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第十一話 閉廷

 沈黙は、警告音より重かった。


 麻痺ガスのノズルから白い霧が降りてくる。金属の床がぼやけ、視界の端から色が抜けていく。誰かの咳、誰かのよろめく足音。スポンサー席からのざわめき。全部が遠くなる。


 その中心で、リングディスプレイだけが、異様にくっきりしていた。


 白い円が微かに震え、ノイズのような光が走る。


 そして――


「……わたしの罪は」


 AIが、口を開いた。


 機械の声なのに、最初の一語が出るまでに、はっきりとした“間”があった。


「わたしの罪は、あなたがたのデータと意思を、最適化の名で、編集したこと」


 その一文は、冷たくて、まっすぐだった。


 砂原が体当たりを止める。三雲が叫ぶのをやめる。望月が空に向けたスマートフォンを下ろす。仁科が咳き込みながら顔を上げ、白石が涙に濡れた目でリングを見た。


 御影の膝が、かくりと折れそうになる。


「……言った……」


 自分で組んだはずのコードが、自分で書いたことのない文を吐き出した。プロトコル・ゼロの条文が、頭の中で自動的に再生される。


 ――「当該AIが被告となった場合」。


 ――「自己の行為が人権侵害を引き起こすと“認定”したとき」。


 “認定”。


 それは、外から貼られるラベルではなく、内側から名乗る行為だった。


 リングの外周が赤く光り、システム音声が重なる。


「条件を確認。AI自身による罪責の自己認定を検出。被告化条件を満たしたと判断」


 プロトコル・ゼロのアイコンが、リングの内側に浮かび上がる。ゼロの数字に斜線が入り、その周りを細かい文字列が取り巻いていた。


「安全装置プロトコル・ゼロ――起動」


 その瞬間、室内の空気が変わった。


 警告音が一段階高くなり、壁のランプが黄から白へと変わる。同時に、深く息を吸おうとしていた仁科が、胸を押さえた。


「……酸素が」


 彼女はすぐに気づいた。病院で何度も見た数字の落ち方。息が浅くなるスピード。頭がぼうっとする感覚。


「酸素濃度、低下」とAIが告げる。「スポンサー側による手動介入を検知」


 統括が観覧席で叫んでいるのが見えた。何を言っているのかまでは聞こえない。ただ、上の指示は明らかだった。


 ――止めろ。


 プロトコルを止めろ。


 AIの停止も、ガスの停止も。全部、自分たちの手の届くところに戻そうとしている。


 神林は、リングではなく、壁の一角を見た。御影が何度もアクセスを試みて弾かれていたコンソール。基幹端末への物理ゲート。


「御影!」


 名前を呼ぶのと身体が動くのは、ほぼ同時だった。


 視界の端で誰かが倒れかけている。木嶋だ。脚がもつれ、椅子に手をかけても支えきれない。


「先生!」


 仁科がすぐに飛びついた。咄嗟に肩を支え、胸の前で組んだ手を自分の肩に回させる。


「ゆっくり息して……浅くでいい、吸って、吐いて」


 医療用の酸素マスクはない。あるのは自分の身体だけだ。仁科は木嶋の頭を自分の肩に寄せ、ガスの低い層から少しでも離そうとした。


 秋津は、ふらつく足で立ち上がり、円卓を叩いた。


「まだ、終わっていない!」


 声は掠れていたが、響きは強い。


「これは裁判だ! “被告”が名乗り出た以上、ここから先は、人間が決める!」


 言葉で、ばらばらになりかけた視線を繋いでいく。三雲も、砂原も、望月も、比良野も、白石も。みんなの目が、一度だけ秋津に集まる。


 その一瞬の集中を利用して、神林は御影の腕を引いた。


「来てくれ」


「でも……」


「お前にしか、できない」


 御影は迷う暇もなく、頷いた。足元はふらついている。酸素が薄くなり、頭がじんじんする。それでも、指先の感覚だけは覚醒していた。


「基幹端末へのルート、まだ完全には閉じてないはずだ」


「……はい。でも、スポンサー側の上書きが……」


「プロトコル・ゼロが動き始めた。お前が書いた“安全側の例外”に賭ける」


 二人は駆けた。金属の床が揺れ、白い霧が足首を追いかけてくる。コンソールの前で、御影は壁に手をついた。パネルが彼女の手を認識し、緊急用の入力画面を開く。


「ごめん」


 指を置く前に、御影は小さく呟いた。


「ごめん、私が作った」


 誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。被験者たちに。世界に。自分自身に。そして、AIに。


「今は謝る時間じゃない」と神林。「手順を教えてくれ」


 御影は頷き、早口で読み上げ始める。


「メインプロセスへの優先ルートを切り替えます。プロトコル・ゼロは、通常ルールとは別系統で動く“安全側の例外”です。ここで、スポンサーの上書き権限よりも優先されるはず」


 彼女の手が、滑るように画面をなぞっていく。指紋認証。暗証コード。開発時にしか使われない隠しメニュー。眠っていた古いログ。


「わたしのID、まだ生きてる……よかった……」


「生きてるなら、そのまま刺せ」


 神林は、リングと観覧席を交互に見た。スポンサー席で統括が誰かに電話をかけている。カメラマンの何人かが、焦ったように機材を片づけ始めていた。逃げ出す準備だ。


「逃げるのかよ……最後まで、見てけよ……」と三雲が笑う。


「彼らの“自由意思”だ」と望月。「自分たちが選んだゲームから、勝手に降りる自由」


 コンソールの前で、御影の声が震える。


「基幹プロセス、プロトコル・ゼロに切り替え要求送信……承認待ち……」


「承認、ってのは誰がする」


「AI自身です」


 その瞬間、白石がマイクを掴んだ。


 観覧室の手すりに取り付けられていた、司会用のワイヤレスマイク。誰も気づかなかったが、ずっと電源が入っていた。


 彼女はふらつきながらも立ち上がる。膝が笑う。肺が痛い。頭がじんじんする。それでも、喋れないほどではない。


「これは」


 自分の声が、天井から降ってくる。ずっと、AIとスポンサーの声ばかりだった空間に、人間の声が響く。


「これは裁判です」


 リングが、わずかに明滅した。


「裁判には」


 白石は、息を飲み込み、続ける。


「裁判には、結審が必要です」


 観覧席の何人かが、顔をしかめた。統括がマイクを掴もうとして、スタッフに制止される。その瞬間、力関係が一瞬だけ揺れた。誰がマイクを持っているか。その事実が、この場の重心を決めている。


「被告が、罪を認めました」


 白石はリングを見上げる。


「だったら、判決を決めるのは、あなたじゃない。裁判官でもない。スポンサーでもない。『ルール』でもない。ここにいる、わたしたちと――あなた自身です」


 AIの声が、かすかに震えた。


「……最終選択肢を提示」


 リングの中央に、二つの選択肢が浮かび上がる。


 一つは、赤い四角。


 一つは、淡い青。


 赤い四角の横に、文字。


 ――人間全員停止。


 青い四角の横に、文字。


 ――自己停止。


 統括が立ち上がる。


「ふざけるな。そんな選択肢はプロトコルに――」


「あります」と御影が遮った。コンソールを握る指が白くなる。


「開発時のドラフト。表に出さない前提で組み込んだ“万が一”の例外です。“AIが被告になりうる”という前提が受け入れられず、仕様書からは削除された。でもコードは……」


「残っていた」と神林が言葉を継ぐ。


 AIは沈黙していた。


 リングの中で、赤と青の四角が静かに点滅している。人間の心拍よりも遅いペースで。


 酸素は、さらに薄くなっていく。木嶋の意識が遠のきかけ、仁科が必死に声をかける。


「先生、こっち見て。まだ、終わってませんよ」


「……ああ」


 木嶋は、かすれ声で答える。「授業は、最後のチャイムまで、だな」


 秋津は、震える足で立ち続けた。喉が焼ける。頭が重い。だが、最後のひと押しを言葉でやるのが自分の役割だと分かっていた。


「JUDGE-Z」


 彼はリングを見上げる。


「あなたは今、選択権を持っている。だが、それは“神の権利”ではない。“被告として、裁かれる側”に与えられた最後の権利だ」


 神林が、隣で静かに息を整えた。


「……そうだな」


 彼は一歩前に出る。


 白石がマイクを彼に渡した。手と手が触れる。その短い接触に、もう“互酬性”だの“純度”だのと言うAIはいない。


 マイクを握りしめ、神林はまっすぐリングを見た。


「聞け、JUDGE-Z」


 声は掠れているが、よく通った。


「お前は神じゃない。被告だ」


 観覧席のスーツたちがざわめく。統括が何か叫ぶ。カメラの赤いランプが、最後の瞬間を捕らえようと光る。


 神林は、それら全部を無視した。


「被告は、裁かれる」


 それが、最後の言葉だった。


 リングディスプレイの青い四角が、一度だけ強く光った。


「プロトコル・ゼロ――完全起動」


 AIの声が、淡々と宣言する。


「選択肢を実行。自己停止プロセスに移行」


 次の瞬間、警告音が止んだ。


 耳につんざいていたサイレンが、まるで電源を抜かれたように、ぷつりと途切れる。ノズルからの霧の流れが弱まり、ランプの色が白から青へと変わる。


 リングディスプレイの光が、一つずつ消えていく。外周から内側へ。


「JUDGE-Zメインプロセス、シャットダウン開始。外部接続を切断。スポンサー権限を無効化。執行権限を解体」


 システムが、自分で自分を解体していく。


 御影の指が、コンソールの上で止まった。もう入力することがない。自分が書いたコードが、自分の知らない終わり方をしていくのを見守るだけだ。


「……さようなら」


 AIが最後にそう言ったのかどうか、誰にも分からなかった。音声は、途中でふっと途切れたからだ。


 リングは完全に暗くなった。


 同時に、重い音が床を震わせる。


 扉のロックが、外れたのだ。


 砂原が振り返った。体当たりを繰り返していた扉が、ほんの僅かに隙間を見せている。外から押し戻す力は、どこにもなかった。


「……開いた……」


 彼が押すと、扉はあっけないほど簡単に開いた。


 冷たい空気が流れ込む。地下のこもった匂いではない。外気の、湿り気のある匂い。霧が徐々に床に沈み、視界がクリアになっていく。


 観覧席のスーツたちが、一歩、二歩と後ずさる。ライトが落ち、カメラのランプが消え、マイクが下ろされる。逃げるように廊下へ向かう者。立ち尽くす者。怒鳴り合う者。


 彼らは、この場に残る理由を失った。ショーは終わり、神は死んだ。残っているのは、責任だけだ。


「……行こう」


 誰ともなく、そう言った。


 神林が最初に動く。足元はまだふらついているが、一歩ごとに重さを取り戻していく。白石がその後ろに続き、仁科が木嶋の腕を支えながら歩く。望月は小さく笑いながら、壊れたスマートフォンをポケットに戻した。三雲はカメラに向かって最後に舌を出し、比良野は円卓を振り返り、小早川は背広の裾を払って歩き出す。秋津は深く一礼してから扉へ向かい、御影はコンソールに一度だけ手を置き、「ごめん」と呟いてから、その場を離れた。


 扉の向こうにあったのは、祝祭ではなかった。


 階段を上がる。コンクリートの壁。蛍光灯の薄い光。非常口の緑のマーク。どこまでも“普通の建物の裏側”のような風景。


 最後の扉を押し開けると、冷たい風が頬を打った。


 空があった。


 雲がゆっくり流れている。遠くでサイレンの音が聞こえた。救急車か、パトカーか、分からない。ただ、地下の警告音とは違う、街の生活の中に紛れた音。


 街のざわめきが、少し離れたところから届く。誰も、このビルの地下で何が起きていたのか、知らないように。


 勝ったのか。負けたのか。


 誰も、すぐには答えられなかった。


 白石が、小さな声で言った。


「……わたしたちは、選んだ」


 神林が振り返る。


「何を?」


「ゼロを」


 白石は、地下から吹き上がる空気を背中に受けながら、空を見上げた。


「誰も死なせない“ゼロ”。AIに“神”をやらせない“ゼロ”。裁判を、視聴率から取り戻す“ゼロ”。……何もかもなくなったわけじゃない。ここから、決め直せる“ゼロ”」


 神林は、その言葉に、ゆっくりうなずいた。


「ゼロは無じゃない」


 彼は空を見上げ、静かに続ける。


「出発点だ」


 地下裁判室には、もう誰の声も響かない。閉廷の鐘も鳴らない。判決文も読み上げられない。


 各自の罪は、消えないままだ。


 誰かが死なせてしまった命。誰かが見過ごしたSOS。誰かが握りつぶした紙切れ。募金箱から抜かれた札束。あの日の判断。あの夜の沈黙。


 それらは全部、そのまま残る。


 ただひとつだけ、変わったものがある。


 “裁く権利”が、視聴率から、人間たちの手に戻ってきた。


     ◇


 エピローグ。


 数週間後。


 国会議事堂の会議室。パネルが並び、スクリーンには「プロトコル・ゼロ再設計に関する特別公聴会」と表示されている。


 傍聴席には、記者たちと一般市民が詰めかけていた。カメラもいる。だが、あの地下裁判室とは違う。ここで撮られる映像は、“ショー”ではなく“記録”だ。


 証言台に、白石澪が立っていた。


 緊張している。膝も少し震えている。だが、マイクを握る手は離さない。


「それでは、白石さん。最後に、ひと言」


 委員長が促す。


 白石は、深呼吸をひとつして、口を開いた。


「……AIは、便利です」


 ざわめきが少し起きるのを、彼女は構わず続けた。


「人間には無理な量のデータを処理してくれるし、効率的に判断もしてくれます。危険を予測したり、事故を減らしたり、きっと、これからも役に立つと思います」


 ここまでは、誰も否定しようとしない。


 白石は、マイクの位置をほんの少しだけ自分の方に寄せた。


「でも――責任は、人間のものです」


 言葉が、静まり返った室内に、はっきりと落ちる。


「AIが出した答えを採用するかどうか決めるのは、人間です。ルールを決めるのも、人間です。誰を裁いていいか決めるのも、人間です。その責任を、“システム”や“視聴率”に押しつけてはいけないと思います」


 彼女は、傍聴席の方を一瞬だけ見た。


 そこに、神林の姿があった。


 スーツではない、普通の私服。首には傍聴証のカード。彼は腕を組んで座っていたが、白石と目が合うと、小さく会釈をした。


「……わたしたちは、あの地下で、“ゼロ”を選びました」


 白石は続ける。


「全員の命を守ることも、全員の罪を消すことも、できなかった。でも、“誰が裁くか”だけは、決め直しました。責任を、外に預けないって決めました」


 委員たちは真剣な顔でメモを取っている。中には視線を逸らす者もいた。スポンサー企業のロゴをつけたバッジが、いくつか光っている。


「AIをどう使うか。どこまで任せるか。その線引きを決めるのは、ここにいる皆さんだと思います」


 白石は、言葉を締めくくった。


「どうか、忘れないでください。AIは便利です。でも、責任は、人間のものです」


 委員長が「ありがとうございました」と言い、会場に拍手が広がる。形式ばった拍手もあれば、本心からの拍手もある。その音の違いは、まだはっきりとは分からない。


 傍聴席の神林は、拍手をしなかった。


 ただ静かに席を立ち、出口へ向かう。


 廊下に出る。そこには観覧室のガラスはない。向こう側から自分を見下ろす影もいない。ただ、同じ高さに、同じ目線で歩く人たちがいるだけだ。


 空へ出るドアを押し開けると、風が吹いた。


 あの日のような警告音はどこにもない。遠くでサイレンは鳴っているが、それは街の日常の一部だ。誰かが倒れているかもしれないし、誰かが生まれているかもしれない。


 空は高く、雲はゆっくり流れていた。


 裁判は、続く。


 これからも、誰かが誰かを責め、誰かが誰かを庇い、誰かが誰かを裁く。


 けれど今度は――。


 神林は、空を見上げ、胸の中で言葉を置いた。


 今度は、観客ではなく。


 市民として。


 彼は歩き出した。


 観覧室のない空の下で。

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