第6話 泥濘の逃走と視られる実 ①
この回は2話完結のエピソードです。
「うわあああああっ!!」
枝をかき分けながら、実は森の中を必死に駆けていた。人工的に整備されたはずの訓練用森林は、容赦なく足を取ってくる。湿った土が跳ね、落ち葉が滑り、地面から突き出た木の根が何度もつま先を引っかける。
肺が焼ける。視界が揺れる。呼吸が乱れ、喉の奥で空気が擦れる。それでも足は止まらない。腕を大きく振り、枝を払いのけながら前へ出る。
「ちょ、ちょっと待ってくださいってば!!」
実は振り返る。目を見開き、肩を跳ねさせて。
──ドスンッ、ドスンッ
地面を踏み抜くような重い足音が、一定のリズムで迫る。振動が足裏から伝わり、小石が跳ねる。
「そんなに逃げ回ってもね〜、おばちゃんは倒せないわよ〜」
低く、どこか楽しげな声とともに現れたのは、井川百合子だった。岩のように隆起した筋肉が、迷彩柄の訓練服の下で盛り上がっている。肩幅は常人の倍はありそうで、腕は丸太のように太い。でかい身体が一歩踏み出すたび、地面が沈んでいた。
井川はすぐそばの大木に目を向けた。
次の瞬間、拳が振り抜かれる。
衝撃音が森に響いた。
幹に亀裂が走り、巨木が傾く。
バキバキッと鳴る音とともに、倒れた木が隣の木を巻き込む。
隣へ、さらにその隣へ。
ドミノのように連鎖し、次々と倒木が生まれる。
迫る。
実の背後へと。
「ちょ、ほんとにやばいですってこれえっ!!」
実は歯を食いしばり、速度を上げた。枝が頬を掠め、息が荒くなる。背後で倒木が地面を打ち、衝撃が背中を叩いた。
(こんなにしんどいなんてっ)
足がもつれそうになる。それでも前へ出す。出し続ける。
◇
一週間前。
東京現災署の会議室は、無機質な白い壁と大型モニターに囲まれていた。机の上には資料端末が並び、天井の蛍光灯が均一な光を落としている。
「というわけで〜」
軽い声を響かせながら、護は椅子にもたれた。
「実くんには、特別災害即応訓練を受けてもらいま〜す」
護は口角を上げたまま、椅子にもたれて告げた。
「……特別災害即応訓練?」
「そ。ここに正式に入るためのテスト、みたいなもんだね〜」
「テスト、ですか?」
実が首を傾けると、護は指を一本立て、空中で小さく円を描いた。
「現災と戦うにはさ、自分のフィクションをちゃんと理解するのが重要なんだよね〜。何ができて、何ができないのかをキチンとわかっとかないとさ」
言いながら、指先をぱたぱたと揺らす。
「その為に今から一週間。ミッチリギューッとお勉強アーンド実戦訓練をしてもらうから、覚悟してね〜」
「え、ええ……」
「まあ安心して。死なない範囲でやるから」
「え、それ安心要素あります!?」
実の声が裏返る。思わず身を乗り出し、両手が机に触れた。
「大丈夫大丈夫、死なないようにコレ用意してるから」
護は胸元のポケットに手を差し入れる。指先がごそごそと動き、布越しに硬い輪郭が浮かんだ。
「テレテテッテレ〜。メディカルチェッカ〜」
青狸じみた調子で言いながら、机の上にそれを置いた。金属光沢の縁を持つ、ゴツくて太い、腕時計型の装置だった。
実は瞬きを忘れたまま、それを見つめる。口がわずかに引きつった。
「自分の生命活動の異常値を適宜、報告してくれる優れものなんだ〜」
「へ、へえ……」
実は手を伸ばしてゆっくりと装置の縁に触れる。冷たい金属を確かめるように、両手で持ち上げた。
「百分率で表示されてね。100%になったら君、死ぬから」
「え、ええ!?」
装置を持ったまま、顔だけが勢いよく逸れる。視線をまっすぐ護に向いた。
「70%超えたら、素直にリタイアしてね」
実は手の中の装置に視線を落とす。
親指で側面をなぞり、表示窓を覗き込んだ。数字のない黒い画面に、自分の顔が小さく映る。
喉が一度だけ鳴った。指先の力が抜け、装置が少しだけ沈んだ。
(僕は今から何をやらされるんだ……)
◇
翌日。
現災署の一室は、会議室にも似た造りだった。壁際には機材と端末が並び、中央には長机と椅子が整然と配置されていた。無機質で、音が吸い込まれるような空間。
実はその椅子の一つに腰かけていた。背筋を伸ばしてみたり、足を組み直してみたり、また戻したりと落ち着かない。指先で机の縁をなぞり、視線を部屋の隅へ滑らせる。
「……あ、来てたんだ」
声がして、実は顔を上げた。視線が扉へと向く。
そこに立っていたのは、白髪のショートカットの少女だった。童顔だが、目元は涼しい。背筋がまっすぐ伸び、無駄な動きがない。
「私、黒羽ツグミ。君とは同い年だよ、これからよろしくね」
「あ、田中実です。よろしくお願いします」
実は慌てて立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「そんなに緊張しなくて大丈夫」
「まずは座学からだから」
ツグミはわずかに口元を緩めた。白い睫毛がゆるく伏せられる。
「あ、そうなんですね」
実の肩が安心したように落ちた。
ツグミはパソコンの前に立ち、マウスを滑らせる。カチ、と軽いクリック音が室内に響く。モニターの光が白い横顔を照らした。
「まず君にはね、狙った現想を起こす訓練から始めてもらう」
「……狙った、現想?」
実は椅子に腰を下ろす。背もたれに触れたまま動きが止まり、まばたきが一度遅れる。
「そ。私たちにはそれぞれ、自分と繋がりが近い現想があるの」
──カチカチッ
プロジェクターが起動し、白い壁にいくつものシルエットが映し出された。牙を剥いた影、長い髪を垂らす影、異形の輪郭。
ツグミはその画面を見ながら続ける。
「例えば狩野だったら狼男」
「私だったら、雪女」
「私たちは普段、それをFICTIONからこっちに取り出して使ってる」
ツグミの視線がスクリーンから外れ、ゆっくりと実へ向く。
「でもね。ちゃんと訓練してないと、取り出す時に“FICTIONが揺れる”危険性があるの」
その言葉に、実の喉がひくりと鳴る。
(揺れる……)
『……昔そのFICTIONにある人間が“落ちた”んだ。その衝撃で、FICTION全体が大きく揺れちゃったんだよね』
護の声が実の脳裏をよぎる。
ツグミはそのまま言葉を続けた。
「もし揺れてしまったら、取り出すつもりのなかったものまで現想して、逆に被害が増える」
「だから重要なのは、自分と繋がりの強いフィクションのイメージをはっきりさせること」
「FICTIONの中で、他のものに衝撃を与えないようにする」
その言葉を聞いた瞬間、実の指先が強張った。
『お前、よくしらねえんなら、もうその力使うな。色々と危ねえから』
狩野の低い声が、はっきりと蘇る。
(だから、狩野さんと護さんは使うなっていってたんだ……)
納得したように首が上下に動いた。
スクリーンの光を背にしたまま、ツグミは実の様子を一瞬だけ確かめる。白い睫毛が伏せられ、ほんのわずかに息を吐いた。
「ま、最初から完璧じゃなくていいよ。一回、気負わずやってみて」
「何かあった時対処できるよう、私がいるんだから」
その言葉を聞いて実の肩が、ほんのわずかに落ちた。張りつめていた息がほどけ、口元にかすかな力が戻った。
「……わかりました」
ふぅと一呼吸おく。
そのまま実は机の上へ手を置いた。指先が木目へと触れている。
実は一度、ゆっくりと目を閉じる。
肩が静かに上下し、呼吸が整っていく。握りしめかけた指の力を抜き、掌をそっと広げた。
瞼が上がる。
その瞬間、机の縁がゆるやかに歪んだ。
角が丸みを帯び、波打つように形が変わる。軋む音も、衝撃もない。
「え……」
前からツグミのが声が落ちた。
その反応に、実の喉がひくりと鳴った。
恐る恐る顔を上げる。
「どうでしょうか……?」
かすれた声で問いかける。
ツグミはすぐには答えない。
歪んだ机と実の手元を見比べ、ほんのわずかに息を止めていた。
少し間をおいた後口を開いた。
「……すごいね」
張りつめていた空気が、スッとゆるむ。
ツグミは一度視線を机に落とし、そこからゆっくりと実を見た。
「ここまでできるってことは、自分の能力が何かもう検討はついてるってこと?」
「いやぁ……」
実の口元だけを曖昧に動かし、やがて後頭部に手をやった。
「正直、なんの力なのかよくわかってなくて……」
「……え?」
ツグミの目が見開かれる。
ツグミは視線を落とし、片手を顎に当てた。
指先で顎先を軽く押さえたまま、目を細める。体重がわずかに片足へ移っていた。
ツグミの視線が下から上へ、実の輪郭をなぞっている。
実は、しばらく瞬きもせずにツグミを見ていた。
口がわずかに開いたまま、言葉が出てこない。
それから遅れて、口を開いた。
「えーと、とりあえずまずは」
その声に、ツグミのまつ毛が跳ね上がる。
実は椅子に座ったまま、背を伸ばした。
「色々試して、自分の能力を知ることですよね」
曖昧に笑って、身を少しだけ前に寄せる。
「これからよろしくお願いします!!」
教室に、はっきりとした声が響かせた。
「……え、ええ。こちらこそよろしくね」
ツグミは少し遅れて、微笑みを返した。
◇
現在。
――現災署・第2訓練場。
人工的に整備された森。規則正しく並ぶ木々。踏み固められた土。転がる石。
実は息を切らしながら駆け続ける。頬を汗が伝い、視線だけがせわしなく動いた。
木。
土。
石。
眉間に皺が寄る。奥歯を噛みしめたまま、唇の端が震える。
(街中と違って、形を変えづらい物しかない……)
呼吸が短く刻まれる。吸っているのに、肺の奥まで届かない。
「……このままじゃ、ほんとに死んじゃうかも」
喉の奥に引っかかった弱音が、かすれて零れた。
『異常値3%マダマダヨユー、アマエンナ』
間髪入れず、やけに明るい電子音声が下から響く。
「……」
実はゆっくりと視線だけを落とし、歪ませた表情で、手首のメディカルチェッカーを睨んだ。
表示は何事もない顔で、規則正しく光っている。
──ドスッ、ドスッ
背後で地面が震えた。
実の肩がびくりと跳ねる。
小石が弾かれ、ふくらはぎに当たる。
「も〜、そんなに追いかけっこがしたいのかしら?」
背後、低く弾む声。
実は振り返りかけて、やめる。
視界の端を、巨大な影が横切り、喉がひくりと鳴る。
「体も暖まってきたしっおばちゃん、そろそろ本気出しちゃおうかな〜」
「え、いや……勘弁してくださ……」
実が言い終わらないうちに、
「問答無用!!」
次の瞬間、足元の土が爆ぜた。
舞い上がった土が頬を打った。
「うわあああああっ!!」
顔を引きつらせる。
腕で頭を庇う。
そのまま前へ逃げるように走る。
背後で、井川百合子が楽しそうに鼻息を鳴らしている。
井川が踏み込むたび地面が沈む。振るわれた腕が空気を裂き、風圧が背中を叩いてくる。
「ほらほら〜!!逃げてるだけじゃ、いつまでも終わらないわよ〜!!」
◇
現災署の廊下には、白い蛍光灯の光が静かに落ちていた。
磨かれた床に淡く反射し、遠くの足音が小さく響いては消える。
その廊下を、ツグミがトコトコと歩いていた。
歩幅は小さく、腕は体の横でゆるく揺れていた。
視線は前に向いているが、足取りはどこか一定ではない。
途中でほんの少し歩調が変わり、また元へと戻る。
(なんなの、あれ……)
天井の照明がツグミの視界の端を流れていく。
(飛び込み競技の完璧な着水みたいな、
あっちに何の衝撃も伝わってなかった……)
ツグミは歩きながら、首を傾けた。
(……もしかして彼が、あまりにも“普通”だから?)
靴底が床を軽く鳴らした。
(架空の力なんて、普通とは真逆。
だからこそ彼は、繋がりの強いものだけを、綺麗に取り出せているのかもしれない)
気づけば、扉の前まで来ていた。
ツグミは取っ手に手をかけ、そのまま、押し開く。
中では椅子にもたれて大型モニターを見る狩野の姿があった。
大型モニターいっぱいに、森を駆け回る実の姿が映っている。
その後方で、井川が木々をなぎ倒しながら追っていた。
「……これ、訓練なんだよね?」
横目に見たツグミの声が、わずかに引きつる。
「一応な」
狩野は前から短い返事を飛ばす。
「……結局さ。彼って、どんな子なの?」
ツグミはモニターを見たまま、問いを零した。
「あ?どんなってなんだよ?」
「うーん。性格とか、考え方とか。
少し喋ったんだけどよくわからなくって」
狩野はすぐには答えない。モニターの中で転びかける実を、じっと視ている。
「……おーん」
狩野が顎に手を当てた。視線は画面のまま、眉を寄せる。
「後ろ向きなやつ」
「……ふーん」
ツグミは軽く肩をすくめ、視線をモニターの端にちらりと移す。そのまま、淡々と画面を眺めた。
狩野は視線はモニターから動かない。瞬きひとつせず、そのまま続けた。
「二回後ろ向きになって」
「結果的に、前向きになってるみたいなやつ」
ツグミはゆっくりと顔を横に向け、狩野をちらりと見た。
口の端を引き、半開きの口から小さく息を漏らす。
「……え、なにそれ」
──ドッドッ
モニターでは今も、重みを殺しきれない足音が、実を追っていた。




