前編
「馬鹿、間抜け、親不孝者」
「たとえ千人の子供がいても、なに人でもどこの国の子でも、あんたでさえなければよかったのよ。あんたでさえなければ」
「いつも仏頂面してないで笑いなさい。笑顔よ! ああ可愛くない! 口の端だけあげて笑ってなさい。やめて気持ち悪い!」
「なんで普通の女の子みたいにできないの。普通ができないの、普通がわからないの」
「世間様に恥ずかしい。あんたなんか産みたくなかった!」
小学生のわたしは涙で反論する。
「わたしは大人になっても子供にそんなひどいこと言うママにならない。優しいお母さんになる!」
「なれるものならなってごらんなさい。あんたみたいな子どもができたら、どんな母親だって愛することなんかできやしないんだから!」
これはわたしが幼児期から思春期にかけて、いや正確に言えば結婚するまで、母が、わたしに投げつけた言葉の礫の「一部」だ。あいてててて。
いったいどれだけ悪さをすればこんなことを言われる羽目になるのかというと。
わたしは女の子らしいスカートが嫌いで、言葉がほぼ男言葉で、食事も好き嫌いが多く、勉強せずに漫画ばかり描き、男友達と隣町探検をしたり木登りして虫を捕まえるのが好きな、そんな子だった。
だが、昭和四十年あたりには路上には子供があふれ、ろうせきで道に丸を書いてケンケンパや石けりをしたり、スパイごっこをしたりして日が暮れるまで泥んこになって遊んでいたものだ。自分はその中でも男の子とよく間違えられるタイプのやんちゃ娘だった。
それに対して、母の怒りはお説教というより、わたしという存在への拒絶に近かった。
母はひたすらおとなしく、素直で、ふわふわしてワンピースの似合う、笑顔の可愛い愛らしいおんなのこが欲しかったのだらしい。
まるっきり母の理想とかけ離れていたわたしはこの手の罵倒を浴びせられながら生きてきた。さらに幼児のころは、激しく怒られて泣くと、母の怒りは倍増した。
「泣くんじゃないっ。泣くのはバカな子供のすることだ。わたしはバカを生んだ覚えはない。泣くのは許しません!」
そしてわたしたち三姉妹は、「めったに泣かない、無表情な子ども」になった。
わたしは三人姉妹の末娘である。
姉二人は美人で頭もよく、超がつくほど無口で、母親に対しては「はい」「ごめんなさい」「わかりました」というばかりで
口答えらしいものは一切しなかった。
それでも、病的に癇癪持ちで完璧主義だった母は、ケチのつけようのない姉二人までもしょっちゅう罵倒していた。
姉二人は見るからに怯え、いつも気配を消して生きていた。
まずわたしより十二歳上の長姉、茉莉子に対しては、母はなぜかそこにいないもののように徹底して無視をきめこんでいた。
わたしの記憶の最初にある東京の住居はいわゆる洋館でかなり広く、玄関わきには女中部屋があった。
この家は日系二世の人が建てたしゃれた家で、その家を父が気に入って買い取ったのだと聞いた。住み始めたとき、わたしは三歳だった。
玄関わきの女中部屋は三畳あるかないかで、狭いベッドと小さな机と専用トイレがついていた。そこが長姉の部屋だった。
皆が住んでいる本宅の居間に入るにはいちいち女中専用廊下を通らねばならず、姉はまるで「家族以外」の様な扱いで、食事時以外にはそこからほとんど出てこなかった。
食卓でも、会話はほとんどない。父はいつも酒に酔い、母は女性アナウンサーの容姿や服装をこき下ろしていた。
わたしの記憶が正しければ、姉はいつみてもただ部屋にこもって勉強ばかりしていた。時々覗き見るその横顔は、なんだかマリア様みたいに静かで美しい、といつもわたしは思っていたが、姉は決して
「何の用?」「勝手に入ってこないでよ!」
などと機嫌を悪くすることはなかった。
何かお話があるの?と優しく迎えてくれるのだ。
その部屋には深い臙脂色の豪華な服を着た凄い美少年の絵が額に入れて飾ってあって、幼いわたしは異次元の美しさに恐怖を覚えるほどだった。
「この絵、きれいだね。誰が描いたの?」と聞くと、
「サー・トマス・ロレンスの『ランプトンの肖像』よ」と教えてくれた。
(のちに萩尾望都のポーの一族に出てくる絵だ)
何しろ十二歳も離れていたので、姉がここに閉じこもっている不自然さを、痛々しいとか何かわけがあるとか感じることはなかった。ただひとりだ好きであそこで勉強していると思っていた。
実際は女中部屋を与えられ、両親からもほとんど話しかけられない長女である茉莉子姉の胸中は、どんなものであっただろうか。
真ん中の姉、静子は、わたしの四歳上だ。咲子姉に負けず劣らず頭がよく、かわいらしい顔立ちをしていて、素直でおとなしかった。なのに小中を通して、癇性の母にいつも怒鳴られていた。
この欠点のない姉がどうして母にめちゃくちゃに怒られていたかというと、こうだ。
先生に、学校で無口すぎると言われて恥をかいたわ。あんたは、お〇なの?
成績が学年一番から二番に落ちたじゃないの。恥をかかせてくれたわね。
痩せすぎだわ、母親のわたしが虐待してると思われるじゃないの。
お習字の授業で朱でなおされるなんて!(当然の指導だと思うのですが)なんてみっともないの!
帰って玄関でただいまを言っても、その日のテストや提出物を見るまでは母は靴を脱がせなかった。そして、お習字で習った字の、止めはね払いに朱が入っているというだけで激怒し、ランドセルごと玄関にたたきつけて姉の手を引っ張ってサンダルをはいた。
こんな恥ずかしい間違いをする子は私の子じゃない。でていきなさい。二度と帰らなくていい!
わたしから見ても姉の字は端正で美しかったが、たった一か所の朱でも母は許さなかった。無茶苦茶な話である。
大泣きしながら、お願い許して、もう間違いません、どこも間違いませんと母に引きずられながら詫びる姉が可哀そうで可哀そうで仕方なかった。
それでも、わたしたち二人には広い個室が与えられていた。
この差は、ある意味たやすく説明できる。
両親は二人とも再婚で、いちばん上の姉は父の連れ子だったのだ。
だが、二人が結婚したとき茉莉子姉はまだ三歳だった。とても甘えてきて可愛かったと母は昔言っていた。それだけ長いこと母娘をやっていて、その末がこれというのは、今になってもわたしには理解できない。なぜなら姉は静かでおとなしく何の問題もない優しいひとだったからだ。
だがもしかしてそのせいで、茉莉子姉は母の「わたしが生んだ娘のライバル」になってしまったのかもしれない。
仕事を生涯持たなかった母にとって娘は自分の「成績表」だったのだろう。自分が生んだ娘、優秀な静子が、どこかよその女が生んだ娘に負けるわけにはいかないのだ。
欠点がなく、しかも、自分の血が流れていない手ごわい娘、茉莉子に。
そこにおいて立ちはだかるべき父親の「茉莉子の父」としての姿を、わたしは見ていない。ただはっきり言えることは、父がのちに自伝でも書いていたように、父は美しい母の外見に、生涯「ぞっこん」だったのだ。ぞっこん。ただ、それだけ。
自分の最初の娘である茉莉子に対する妻の無視や嫌味から、もっときちんとかばってあげるべきだったのではないかと、今になっても思う。
そして、見てくれも頭もたいしてよくない、奇矯な行動が多くすぐ行方不明になる末娘のわたし、惟子。
これ以上怒りようがないぐらい母は毎日わたしを怒っていた。あんたなんてパパとママの子じゃないわ、こんな遺伝はうちにはありません、と言って。
行方不明になるのは仲間と隣町への冒険ごっこに出かけるからだし、目についた高い木に登っては降りられなくなるから。そして見つけた虫を片っ端から瓶に入れて集めてくる、いつも男の子と間違われる娘。
校庭中に足で絵を描いて先生に怒られたり、お絵描きに夢中で将来の夢は漫画家、姉たちとは比べようもない点を取っていた。下校中に手招きされた一人暮らしのおばあさんの家でおやつを食べたりして、もういちいち雷を落とされた。
何も悪いことはしていない姉たちは怒られればごめんなさいと頭を下げていたが、何度怒っても常識はずれのことばかりしているわたしに、母はついに音を上げた。
「あんたはもう手に負えないわ。人間じゃないわ、猿よ。森家に猿はいりません!」
ところが、おとなしい姉がめちゃくちゃにしかりつけられても無視を決め込んでいた会社役員の父は、どういう訳かわたしに目をかけて、特別に可愛がってくれた。
「この子はこの子でいいんだ、他の子と違って何が悪い。絵もうまいし、作文もピアノも上手だ。なかなか見どころがあるぞ。惟子、パパとお散歩をして、秋を見つけにいこうか」
父と手をつないで「季節を見つけに行く散歩」がわたしは大好きだった。
「さあ、どこに秋を見つけたかな?」
「お空が高くて、箒で吐いたような雲があるから、秋!」「蝉の声が少なくなって、コオロギが鳴いているから、秋!」
「そうだね、そら、モミジの葉が所々染まっているよ」
「染まりかけのころがいちばんきれいだね!」
近所のかかりつけの家庭医、本田先生も、よく腹痛を訴えるわたしが母に手を引かれていくと、いつもニコニコしながらわたしを見つめて言った。
「唯子ちゃんは森家の型破りだなあ。先生は、惟子ちゃんが大好きだよ」
森家の型破り― 名家でもなんでもないが、母は徹底して、昭和の香りのするご近所のサザエさん風の家々と差をつけようとしていた。家も、家族の装いも。
確かに我が家は広い敷地を持つ洋館で、父は手塩にかけて庭を芝生と薔薇と藤棚で飾り池を作り、花盛りの庭はそれは美しかった。父は見事に咲いた真っ赤なバラのアーチの下にレースのドレスの母を立たせて写真を撮った。そのほほえみは、決してわたしたちに向けられたことのないものだった。
わたしは、写真ってほんとのことは何も写らないんだな、と思った。
洋裁の得意な母は、愛情は別にしてわたしたち三姉妹におしゃれな外着を、それこそコートから帽子までおそろいで作ってくれたものだ。そしていかにも、「いいところのお嬢さん」といった風情をつくりあげた。母は自分で作ったおしゃれなワンピースを着て、父は羽根のついた帽子をかぶりステッキをついて、父は、行く先々で三脚で写真を撮った。
「ハイ楽しそうに笑って―」
「ほんとのこと」が「何も写っていない」むなしい、たくさんの家族写真。
そんな中で、お出かけ以外はいつも半ズボンをはいて近所の木に登っている、野猿なわたしを母が持て余しているのを知り、本田先生は多分母の前でかばってくれたのだと思う。
わたしはその父の温かさに、本田先生の言葉に、どれだけ救われたかわからない。だがその父の扱いの差は、静かな断絶を生んだ。父が一才かばわない二人の姉との間に。
食卓はいつも静かだった。みな、母と日常会話をするのさえ諦めていたのだ。何か一言でもいえば、それはたちまち母の小言につながり、熾火がめらめらと燃え上がり、よく火元のわからない大火事になるからだ。
父は大酒飲みで、それでもましなところは家飲みが好きなところだった。酒乱の傾向は一切ない。女遊びも賭け事もしない。いつも仕事が終わるとまっすぐ家に帰ってくる。
近くの酒屋がトラックで、オレンジのケースにウイスキーや日本酒、ビールを積んではやってきて、家の裏はいつもお酒の山だった。父は食事時、ビールから始めて日本酒の熱燗、締めにウィスキー、そしてソファで泥酔してしまう。やいやいとうるさい細君から逃げようとピッチは早く、夫婦の会話はほとんどなかった。
父はわたし相手に下ネタの俳句合戦をしたり、メンタルテストなるものを出したりした。あるいは太平洋戦争の英雄の話や、「敵は幾万ありとても」と軍歌を歌うのが好きだった。
「ああいやだ、また戦争の話」と母はそっぽを向いた。姉たちはひたすら無関心で無口。相手をするのはわたし一人だった。おかげでわたしは軍歌「戦友」の歌詞をそらで全部歌えるようになった。
そのわたしも、あんただけはほしくなかったと繰り返し言われてからもう母に話しかけることはしなくなった。
いないほうがよかった子どもとなんて、母も口もききたくないだろう。ゆがんだ食卓だった。
母は書道がうまく、父はその筆先から流れ出る時の美しさに見取れたという。特にひらひらとした仮名文字は芸術品のようだった。通信制の習字教室で腕を磨いていたが、あちらの先生から「もうあなたには教えることはありません」と早々と卒業証書が送られてきたぐらいだ。だからあんなに静子姉に厳しかったのだろう。
さて、中学に入れば、いずれ高校受験が待っている。姉たちがだれにも頼らず軽々と乗り越えたその壁の前で、わたしは反対側を向いて座っていた。勉強しているふりをしていつも引き出しの中に入れた漫画を読んでいた。学習帳の中はストーリー漫画で埋め尽くされている。当然成績は下がる一方だ。だが母の目標は高く、志望校は名門大学付属高、偏差値は滑り止めでも65以上、これ以下は許しませんというのだ。
中学二年の末頃、通っていた受験塾の先生は三者面談で、お母さん現実を見てください、第三希望ぐらいは偏差値50台を持ってこないと現実的に無理ですよと言うが、その先生に娘を馬鹿にするなと食って掛かる始末である。
わたしは四か所ぐらいの塾に通わせられたが何がなんだかさっぱりで、母の望む高校の偏差値ははるかかなただった。何しろわたしはいずれ漫画家になるという夢しか持っていなくてお絵描きに夢中だったのだ。特に数学は中学一年の中ほどで何が何やらという未知の世界になっていた。
そのうち、母も父のお酒に手を出すようになり、さらに「酒で悪酔いした母」が夜中のわたしの部屋に突撃するようになった。受験勉強も何もあったものじゃない。
丑三つ時にいきなりわたしの部屋にお酒をもって入ってくる母の姿の恐ろしさと言ったら。
「起きなさい!」
頭はカーラーでぐしゃぐしゃ、ネグリジェからは乳首が見え、眼の下にはどす黒いクマ。もともと美人なのでさらに迫力が凄くて見た目悪霊のようだ。そして、勉強机の上に日本酒の酒瓶をドンとおいて言う。
「猿娘のあんたのおかげでわたしは不幸だわ。聞きなさい、わたしは岡山第一高女(高等女学校)を出ているし、パパは八高から東京の旧帝大に受かったのよ。そしてこんな家が買えるぐらい出世したの。お姉ちゃん二人だって出来がいいのはパパの遺伝よ。なのにあんたは何。いるだけでうちの恥だわ。ねえ、人生ってどうしてこんなにおそろしいの。眠れないし悪夢ばかり見るし、どうせどう生きたって死ぬんだし、私に襲い掛かるのは不幸ばかり。みんなあんたが悪いのよ。だからあんたも飲みなさい」
そしてコップになみなみついだ日本酒を強引に飲まされる。とうに母本人は真っ赤。わたしは一合ほども流し込まれてぶっ倒れた。喉がカーッと熱くなって意識が消えていったのだけ覚えている。そのころ父は、知らぬこととばかり台所で寝酒のウィスキーをグイ飲みしていた。お上品を装った一家は、そんな異常な状況の中にいた。
わたしに不眠症や夢遊病やパニック障害が起き始めたのもこのころだ。
どういう大学へ行きどういう相手と結婚して子供は何人作れ、今では信じられないが母は勝手に全員にそんなレールを敷いていたのだ。就職なんてただの腰かけ、名門大学しか許さないのは箔がつくからそれなりのお相手が選べるでしょ。結婚するまで絶対家からは出しません。
そしてそれは常に、静子姉に向けられていた。何もかも、自分が生んだわけではない茉莉子姉の上をいくものでなくてはならないのだ。
母はできの悪いわたしに困り果て、お小遣いをはずむからと、ついに静子姉に家庭教師を頼んだ。姉は姉で大学受験の勉強の真っ最中だったが、断ることは許されなかった。
姉は仕方なく引き受け、英語国語はともかく、途中で完全に理解がストップしているわたしの数学のレベルに愕然としていた。そして、
「いつ頃から授業が分からなくなったの」
「うんとね、一年の終わりあたりから」
「じゃあそこからやり直しましょう」
なんと受験を来年早くに控えた中三のわたし相手に、前年の九月から、付きっ切りの家庭教師が始まったのだ。
そして丹念に簡単な問題を出し、わたしが「わからない」と言ったあたりで
「わかった、ここからね」と、
教科書のはるか昔からやり直しを始めたのだ。
とてもとても間に合うとは思えない。
「ねえ、今更やっても無駄なんじゃないの」とわたしが言うと
「あなたはもともと頭が悪いわけじゃないのよ。躓いたところで座り込んじゃっただけ」と言い、帰宅して早めの夕食をとると、毎晩毎晩最低五時間は数学を、ただ数学を叩きこんだ。(ほかの教科はまあまあだったのだ)
それも厳しく鞭を持ってというやり方ではなく、仏か菩薩か、というような優しさで、しかも素晴らしくわかりやすく、難問の解き方を懇切丁寧に教え込むのだ。
こんなやり方、数学専門の塾でも見たことがない。
「わかった? ここまできたわね、がんばって。じゃあ次」
わたしの瞼が半分下がっていようと、眠くて頭に入らないと訴えようと、五時間というものぶっ通しだった。
そしてある時、母が「絶対ココ」と決めた某有名大学付属高校の難問が、いきなりするすると解けるよ うになったのだ。それはまるで岩で塞がっていた滝が流れ出したようだった。
「わかる!できる!きもちいい!」
「やっとここまで来たわね」
まるで何かの門が開いたようだった。受験塾の先生が「高望みはやめなさい」と繰り返し言っていた第一志望の高校が受験直前にA判定になり、わたしは母の念願だったその高校に奇跡的に合格したのだった。
まあ、その時の母の喜びようと言ったら。
「ほらごらんなさい。あなたはパパとママの子なんですからね、絶対頭はいいのよ!」と、見たこともない満面の笑み。
「ママ、その前にお姉ちゃんにお礼言って。お姉ちゃん、本当にすごいよ」
小学校算数の「繰り下がり」ですでにひっかかっていたわたしはどれだけ母に怒鳴られていたことか。 だが、姉は家庭教師中一度も、わたしに対して声を荒げることはなかったのである。
姉二人は塾にもいかず家庭教師もつけず、国立の高校から名門大学に合格した。どこのどんな大学に受かろうと、母は相変わらず茉莉子姉にはおめでとうの一言も言わなかった。あら偶然受かったのねよかったじゃないの。これだけだ。
静子姉の時は、受けた大学三つとも合格したのにご満悦で、さすが私とパパの子だわ、と一日中はしゃいでいた。
やがて静子姉に恋人ができた。国立大学の医学部の学生で、脳外科医を目指しているという。
だが、どんなに将来有望であろうと、母は容姿に関しては特に厳しかった。
そして姉の不幸に関しては、実はわたしに大きな責任がある。
あるときわたしは母に聞かれた。
「ねえ、静子おねちゃんが今付き合っている医学生さん、優紀さんね、正直に言ってね、誰に似てると思う?」
「んーとね、月の家円鏡」
別に悪気はなかった。わたしは彼の人のよさそうな笑顔が好きだった。だがその一言で母の顔はきつくなり、嫌がる姉を東大出のイケメン商社マンと強硬にお見合いさせてしまった。
そのころ姉の恋人は国家試験に合格し、脳外科医への道を歩みだしていた。姉は銀行に就職していた。
その商社マンは静子姉に惚れこんでストーカーまがいになってしまった。母がまたその応援に回るものだから姉は余計な苦しみを背負わされて、毎晩泣いていた。
或る時そっと鞄を覗き見ると、姉はハンカチの下に瓶入りの睡眠薬を隠していた。成績生活付き合う相手、常に監視しては罵倒する母のせいでストレスで唾液が出なくなり、ヨーグルトも呑み込めなくなってやせ細っていた。
わたしのせいだ。わたしのせいだ。
あのひと言のせいで姉が薬でも煽ったらと、わたしは恐ろしくてならなかった。
だが結局最初の恋人、優紀さんから姉が頑として離れず、ついに二人の結婚が決まったとき、わたしは内心大拍手をしたものだ。
「いいひとじゃないか。幸せになるのを許してやんなさい」この父の一言が決め手になった。
一番上の茉莉子姉の結婚のときはと言えば、何しろ十二歳も上なので、記憶はおぼろだ。結婚相手が一流企業の会社員であったことは覚えているが、結婚の前日母が姉の部屋に入っていって何かとんでもない嫌味を言ったようで、母が出て行ったあと姉がベッドに泣き伏していたのを覚えている。
「おねえちゃん、どうして泣いているの」とわたしが母に聞くと
「おなかが痛いんでしょうよ」と母はすまして言ったものだ。
何を言ったかは知らない。ただ部屋から出てきたとき、母は氷のような表情をしていて、あの優しい姉は「おねがい、ほっといて」と心配するわたしを部屋から追い出し、背中を震わせて慟哭していた。
結婚式の様子だけははっきり覚えている。式場は開東閣で行われた。高輪にある旧岩崎家高輪別邸である。
日本とは思えない広大な庭園と豪壮な石造りの館。わたしはこんな場所で式を挙げられるなんてお姉ちゃんはやっぱり幸せだ、と思った。
だが、真っ白な花を散らしたベールをかぶった茉莉子姉は、終始悲しげな顔をして俯いていた。
わたしは改めて考える。
父は愛妻家で収入も十分で大きな家に生んでいたし、本質的に優しい人だし、姉二人も美人で優秀だし、末娘のわたしはちょっと出来が悪くてやんちゃだけれど、それは母をあそこまで極端に癇性にさせる理由になるだろうか。
岡山の母の姉妹たちは、仲の悪い夫とモノを投げ合い机も布団も庭に投げ出すような夫婦げんかをしては、「今度こそ離婚じゃあの馬鹿垂れが」と言いあうような人たちだった。(故郷は岡山です)
だから東京でおしゃれに暮らす母のことを
「あんな上品な旦那様と結婚して、子どもたちの出来もいいし、いいおうちに住んで、なんでおねえちゃん(母)があんなにいつも不幸そうな顔をしているのかさっぱりわからんわ」としきりに言いあっていた。
はっきり言わせてもらうと、わたしは、自分をひいきしてくれた父は実は結構罪深かったと思っている。
結婚して子供を産んだ後変貌し、怒ると手を付けられなくなる妻から、父はひたすら逃げていた。わたしから見ても明らかに母の憂鬱さといい突然の怒りの爆発といい尋常ではなかった。もう少し時代が進んでいたら、母は病院できちんと通院してそれなりの病名と薬を与えられるべきだったと思う。
でも当時、父も母も、「精神病院は気が変になった人のいくところ」として、選択肢に入れていなかった。
やがてわたしもどうにか名の通った大学を出て、優しい夫と結婚した。わたしは「誰にも責められない自由の空気」というものがこんなに嬉しいものかと陶然とした。そして長年の夢だった漫画家としてデビューし、自分を心から好きだと言ってくれる夫とともに初めて味わう幸せに浸っていた。
男女二人の子供に恵まれ、命を心からいとおしむことの幸せも知った。
孫の顔を見にくるときだけは母は相好を崩し、「まああなたがこんなにやさしいお母さんになるなんて、こんなにかわいい子を産んでくれるなんて、まあなんてことでしょう」と孫たちの顔に頬刷りをしていた。そんな幸せそうな母を見るのは初めてだったので、わたしはああやっとわたしは親孝行というものができたんだ、と思った。
そのころ、母は突然の腹痛で救急搬送された。
その二週間ほど前から体調を崩してはいた。
わたしが最初、「元気が出ないの」という母をタクシーで総合病院に連れて行ったとき、母はもう自立歩行ができず車いすに乗っていた。症状としては、食欲がとにかくない、元気が出ない、気分が悪い、それだけだった。
その時母を見たお医者は、「疲れによる風邪でしょう。風邪薬を出しておきます」というだけで、異様に膨らんだ母のおなかにも、ようやっと喋れるだけの母の異様さにも気を向けなかった。
絶対に風邪ではないと直感していたわたしは、お医者に向かって
「本当に風邪でしょうか。熱もくしゃみもないんです。母は昔結核を患って肺活量が普通の人の半分しかないんです。普段はこんなお腹じゃありません。腹水がたまっているのでは……」といったところで
車いすの母にいきなり、
「黙りなさい!お医者の診断に素人が口を出すものではありません!」と目を吊り上げて怒鳴られたのだ。
思えばその勢いがもう正気の沙汰ではなかった。母は風邪薬だけを処方されて帰り、その三日後に激しい腹痛を訴えて救急搬送された。
総合病院で点滴につながれても、母はうなっているか姉妹親戚友人の名をあげては罵詈雑言を叫び続けていた。痛み止めのせいで正常ではなかったとはいえ、わたしはそんな姿を、岡山から駆けつけてくれた親戚たちに見てほしくはなかった。昔は仲のいい姉妹だったと聞いていたのに。
肺活量が常人の半分しかないので全身麻酔はかけられない、従って手術はできない。それは以前からわかっていたことだった。ただ医師団の見立てでは、おそらく腹膜炎を起こして腹水がたまっている、だがお腹が開けないのではどうしようもないということだった。母には痛み止めと炎症止めの点滴だけがつながれた。
わたしたちはなすすべなく、「パパ大好き、パパ大好きよ」と言い続けて宙をさまよう母の手を見ていた。父は母の手を握って「ここだ、ここにいるぞ」とただ泣いていた。母はせん妄状態にあっても、夫をののしる言葉は一つも口にしなかったのだ。
ただ、長年罵倒し続けたわたしに対して、ほかの見舞客がふと誰もいなくなった瞬間
「あなたが一番優しかったわ。惟子ちゃん、あなたは優しい目をしてるの。ずっとそばにいてね」と母は言ってくれた。
これは薬でもうろうとなったゆえの譫言だろうか、本当は少しでも自分のことを愛してくれていたのだろうかと、わたしは戸惑った。が、最近胃の調子が悪いといって何も食べなくなった母におかゆや煮物を持っていったのはわたしだった。わたしたち夫婦は両親と同じ敷地内の別棟に住んでいたのだ。父はコンビニで買ってきたおかゆを「ビニールの臭いがする」と拒否した母にそっぽを向いて、「そんなことを言うならもう買ってやらん」で済ませていた。愛妻家の「ぞっこん」なんて、大概こんなものだ。
入院して二日目、母は個室に移され、「もう何も痛くないわ、いい気持ちよ」とふわふわとした声で言った。そしてわたしと夫に、「あなたたちはいい結婚をしたわね、いい子もできて幸せね」と言ってくれた。
正気でいた時間の中で、一度も言われなかった言葉だった。
他の親戚や父、姉に対しては、謝罪やお礼の言葉、突然の罵倒や意味不明の言葉を繰り返していた。
三日目の朝、譫言が消えて三時間後の早朝、母は息を引き取った。六十九歳だった。
死後、解剖でわかったことは、十二指腸穿孔による腹膜炎だったということだ。その二週間前には父と忍野八海に旅行に行っていたのに。
あまりにもあっけない最期だった。
母の死亡時刻を告げる医師の前で、父はただ彫刻のように固まり、両手で顔を覆ってひきつるような泣き声を上げたのはわたしだけだった。
向かいで、ただ無表情の姉たちが、静かに医師と看護師に頭を下げていた。
わたしたちの間の断絶。あの言葉が、静かに胸に浮かんできた。それは生涯そのまま、そこにあったのだ。
脳外科医である義兄は解剖の結果を聞いて、激しく憤慨していた。
「患者の家族がいつもと体つきが違うと言ったら、最低でも触診はしますよ。歩けないほど弱っているなら風邪以外も疑うべきだ。エコーでも撮っていれば分かったことです。腹膜炎の患者に安易に風邪薬なんて、毒そのものですよ。ぼくだったら訴訟を起こしますね。でも、お母さんのことはご家族が決めることだから……」
父は見る影もなくやつれ、しょんぼりと肩を落としながら、「もう、ええ。何をしても芙美子は戻らん」とそれだけ言って涙をこぼした。
そして、母を失って一週間ほど後。
突然「知らない映画」のように、ある忌まわしい記憶がわたしの脳裏に現れたのだ。
まるで、それまではどこかに封印していた古いフィルムのように。




