第1話 ドSでドクズな悪の大魔導師に転生した
俺が死んだのは、おそらく、過労のせいだった。
総合病院で理学療法士をしていた俺――峰岸修司は、その日も終電間際まで病院に残っていた。
救急から上がってきた患者の評価、整形外科の術後リハビリ、歩行訓練、急に休んだ同僚の穴埋めまで重なって、ここ数日はまともに眠った覚えがない。
何年経っても仕事量は多くなるばかりで、稼ぎもろくに増えていない。
それでも仕事を嫌いにはなれなかった。
昨日まで立てなかった患者が平行棒の中で一歩ずつ進めるようになったり、人工関節の手術後に「自分でトイレまで行けた」と笑ってくれたりした時なんかは、疲れなんて吹き飛ぶくらい嬉しかった。
だから余計に、自分の疲労だけは後回しにした。
患者さんには「無理をすると回復が遅れますよ」「睡眠も治療のうちです」と何度も言っていたくせに、自分だけは栄養ドリンクとコンビニのおにぎりで何とかなると思っていた。
横断歩道の信号は、青に見えた。
いや、見えていたつもりだった。
眩しいライトと、腹の底まで震わせるクラクションが聞こえた時にはもう遅く、頭では避けなきゃと分かっているのに、疲れ切った身体は一歩も動いてくれなかった。
「……明日の午前、あの人の歩行訓練があるのに――」
最後にそんなことを思って、世界が真っ暗になった。
*
次に目を開けた時、俺はふかふかの布団が敷かれた天蓋付きのベッドの上にいた。
見慣れない黒い天井。深紅のカーテン。壁際に並ぶ不気味な装飾品。
窓の外には、赤黒い空と、巨大な獣の肋骨みたいな塔が見えている。
まるでファンタジーゲームなんかに出てくる魔王城みたいだ。
身体を起こそうとした瞬間、ベッド脇から声がかかった。
「お目覚めになりましたか、エルブルス様」
振り向くと、そこには執事らしき男が立っていた。
そして、その手には鞭が握られていた。
「本日はこちらをお使いになりますか?」
「……何これ?」
思わず聞き返すと、目の前に立つ執事らしき男が、どうしてそんな当然のことを尋ねるのかと言いたげに細い首を傾けた。
「鞭でございます」
「それは見れば分かる。何に使うの?」
「…………」
「…………」
何だ、この空気。
しかも執事と呼ぶには妙にでかい。
二メートルは軽く超えているうえ、燕尾服の襟元から覗く首は人間より一節多い気がするし、笑うと口角が頬の真ん中あたりまで裂けている。
俺は反射的に一歩下がり、そこでようやく自分の手が自分のものではないことに気づいた。
白い。指が長い。爪の根元だけが黒い。
慌てて壁際の大鏡を見ると、そこには二十代半ばくらいの、黒髪に灰銀色の目をした見知らぬ男が立っていた。
いや。
見知らぬ、というほどでもなかったわ。
「……エルブルス・バティーノ?」
名前を口にした瞬間、頭の奥で何かが繋がった。
昔、少しだけ遊んだダークファンタジー系のゲームに、こんな名前の敵がいた。
確か魔王軍の中ボスで、妙に顔だけはいい大魔導師だったはずだ。
ただし俺はエアプ勢だった。
一応遊んだことはあるが、攻略サイトを読み込んだわけでも設定資料集を買ったわけでもなく、途中で別のゲームに移ったのでストーリーも細部もほとんど覚えていない。
「……俺、いつのまにかエルブルスになってたの?」
「はい。エルブルス様はエルブルス様でございますが」
「そうだよな、すまん。聞き方が悪かった」
「す、すまん……!? エルブルス様がお謝りになるとは……一体……」
頭が痛くなってきた。
「あ、ああ。つまらんって言ったんだ。お前の反応がな」
「なるほど! さすがはエルブルス様! 今日もモラハラがお上手です!」
なんでモラハラされて喜ぶんだ。
さすがは魔王軍主従。わけわからねぇ。ますます頭が痛くなってきた。
「それで、その鞭は?」
「本日の【欠陥品】がお好みに合わなかった際に、お楽しみいただくためのものですが」
「欠陥品?」
また知らない単語が出た。
俺が眉をひそめると、執事はますます不思議そうな顔をした。
「本日は王都の取引業者が、新しい奴隷をお持ちになる日でございます。エルブルス様は身体の欠けた女、壊れた女、呪われた女などを特にお好みですので」
「…………」
待て。
エルブルスって原作で何してたんだ。
なにこれ、裏設定? こんな展開あったっけ?
エアプだから知らん。
「もう来てる?」
「地下の取引室でお待ちです」
「……行こう」
「鞭は?」
「いらない」
「では鉤爪を?」
「何でだよ!!?」
執事が本気で困った顔をしたので、俺はそれ以上説明するのを諦めた。
急に性格が変わったと騒がれても面倒だ。
魔王軍なんて連中が魂だの記憶だのを覗ける可能性だってある。
今はなるべく目立たず、この世界の状況を把握する方が先だった。
それに、せっかく手に入れた大魔導師の力だ。
面倒な仕事や命令に追われず、好きな時に寝て、好きな時に研究して、誰にも邪魔されず気ままに暮らしたい。
そのためにはまず、俺の代わりに魔王様に勝手に貢献する働きをしてくれるような、役に立つ存在がいればありがたいと思った。
【欠陥品】とやらを修理したりなおしたりすれば、なにかと便利には、なるかもしれない――。
*
地下の取引室には、太った商人と、その横に置かれた大きな木箱があった。
「お待ちしておりました、エルブルス様。本日も素晴らしい【欠陥品】を仕入れてございます」
「見せてくれ」
「もちろんでございますとも」
商人が嬉しそうに木箱の扉を開けた。
中にいたのは、金髪の少女だった。
十代後半くらいだろうか。
汚れた白い服を着せられ、両手には枷、首には黒い首輪。
そして、両脚が膝より下がなかった。
箱の奥に背中を押しつけたまま、少女は俺を見た。
強い目だった。
怯えている。
それでも絶対に泣くものかと、奥歯を噛み締めているような目だった。
「元は王国聖騎士団の者でして、名をデナと申します。戦場ではなかなか名の通った女だったようですが、ご覧の通り両脚を失っておりますので、今や剣も振れぬ粗大ゴミでございます」
商人が笑う。
俺は笑えなかった。
「待て、これが【欠陥品】?」
本当に普通に人間じゃないか。
それに職業柄、まず少女の身体に目がいってしまった。
脚を失った時期はかなり前のようだった。
大腿部の筋肉だけでなく体幹も落ちている。
肩周りは妙に発達しているから、腕だけで身体を移動させてきたのだろう。
骨盤も傾き、長期間まともな寝具を使っていないのか、腰の皮膚には圧迫痕がある。
仮に脚だけ生やせたとしても、そのまま立たせれば転ぶ。
荷重感覚も歩行のリズムも、もう一度作り直す必要がある。
そんなことを考えていると、不意に頭の中へゲームの操作感覚みたいなものが浮かんだ。
「……ステータスオープン?」
そういえば、あったな。そんなシステム。
何となく呟く。
少女の横に、半透明の文字列が現れた。
【デナ】
【職業:聖騎士】
【剣術:SS】
【聖属性適性:SS】
【防御:SS】
【統率:S】
【潜在能力:SSS】
【状態:両脚欠損/栄養失調/魔力衰弱】
「…………は?」
思わず声が出た。
商人が揉み手をする。
「やはりお気に召しましたか? 両脚がないぶん、お値段も格安となっております。しっかし、もちろん肝心な下半身の機能そのものは――」
「いや、その情報はいらない」
「は?」
剣術SS。
潜在能力SSS。
これを欠陥品扱い?
脚がないだけで?
「……これのどこが欠陥品なんだ?」
商人がぽかんとした。
デナまで目を見開いている。
俺は二人の反応を無視し、商人へ尋ねた。
「いくら?」
「は……?」
「買うって言ってるんだ。値段を言え」
両脚を失った元聖騎士。
しかもステータスはどう見ても一級品。
そしてこの身体の持ち主、エルブルス・バティーノは大魔導師。
破壊だけでなくおそらく治療する術だってあるはずだ。
だったら試す価値はある。
壊れているなら、治せばいいんだ。
――だが、この時の俺はまだ知らなかった。
その一言が、デナにとっては人生を丸ごとひっくり返す言葉になることを。
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