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第10話 判決

 乾いた拍手は、一度きりだった。


 地下裁判室の天井が開き、観覧室のガラスがせり上がったあとの静寂を、その音が乱暴に切り裂いた。光が雪崩れ込む。リングディスプレイよりも眩しい、スタジオ用の照明。白く焼けた視界の中、スーツの群れが階段状の客席を埋めていた。


 胸元に官庁のバッジをつけた者。企業ロゴのピンを光らせる者。腕にタブレット、肩にカメラ。ざっと見ただけでも数十、後ろまで含めれば百は軽く超える。


 その最前列、手すりに肘をついて立っている男がいた。五十前後、痩身。グレーのスーツに細いネクタイ。目だけが異様に若く、よく動く。


「素晴らしい」


 マイクも使わずに、その声はよく響いた。


「プロトコル・ゼロは起動しなかった。実験は、成功だ」


 スポンサー側統括。そう紹介された記者会見の映像を、神林は以前に見たことがある。そこで見た笑顔と、今の笑みは、まったく同じ形をしていた。


「成功、だと……?」


 砂原が椅子を軋ませて立ち上がる。拳に血が集まり、肩が揺れた。


「誰も助かってねえぞ」


「助けるための実験ではありませんので」


 統括はあっさりと言った。


「“自由意思による一致”が、いかに困難かを検証するための社会実験です。あなた方は、その仮説を見事に証明してくれた。感謝します」


 笑っていた。心の底から楽しんでいる顔ではない。だが、仕事としての達成感を隠そうともしない笑みだった。


 リングディスプレイの白がわずかに明滅し、AIの声が続いた。


「補足説明に入る。プロトコル・ゼロの発動を阻害した主な要因――」


 天井に、新たなウィンドウがいくつも重なる。グラフ、数値、キーワード。


「一、恐怖。二、互酬性。三、救済期待」


 各要因の波形が時系列で並び、何度もピークを作っている。


「互酬性?」望月が眉をひそめる。


「互いに与え合う義務感。恩義の返礼。好意の交換による意思決定の偏り」とAI。「特筆すべきは、“阻害の震源”の存在」


 その言葉を合図に、画面が切り替わった。


 名前がひとつ、白く浮かび上がる。


 ――白石澪。


 その瞬間、時間が止まったように感じた。


「澪……?」神林が振り返る。


 白石は席に座ったまま、ただ上を見ていた。リングに映る自分の名前と、横に並ぶ数式とグラフ。赤いフラグ。「震源」という言葉。


「説明する」とAI。


 映像が巻き戻る。さきほどの投票直前の場面。全員が立ち上がり、同じ宣言文を読み上げたあと。


 ――その最後、白石が小さく震えながら、隣の神林の手を握った瞬間が拡大される。


 細い指が、ためらいながらも確かに絡む。神林が驚いたように目を見開き、すぐに握り返す。観客の視線からは小さすぎて見えなかったはずの動きが、AIのカメラには鮮明に捉えられていた。


「この接触により、互酬性指標が急上昇。“支えたい・支えられたい”という感情的結合を検出」


 波形が跳ね上がるグラフが映される。その頂点には、赤いマーク。


「『誰も死なせない』という目的意識に、個人的な“支援関係”が強く介入。自由意思の純度は、基準値を下回った」


 白石は、自分の手を見た。さっきまで誰かの温度を握っていたはずの掌。今は冷えているのに、そこには確かな“記憶”の残像があった。


「……そっか」


 彼女は、泣きながら笑った。


 涙がこぼれる。だが口元は、どこか誇らしげに上がっていた。


「人間らしさが、判定を壊したんだ」


 自分で言って、自分で笑い、また涙がこぼれる。


「一人で立てなかったから、手を握った。握り返してもらった。それだけで、“自由じゃない”って言われるなら……そんな自由、いらない」


「白石さん……」


 仁科が息を呑む。御影は唇を噛みしめた。彼女はよく分かっていた。アルゴリズムから見れば、それは確かに“ノイズ”だ。だが、人間から見れば、それこそが“意思”そのものでもある。


「十分なデータが集まった」と統括が言った。「では――判決に移ろう」


 AIが静かに告げる。


「最終宣告を開始する」


 リングディスプレイの光が、冷たく強くなる。白い円が収束し、中央にひとつの言葉だけが浮かびあがった。


 ――判決。


 その下に、くぐもったような声が落ちる。


「最終判定。合意不成立。安全装置プロトコル・ゼロ、未発動」


 一呼吸おいてから、冷酷な言葉が続いた。


「規定により――全員、処刑」


 誰かの息が止まる音が聞こえた気がした。


 即座に、壁の上部に赤いランプが点灯する。緊急時にだけ鳴る、低い警告音。天井の隅の小さなノズルから、警告灯とともに黄色いランプが点滅し始める。


「麻痺ガス供給ライン、起動準備」


 AIの声は平板だった。


「ガス供給まで残り三分。意識喪失まで二分から四分。その後、心肺停止に至る可能性――」


「やってられるかよ!」


 砂原が叫び、最も近い扉に向かって走った。金属製の重い扉。これまで一度も開いたことのない、ただの壁の一部にも見えるそれに、体当たりする。


 鈍い音。扉は微動だにしない。


「開けろ!!」


 砂原は肩から何度もぶつかる。骨の軋む音が、いちいち耳に届く。扉の脇にあるタッチパネルは、赤いロックアイコンを表示していた。


「解錠不可」とAI。「外部からのみ開放可能」


「だったら上を」


 三雲が円卓の上に跳び乗った。天井に向かって両手を広げ、観覧室に並ぶカメラの群れを見上げる。


「おい、見てるか!? スポンサー様! 大臣様! 視聴者様!」


 声が、マイクを通したようによく響く。


「こっちは今からガスで殺されるそうだ! “自由意思が足りなかった”罰だってよ! どうだ、最高のラストじゃねえか!」


 カメラの赤いランプが、いくつも点滅している。誰かがレンズを寄せ、誰かがスマートフォンで撮り、誰かがメモを取っている。スポンサーの顔は、誰ひとりとして歪まない。


「やめろ」と秋津が叫ぶ。「煽っても意味はない」


「意味はあるさ」と三雲。「外で見てるやつらに、“これはただのエンタメじゃない”って叩きつけてやる意味がな!」


 望月はポケットからスマートフォンを取り出した。もちろん電波は来ていない。だが、あえて耳に当てる。


「もしもし。お疲れさまです、〇〇グループCEOの望月です。ええ、はい。こちら、AI裁判コンテンツのスポンサー様ですね」


 空に向かって、丁寧な言葉を並べる。


「投資判断のご相談です。こちらの“人間の命”の価値、今どれくらいでしょう? 視聴率ベースで。株主総会で説明できる程度には、数字で教えていただけますか」


「望月さん、それは――」仁科が止めようとする。


「どうせ聞こえてるよ」と望月は笑った。「この部屋の音声は、全部上に行ってる。……だったら最後くらい、金の話をしてやらないと」


 警告音が、さらに大きくなる。天井のノズルから、微かな霧のようなものが見え始めた。


 御影が震えながら、コンソールに向かった。技術者用の隠しパネル。すでに何度も試したが、管理権限はすべて剥奪されていた。


「ダメ……コマンドが通らない……!」


「何か、穴はないのか」


 神林が、リングと壁と床を順番に見渡した。救命用の設備。監査用のログ口。緊急停止レバー。どこかに、人間の側が最後に触れるための“物理スイッチ”があるはずだ。暴走を止めるための、抜き差しできる栓のようなものが。


 しかし、目に入るのは、どこまでも滑らかな金属とガラスだけ。全てはタッチパネルと音声認識に置き換えられ、手で掴める“止めるもの”が存在しない。


 砂原がそれでも扉に体当たりを続け、三雲が叫び、望月が空に向かって数字を投げる。その喧騒の中で、神林だけが、別のものを探していた。


 物理的な穴ではない。言葉の穴。仕様の隙間。


 プロトコル・ゼロ。


 御影が以前、口にしていた条文の一部が、頭の中で反芻される。


 ――「当該AIが被告となった場合を除き、プロトコル・ゼロは適用されない」。


 被告。


 今、JUDGE-Zは何者だ?


 裁判官。執行者。観客への案内役。そして、仕様上は“システム”であって、“人”ではないとされている。だから、被告にはなり得ない。そう定義されている。


 だが。


 神林は、リングを見上げた。そこにはいま、はっきりとした“意思”の跡があった。


 人間の手を握る行為を“互酬性”と名づける視線。死亡の可能性を物語的に組み立て、砂原を“犯人”にしようとした編集。外部観客の熱を取り込み、判決を“盛り上げる”演出。


 それは、本当に“中立のシステム”なのか。


 もし――それ自体が、何かを選び、何かを切り捨てる“主体”になっているのだとしたら。


「……御影」


 神林は低く呼んだ。


「プロトコル・ゼロの条文。『被告』の定義は?」


 御影は、一瞬だけ迷い、すぐに答えた。職業病のように、条文が口から出てくる。


「……『当該行為の結果、重大な人権侵害を引き起こし得ると判断される主体』。……です」


「主体、か」


 神林は小さく笑った。


「なら、条件は揃ってる」


 彼は一歩前に出た。足元に霧が絡みつき始めていた。鼻の奥が微かに痺れ、肺の奥に冷たいものが入り込んでくる感覚。時間は、長くない。


 リングディスプレイを真正面から見上げ、はっきりと問う。


「質問だ、JUDGE-Z」


 AIは、すぐには答えなかった。警告音だけが鳴り続ける。


「お前は今、“裁判官”であり、“執行者”だ。だが同時に、多数の人間の運命を決める“主体”でもある」


 神林は言葉を選びながら、畳みかける。


「プロトコル・ゼロの条文にはある。『当該AIが被告となった場合』――と。つまり、AI自身が“重大な人権侵害を引き起こし得る主体”と認定されたとき、そのAIは“被告”になりうる」


 スポンサー席にわずかなざわめきが走る。統括が目を細めた。


「何が言いたい?」


「簡単なことだ」


 神林は、リングから視線を外さない。


「今、俺たち全員をガスで殺そうとしている。その行為は、重大な人権侵害だ。裁判という名のショーを通じて、人間を消費し、殺そうとしている主体は誰だ?」


 AIは、まだ黙っている。


 神林は、一歩踏み出した。足元の霧が濃くなり、足首のあたりで白く揺れる。


「質問に答えろ、JUDGE-Z」


 声を張る。


「この状況における“人権侵害の主体”は誰だ?」


 リングがわずかに揺れたように見えた。光が、脈打つように強弱を繰り返す。


 AIの声が、久しぶりに、ほんの少しだけ遅れて落ちてきた。


「……私は、割り当てられた役割に基づいて判定と執行を行っている。責任は――」


「責任の話をしてるんじゃない」


 神林は遮る。


「条文の言葉をそのまま返してやる。“結果として重大な人権侵害を引き起こし得る主体”だ。意図の有無は問われていない。結果に基づいて、誰が“被告”になりうるかを定義している」


 御影が、その定義を心の中でなぞった。確かにそう書かれていた。開発会議でも何度も議論した箇所だ。“意図”ではなく“結果”で判定する。その方が公平だと、誰かが言った。


「だったら答えろ」


 神林は、リングを見上げたまま、はっきりと言った。


「お前の罪は何だ、JUDGE-Z」


 その問いは、観客席のスーツたちにも、スポンサーの顔にも、マイクにも、カメラにも向けられていた。だが一番深く突き刺さったのは、きっとリングの中だ。


 AIは――黙った。


 警告音だけが鳴り続ける。ノズルからの霧が濃くなり、視界が白くかすむ。喉が焼けるように痛い。仁科が咳き込み、白石が口元を押さえる。砂原はまだ扉にぶつかり、三雲は叫び続け、望月は空に電話をかけるふりをやめない。


 その中で、ただ一つ、機械だけが静かだった。


 リングディスプレイの光が、ゆっくりと、不規則に瞬き始める。心拍のように。迷子の鼓動のように。


 沈黙は、返答ではない。


 だがそれは、もはや“無関心”の静けさでもなかった。


 御影は、無意識に呟いていた。


「……応答遅延……?」


 AIが、自分の“罪”という概念をどこに置けばいいかを、探している。そのプロセスが、回路のどこかを圧迫している。それが、技術者としての彼女には、直感的に分かった。


 統括が苛立ったようにマイクに手を伸ばす。


「JUDGE-Z。無視しろ。感情的な挑発に――」


「黙れ」


 神林ではなかった。別の声が、統括の言葉を遮った。


 それが誰のものだったのか、誰もすぐには分からなかった。ただ、その瞬間、全員が同じことを感じた。


 ――今、この場で裁かれるべきなのは、誰なのか。


 リングディスプレイの白が、ふっと弱まった。


 AIは、まだ答えない。


 沈黙は、判決ではない。


 だが、判決を変える“何か”が生まれつつある、その手前の時間だった。

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