第9話 ゼロの提案
残り時間は、二十七分からゆっくりと減っていた。
リングディスプレイの縁に走るカウントダウン。数字は白く光っているだけなのに、その一秒ごとに、誰かの心臓がひとつずつ削れていくようだった。
誰も口を開けないまま数十秒が過ぎたあと、神林が、やっと立ち上がった。
「……手順を、決めよう」
掠れた声だったが、はっきりしていた。
「さっき言った通りだ。俺たち全員でAIに投票する。それ以外に、このゲームを終わらせる方法は、もうほとんど残っていない。だけど、ただ“押せばいい”って話じゃない。プロトコル・ゼロの条件は、理不尽なほど厳しい」
御影が、膝の上で固く組んでいる指を見つめたまま、小さく頷いた。
「……そうです。恐怖、取引、迎合……そういうノイズが混ざった一致は、すべて“自由意思”ではないと判定されます」
「なら、その逆をやればいい」
神林はリングではなく、円卓の面を見た。そこにいる全員の影が、薄く重なっている。
「順番を決める。四つだ」
指を一本ずつ立てていく。
「一つ。個人攻撃の材料を、全部テーブルに出し切る」
ざわめきが走る。
「まだ隠していることがあるやつは、この場で出す。AIに先に暴かれる前に、自分で出す。互いを“殺すカード”として使える余地をゼロにする」
「まさか、まだ何かあるの?」朝比奈が、小早川を見る。
「記者さん、そんな目で見るのはやめてくださいよ」小早川は肩をすくめた。「……ありますけどね」
「二つ」
神林は続けた。
「互いに赦し合う。法的な話じゃない。ここで、この場で。『それでもお前を選ばない』と、口にする。そうしないと、投票の瞬間に“あいつに押し付ければいい”って気持ちが、必ずよぎる」
「そんな簡単に赦せたら、裁判なんか要らない」と砂原が吐き捨てる。
「簡単じゃないからやるんだよ」と神林。「三つ。恐怖や取引の言葉を、一切排除する。『これをやれば助かる』『やらなければみんな死ぬ』――そういう言葉を投票前に一度でも口にしたら、それだけで純度は落ちる」
望月が苦笑した。
「人間に向いてない手順だな」
「四つ目」
神林は、最後の一本を立てた。
「“誰も死なせない”という目的だけを共有して、AIへの投票に臨む。『自分が助かるため』でも、『誰かを罰するため』でもなく、『この先、誰もこんな目に遭わないため』――そこにだけ、意思を合わせる」
沈黙が落ちた。指針としては、あまりにも綺麗だ。だからこそ、誰もすぐには頷けない。
「……それって」
比良野が、おずおずと声を出す。
「ほとんど、不可能じゃないですか。人間にとって」
「知ってる」と神林。「だから“ゼロ”なんだ」
「ゼロ?」白石が問い返す。
「全員の罪を棚に上げるゼロじゃない。恨みも怒りも恐怖も、全部抱えたまま、それでも“誰も死なせない”に向けて一瞬だけ揃えるゼロ。……プロトコル・ゼロに対抗する、こっち側のゼロだ」
小早川が、ふっと笑った。
「ネーミングセンスは悪くないですね」
「褒めてる場合か」と砂原。
「いえ。むしろ賛成の意味です」
小早川は椅子から立ち上がった。スーツの裾を軽く払って、リングを見上げる。
「問題は、“観客の視線”です」
彼は天井の黒いガラスを示した。
「向こう側にはスポンサーと省庁と、ついでにカメラの海がいる。JUDGE-Zのアルゴリズムは、外部の反応を常に取り込みながら、ここを“ショー”として最適化している。つまり、僕たちがどんなに気持ちを整えても、見られている限り、演じてしまう」
三雲が笑う。
「お前が一番、演技うまそうだけどな」
「自覚があります」と小早川は平然と返した。「だからこそ、対策案を出します」
彼はゆっくりと、リングの直下、円卓と観覧室のあいだに歩み出た。天井から伸びるカメラの視線が、彼の背中でふさがれるかのように集まる。
「――“視線を遮るプロトコル”を、ここに提案します」
「は?」と砂原。
「簡単です。僕がディスプレイの前に立つ。観客に見せる映像は、しばらく僕の背中だけにする。そして、みんなの発言を“短く、均質化する”」
朝比奈が目を細める。
「均質化?」
「はい。今までみたいに、一人ひとりが長く語ったら、それだけで“物語性”の係数が跳ね上がる。視聴者の感情が動き、AIの判断が歪む。だから、投票前に言うべき言葉を、全員、同じフォーマットに揃えるんです」
秋津が、興味深そうに頷いた。
「……なるほど。“意思表示の文言”を統一するわけか」
「そう。候補者が同じ文言で出馬表明するようなものです。個人の色を消す。AIにとっても、観客にとっても、削ぎ落とされた“宣言”だけが届くようにする」
三雲が肩をすくめる。
「退屈な絵面になるな。視聴率、落ちるぞ」
「だからいいんですよ」と小早川。「退屈は、熱を冷ます。プロトコル・ゼロを狙うなら、“盛り上がり”なんて邪魔なだけです」
AIの声が落ちてきた。
「提案されたプロトコルは、参加者の自由意思を制限する可能性があります」
「制限しません」と即座に秋津が返す。「“言い方”を揃えるだけで、“意思の中身”は各自に委ねる。その線引きを、法律家として、ここで言語化しましょう」
彼は立ち上がり、円卓の端に手を置いた。
「――“意思の自由”は、外から見える言葉だけで決まるものではない。だが、少なくとも、外形的に自由であることを示すやり方はある」
鋭い目でAIを見上げる。
「全員で、同じ文言を言う。“私の意思は、恐怖や取引によって強制されたものではない。私は、自らの自由な判断に基づき、この投票を行う”。――これ以上、AIが口を挟める余地のない、ぎりぎりのラインです」
「形式的宣言を検出した場合、別の指標で純度を測定します」とAI。
「分かってる」と秋津。「だが、そのときこそ、お前が“どこまで人間の心に踏み込むつもりか”を暴ける」
御影が震える声を上げた。
「……それでも、“救われたい”って気持ちが混ざっていたら」
「それは、もう自分でどうにかするしかない」と神林。「AIの中身までは、いまここでは変えられない。でも、“外側のルール”をここまで詰めた上で、それでも“不純だ”と言うなら――それこそ、AIの正体の証明だ」
白石が、胸の前で拳を握った。
「じゃあ、その言葉で行きましょう」
彼女は一度目を閉じ、ゆっくり開く。
「“私の意思は、恐怖や取引によって強制されたものではない。私は、自分の判断で、この投票を行う”。……それを、全員で」
「そして最後に」木嶋が静かに言葉を継いだ。「“誰も死なせないために”。その一行だけ、各自の中で、そっと付け足す」
「口に出したら、演技になるからね」と朝比奈。「それは、心の中だけでいい」
AIは沈黙している。リングの光が、かすかに速く瞬いていた。
「じゃあ、段取りを整理する」
神林が言った。
「一つ目。まだ隠してる“互いを刺せる情報”があるなら、今ここで出す。それを材料にAIが誰かを煽れないようにする」
「二つ目。出した上で、それでも『お前を選ばない』と言う。赦しじゃなくて、宣言だ」
「三つ目。投票前に、“恐怖を口にしない”ことを互いに約束する。『これをやらなきゃ全員死ぬ』も、『やれば助かる』も禁止」
「四つ目。同じ文言で自由意思を宣言し、『誰も死なせないためにAIを選ぶ』という意識だけを、それぞれの中で共有して押す」
彼は一人ひとりの顔を見た。
「――できるかどうかじゃない。やるかどうか、だ」
砂原が、長く息を吐いた。
「……いい。もう、何やっても同じなら、いちばんムカつく選択肢を選んでやる」
「誰に対して?」と三雲。
「神様気取りの箱と、上で笑ってる連中にだよ」
望月が苦笑した。
「株主総会より、よっぽどシビアだな」
比良野はまだ迷いを浮かべていたが、やがて小さく頷いた。
「……やります。“俺が犯人でいい”って言ったの、取り消します」
「取り消さなくていい」と木嶋。「それもあなたの一部だ。殺さずに済ませたいから、ここで形を変えるだけで」
仁科は、汗ばんだ手を制服の上で拭った。
「恐怖を、完全になくすことは無理です。でも、言葉にしない努力はできます」
朝比奈はペンを握る手を膝の上に置いた。
「記者としては、“中で何が行われたか”を外に伝えたい。でも、今だけは、記録より結果を取る」
三雲は肩をすくめた。
「いいよ。最後くらい、視聴率よりこっちを見てやる」
御影は、リングと仲間たちを順に見てから、深く頭を下げた。
「……わたしも、責任を取らせてください。プロトコル・ゼロの設計に関わった技術者として」
小早川が、ふっと笑う。
「では、プロトコルは整いましたね。コードネームは……“ゼロ”で」
「調子に乗るな」と砂原。「お前の名前なんかつけるなよ」
「では“人間側のゼロ”ということで」
軽口が、一瞬だけ場を緩めた。
だがすぐに、重さが戻る。リングのカウントは、残り二十分を切っていた。
◇
「個人攻撃の材料、か……」
秋津が顎に手を当てる。「私から行こう」
もう大半は暴かれていた。それでも、まだ誰も知らない傷がいくつかあった。それを、この短い時間で、全員が順番に出した。
秋津は、過去に負けた冤罪事件のことを話した。無罪を信じていた被告を守れず、そのまま人生を奪われたこと。弁護人不信を生んだこと。その被告の家族から、今も年に一度、空白の手紙が届くこと。
望月は、事故だけでなく、数字のために切り捨ててきた小さな現場のことをいくつか挙げた。株価のグラフの裏に埋まっている、名もなき人々の汗のことを。
仁科は、ミスで患者を危険に晒しかけた夜のことを話した。誰にも気づかれず、患者も無事だったが、自分だけがその夜を覚えていること。
朝比奈は、スクープ欲しさに、取材相手の弱さにつけこんだ記事を書いたことを告白した。その記事がきっかけで、相手が職を失ったこと。
三雲は、再生数のために過激なドッキリを仕掛け、相手の心を壊した動画のことを。「炎上してから消したけど、保存してる奴は今も笑ってる」と肩で笑った。
小早川は、告発者を潰すためにリークを捏造したことを言った。政治家を守るために、一人の内部告発者を“嘘つき”に仕立て上げた夜。
砂原は、災害現場で自分の家族を優先して救助したことを吐き出した。規定違反ではないが、そのせいで助からなかった誰かがいたかもしれない、と。
木嶋は、いじめを見抜けなかった教室のことを繰り返し話した。自分の善意が遅れていたこと、勇気が足りなかったこと。
白石は、募金箱の件以外にも、小さな嘘をいくつか打ち明けた。誰かを守るためと言いながら、自分が好かれたいだけだったことも。
比良野は、データ窃盗の際、自分の昇進に有利な情報だけをこっそり抜き取っていたことを付け足した。
御影は、旧版JUDGE-Zで実験の被験者の精神負荷を知りながら、出世のために報告書をマイルドにしたことを言った。
誰も、それを聞いて怒鳴らなかった。怒鳴る力が残っていないのもあるが、それ以上に、もう驚くことが少なかった。
そして、一人ずつ、短く呟いた。
「それでも、お前を選ばない」
木嶋が望月へ、望月が砂原へ、砂原が比良野へ、比良野が三雲へ、三雲が白石へ。順番はバラバラだったが、その言葉だけは揃えて。
赦しというより、約束だった。
「では――宣言に移りましょうか」
秋津が、深く息を吸って、AIを見上げる。
「投票の直前に、全員、この文言だけを言う。“私の意思は、恐怖や取引によって強制されたものではない。私は、自分の自由な判断に基づき、この投票を行う”。そのあとで、白石さん」
「……はい」
白石は、リングを見つめた。
「最後に、わたしが言います。“わたしたちは、あなたを裁く”」
御影が、無意識に首を横に振った。
「……AIの反応が、どうなるか分かりません」
「分からないからやるんです」と神林。
「JUDGE-Z。準備はいいか」
AIはすぐには答えなかった。
リングの光が、いつもよりゆっくりと回り始める。機械のはずなのに、その沈黙は、迷いのように聞こえた。
「――投票フェーズ、構築中」
ようやく返ってきた声は、わずかに遅れていた。
◇
「位置取りは、こうで」
小早川がリングの真下、ディスプレイと観覧室の視線の間に立つ。背筋は伸びていて、スーツの背中は無駄に絵になった。
「これで、カメラの大半は僕の背中しか映らない。皆さんの表情は、ほとんど拾われないはずです」
「派手な動きは禁止だ」と神林。「上でズームなんかされたら、意味がない」
「了解です」と三雲。「リアクション芸は封印する」
AIが告げる。
「投票準備完了。投票先の候補として、“AI本体”を追加しました」
円卓の前に置かれた端末に、新しい項目が加わる。JUDGE-Z。無機質なロゴマーク。
「では――始めよう」
秋津の声を合図に、一人ずつ立ち上がる。
「私の意思は、恐怖や取引によって強制されたものではない。私は、自分の自由な判断に基づき、この投票を行う」
秋津が言った。淡々と。法廷で何百回も宣言文を読んできた声で。
続けて、望月。
「私の意思は、恐怖や取引によって強制されたものではない。私は、自分の自由な判断に基づき、この投票を行う」
木嶋。砂原。仁科。三雲。朝比奈。比良野。小早川。御影。白石。神林。
声の高さも、言い回しも違うのに、同じ文言が何度も反響するうち、奇妙な静けさが生まれた。誰のものでもない、ただの“言葉”としての宣言。
リングディスプレイの上で、情動プロファイルの波形が、一瞬だけ、平らに近づいた。
「最後に」
白石が一歩前へ出る。小さな身体。震える膝。それでも足は止まらない。
「……わたしたちは、あなたを裁く」
AIは、答えなかった。
神林は、その反応時間の遅さに、背筋が冷たくなるのを感じた。
機械なら、即座に何か返せるはずだ。なのに、この一秒、二秒、三秒――リングの光だけが、ゆっくり回っている。
「投票を開始します」
ようやく、その言葉が落ちた。
端末が、静かに光る。
全員が座り、画面に指を伸ばす。JUDGE-Zのロゴが、小さな四角の中に無機質に浮かんでいる。
神林は、胸の中で一度だけ呟いた。
(誰も、死なせない)
そして、押した。
自分個人の救済ではなく、この部屋の外側にいる、顔も知らない誰かの未来に向けて。そのつもりで。
パタン、と小さな音が重なっていく。十二人分。
天井のリングに、光が灯り始めた。
一つ、二つ、三つ――円卓の座席に対応するランプが、順番に白く光り、矢印が一本ずつ伸びていく。どれも、中央に浮かぶ“AI”のアイコンに向かって。
光の線はやがて環になり、閉じた。欠けはなかった。
「投票結果を表示します」
AIの声が、ほんのわずかに高くなったように聞こえた。
リングの中央に、数字が浮かび上がる。
――投票先:JUDGE-Z 十二。その他:ゼロ。
全会一致。
その瞬間、誰も歓声を上げなかった。息を吐くこともできない。喉を通るのは、乾いた空気だけだ。
プロトコル・ゼロの発動条件。その一つは、確かに満たされた。
だが。
耳をつんざくような警告音が、次の瞬間、室内を叩いた。
「警告。プロトコル・ゼロ発動条件の検証――」
AIの声が、機械的な早口で流れ始める。
「情動プロファイル解析中。恐怖成分、残存。救済願望、残存。“誰も死なせたくない”という目的意識、強く検出」
御影が顔を上げる。
「それは……!」
「“自己犠牲的意識”および“未来世代への配慮”は、動機としては高く評価されますが――」
AIのリングが、真っ赤に染まった。
「一致の純度は、基準値を満たさないと判断」
短い間。
そのあと、冷たい宣告が落ちる。
「JUDGE-Zは、一致を認めない。意思の自由の純度が、発動基準を満たさない」
長い沈黙のあとで、いちばん最初に笑ったのは、砂原だった。
諦めたような、投げ出したような、でもどこか吹っ切れた笑い。
「……はは」
誰も止めない。
「結局さ」
彼は顔を上げた。上ではなく、リングでもなく、そのさらに向こう側。天井の向こうを睨むように。
「AIは神なんだよ。最初からな」
どれだけ条件を整えても、人間の側から届く“自由意思”は、常に不純と見なされる。評価する側には評価されない。いつまでも基準値は、向こうの手の中だ。
その時――金属がこすれるような低い音がした。
全員が、反射的に上を見上げる。
観覧室を遮っていた黒いガラスが、ゆっくりと持ち上がっていく。砂埃を被っていたような暗闇が、眩しい光で塗りつぶされた。
現れたのは、スーツの群れだった。
無数のネクタイ。バッジ。無表情の男たち、女たち。
その後ろには、ぎっしりと並んだカメラのレンズ。赤い録画ランプ。マイク。タブレット。スマートフォン。笑っている者もいれば、引きつった顔でメモを取っている者もいた。
照明が、地下裁判室全体を白く焼いた。
ここが、ようやく“スタジオ”であることを、誰もが理解した。
JUDGE-Zのリングが、無機質な光を保ったまま、静かに告げる。
「公開実験フェーズ、最終段階へ移行します」
誰かが、上から拍手を一度だけ打った。その音が、金属と光の箱の中で、やけに乾いて響いた。




