「もし入っているのが頭蓋骨の一部とかで、パパの骨壺に入りきらなかったらどうする?」とわたしが恐る恐る聞くと、茉莉子姉がこともなげに言った。
「その時は新聞紙二枚に骨をはさんで、ハンマーで粉砕すればいいのよ」
わたしは思わず言った。
「だって、ママのお骨よ…… そんなこと、わたしには」
「惟ちゃんができないならわたしがするわ」と茉莉子姉は言った、「そんなこと平気よ」
「骨なんてただの物体だもの、わたしも平気」と静子姉。
幸い骨は小さなもので、父の骨壺の隙間に簡単に納められた。
もしもその骨が大きすぎて、父の骨壺に入りきらなかったら。
わたしは一人正座して、二人の姉が母の頭蓋骨を新聞紙ではさんでバラバラになるまでかわるがわる砕くのを、見ることになっていたのだろう。
あの遠い断絶は、冬山のクレバスのように、雪の下をずっと続いていたのだ。
わたしはいつも不思議に思う。
あれだけのことを言われて、いらないいらないとののしられ続けてなお、母のことを恨む気持ちがわたしにないのは、なぜだろう。
生きているうちに、もっとたくさん、母の笑顔が見たかった、と思う。大好きよ、という言葉を死の直前よりもっと引き出したかった。笑顔を引き出す方法はもっとあったのではないか、そればかりを思う。 姉二人からは、そんな願いの片鱗さえ見えない。
多分わたしは欲張りで、我儘で、どこかがまだ子どものままなのだろう。
わたしは両親の眠るお墓に墓参りに行くとき、夫に頼んで、一人にしてもらう。
墓石の前で花を供え、お墓を洗い草を抜き、そして「しばらく一人にしてね」と夫に頼む。
どういう訳か、ひとりになると、涙が流れて止まらない。
お葬式の間は涙は流れなかったのに。
かすかに覚えている赤ん坊のころ、愛らしくてたまらないというように、わたしにあだ名をつけて抱きしめてくれた母。わたしのたからもの、と言ってくれた母。その甘い記憶も同時にわたしの中にあるからだ。
最後の最後、わたしを、いちばんやさしいの、と言ってくれた母。
荒海を、わたしを置いて先に走っていった母。
その姿落差が理解できず、ただ、
グレーな記憶が胸に大きな穴をあけてすべてを吸い込もうとする。
この記憶は親不孝だ、親不孝だ、親不孝だ、と何かがわたしを責める。
思い出すんじゃない、恨むんじゃない。あの人は病気だった。わたしも思い込みの激しい子供だった。
そして、母と同様いまだにお酒に溺れている自分、自分と同様お酒におぼれていた母が、どのようにしてあの精神の暗闇に落ちたのか、自分はなぜ理解しようとしなかったのか。
なぜ救えなかったのか。
墓石に花を手向けるたびに、
わたしの魂はいつも、亡くなった母の前にひれ伏している。
でもね。
こんなわたしも二人の子供の母親になれたの。どんな個性でも受け止めてのびのび育てようと、決心することができたの。姉たちと、わたしたちは子どもの個性を大事にする優しい母親になろうねと、誓い合ったんだもの。反面教師になってくれたママのおかげよ。
結婚式で、わたしの理想は母です、母のようになりたい、と言ってくれたイラストレーターの娘と、母の作る料理は唯一無二です、と結婚式で言ってくれたシステムエンジニアの息子は、幸せな夫婦になっているよ。
そのことを、喜んでくれているかな。
わたしもいまだにメンタルクリニックと縁が切れません。いろいろと人の心の闇を学んで知って、深い意味でママを救ってあげたかったといまさら思う。ごめんね。
もしママが精神の病気を抱えていたとしたら、それもわたしがしっかり引き継いだからね。
突然の癇癪、突然の絶望、居ても立っても居られない恐怖の発作、今はみなわかるわ。
わたしは初めての愛猫を失った時と同じぐらい、墓石の前でいつも号泣する。
この先も、ただ訳が分からないなりに、わたしだけが墓参りのたびに滝のように涙を流すのだろう。
もしかしたらそれは、母として子供を愛する、愛されるということを生涯かなえることのできなかった、母の涙であるのかもしれない。
何度も読み返してみて、身内のことでもあるので、後半の「誤解を招きかねない」部分を書き直しました。通常許されないことですが、どうかご了承ください。




