第53話 日常の守人と非日常の守人
秋の空は高く澄み、校舎の窓という窓には色とりどりの装飾が施されていた。
中庭には模擬店のテントが並び、焼きそばの匂いと甘いクレープの香りが入り混じる。
スピーカーからは軽音部の演奏が流れ、生徒たちの笑い声が絶え間なく重なっていた。
そんな喧騒の中を、ツグミは一人、落ち着かない足取りで歩いていた。
(2-B……2-B……)
渡り廊下を抜け、階段を上がり、廊下の掲示を確認しながら進む。
(2-B……)
やがて目的の教室の前で立ち止まる。
「ここ……?」
教室の入り口には大きな看板。
―女装メイド喫茶。
瞬間、思考が止まる。
その看板の前に、筋骨隆々の体育会系男子が、フリルたっぷりのメイド服姿で仁王立ちしていた。
「と、尖ってる……」
ツグミは若干引き気味で、唖然とする。
すると、教室の中から笑い声とともに二人の人影が現れた。
「あ、ツグミちゃんも来たんだ?」
先に気づいたのは護だった。片手を軽く振りながら、にこにこと歩み寄ってくる。
「え、護さん!?なんでここに?」
護を見て、ツグミは目を丸くする。
護はメイド喫茶の看板を一瞥し、どこか面白がるように口角を上げた。
「ちょっと実くんのを様子を見にね〜」「ついでに文化祭デートって感じ」
軽い調子でそう言って、肩をすくめる。
「ついで……」
牧野が横目で護を見て、わずかに呆れた表情を浮かべる。
そのやり取りにツグミは状況が追いつかず、視線を二人の間で泳がせた。
「そうだ、実くんめっちゃ可愛かったよ」
牧野が思い出したように身を乗り出す。
「ええ!?実くんも女装してるんですか?」
思わず声が上ずる。
「うん、めっちゃノリノリでやってた」
護がくすりと笑う。
「へ、へぇ〜」
頭の中でメイド姿の実を想像しようとして、うまく形にならない。
鼓動だけが無駄に早くなる。
廊下の向こうからは別のクラスの呼び込みの声。人の流れが絶えず、三人の周囲だけが少しだけ立ち止まっているようだった。
「じゃあ、私達はこの辺で。ツグミちゃんも楽しんでね」
牧野がひらりと手を振る。
「は、はい」
護と牧野は自然に並んで歩き出し、人混みの中へと溶けていった。
取り残されたツグミだけが、2-Bの看板をもう一度見上げる。
ツグミは意を決して、2-Bの中をのぞく。
教室の中は、カーテンで光を柔らかく落とし、テーブルにはレースのクロス。
手作り感満載のメニュー表。鈴の音と共に「おかえりなさいませ」と飛び交う声。
その中で――。
見覚えのある童顔の少年が、ツグミを見つけた瞬間、ぱっと表情を明るくした。
「あ、ツグミさん!!きてくれたんですね」
フリルのヘッドドレス。身体に合ったメイド服。
包帯の巻かれた手で、嬉しそうにこちらへ手を振る。
教室の喧騒の中にいても、不思議とそこだけ光が集まっているみたいだった。
同じ衣装のはずなのに、どう見ても別物に見える。
「がっ!?」
喉の奥で変な音が鳴る。
ツグミは踵を返し、ほとんど逃げるように廊下へ出た。
背後から「おかえりなさいませ〜」という明るい声が追いかけてくる。
「……え」
教室の中に取り残された実が、手を振ったままぽかんと固まる。
(ななななな、なんなのあれ!?1人だけクオリティが違いすぎるでしょ!!)
廊下の角まで来て、ようやく足を止める。
壁に背を預け、どくどくと暴れる心臓を押さえ込む。
耳の奥まで熱く、さっき見たフリルと笑顔が何度も脳裏に再生される。
深呼吸をしようとしても、うまく息が整わなかった
そのとき、教室の扉が勢いよく開き、女子高生が三人、弾むように飛び出してきた。
「実くん、マジヤバくなかった!?」
「私……なんか目覚めちゃったかも……」
「咲、元々実くん可愛いっていってたもんね〜」
顔を寄せ合い、肩を叩き合いながら大騒ぎだ。
ひとりは頬を赤らめ、ひとりはスマホの画面を見せびらかし、もうひとりは今にももう一度教室へ戻りそうな勢いで振り返る。
「次シフト何時だっけ!?」「あとでまた行こ!!」と声を弾ませながら、
きゃあきゃあと盛り上がりつつ、三人は廊下の向こうへ消えていった。
残された廊下に、甘ったるい余韻だけが漂う。
(実くん、やっぱ学校でも人気なのかな……)
ツグミの胸の奥が、きゅっと細く締まる。
さっきまでの動悸とは違う。
熱でも衝撃でもない、静かで逃げ場のない感情。
知らない場所で、知らない誰かに向けて笑う実の姿を想像してしまい、
視線がわずかに揺れた。
一瞬だけ、視線が足元に落ちる。
唇がわずかに結ばれ、寂しさが影を落とす。
(い、いかないと……)
ぐっと拳を握る。
ツグミは顔を上げると、小さく息を吸い込み、
再び2-Bの教室へと足を踏み入れた。
「み、みのるくん?急にでてってごめ──」
しかし、そこに立っていたのは、さきほどとは別のメイド姿の少年だった。
同じフリルの衣装のはずなのに、どこか布に着られている。
肩幅とスカートのバランスが微妙に噛み合っていない。
「ツグミさん!!来てたんすね!!」
やたら元気な声。
「さ、佐倉くん?」
ツグミは目を瞬かせる。
ついさっきまでそこにいたはずの姿を探して、教室の奥へと視線を走らせた。
テーブルの間、カウンターの向こう、カーテンの隙間。
「実くんは?」
「実なら俺と交代で休憩いかせましたよ!!」
「あ……そうなんだ……」
胸の奥で何かがすっと落ちる。
自分でも隠す暇もなく、肩が目に見えて下がった。
さっきまでの覚悟が、わずかに空回りする。
(……あれ?これもしかして……)
佐倉は、あからさまに落ちたツグミの肩を見て、目を細める。
視線の向き、声のトーン、分かりやすい反応。
「……ツグミさん実のこと好きなんすか?」
「ええええ!?」
ツグミが勢いよく顔を上げる。
椅子にぶつかりそうになるほどの反応だった。
「あぁ……やっぱそうなんすねぇ……」
佐倉は大げさに天井を仰ぎ、そのままガックシとしゃがみ込む。
「いやちがうよ!?私はそんなんじゃ……」
ツグミは顔を赤くしながら、両手をぶんぶん振る。
否定しているはずなのに、動揺が隠せていない。
(まぁ、実に惚れるのは仕方ねぇか……)
しゃがんだまま、佐倉はちらりとツグミを見る。
ふと、脳裏に浮かぶのは、包帯だらけの実の姿。
何も言わずに笑っていた横顔。
軽口の裏で、ほんの少しだけ真面目な色が宿る。
「ツグミさん」
佐倉はゆっくりと立ち上がった。
さっきまでの軽い空気を引っ込め、まっすぐにツグミへ向き直る。
教室のざわめきが、少し遠くなる。
「え、な、なに?」
ツグミは戸惑いながら見返す。
「俺は……正直現災署ってバイトが、どういうもんなのかよくは知らねえっす」
いつもの勢いはない。
落ち着いた、穏やかな声だった。
「え、うん」
ツグミの表情も自然と引き締まる。
「でも、実が大変な仕事だってことはなんとなくわかります」
「仕事の過程で、実の家族が死んだってことも」
一瞬、言葉を選ぶように視線を落とす。
「それでも今実は今日学校にきて、普通の日常で笑ってくれてたんです」
「っ、うん」
ツグミの胸に浮かんだのは、今日の実の笑顔だった。
何事もなかったかのように明るく手を振る姿。
さっきまで自分が動揺して逃げ出した、あの無邪気な表情。
その裏にあるものを、ツグミは知っている。
息がわずかに詰まる。
「俺にはあいつの普通の日常を支えることしかできない」
佐倉はまっすぐ言い切る。
「だから、ツグミさん達にはあいつの非日常を支えてやってほしいです」
「佐倉くん……」
その言葉は責めるでもなく、押しつけるでもなく、
ただ、託すようだった。
「お願いします」
深く、丁寧に頭を下げる。
クラスメイトのざわめきの中、その姿だけが静かに浮き上がる。
ツグミはしばらく何も言えなかった。
自分の胸に手を当てる。
顔を上げる。
迷いは、もうなかった。
「……わかった。約束する」
ツグミはまっすぐ佐倉を見返したまま、はっきりと言い切る。
迷いのない声だった。
「あざす」
佐倉は顔を上げ、いつもの人懐っこい笑顔に戻る。
さっきまでの真面目な空気を、自分で軽くほどくように。
そのとき。
「ツグミさん、ごめんなさい!!待たせちゃいました?」
バックヤードのカーテンが揺れ、制服姿に着替えた実が顔を出す。
メイド服ではなく、学校の制服。
それだけで、さっきまでのざわめきがすっと遠のく。
「え、いや全然!!」
ツグミは反射的に答える。
声が少しだけ弾んでいることに、自分では気づいていない。
「ならよかったです」
実は柔らかく笑う。
さっき教室の入口で見せた眩しさとは違う、落ち着いた笑顔。
「文化祭まわるんですよねっ早くいきましょ!!」
「う、うん」
ツグミはわずかに視線を逸らしながら頷く。
頬の熱はまだ残っているが、足取りはもう逃げていない。
二人は並んで教室を出ていく。
人混みの中へ溶ける直前、実が何か楽しそうに話し、ツグミが小さく笑う。
その背中を、佐倉は腕を組みながら見送った。
(やっぱちょっと杞憂だったかな……)
さっき頭を下げた自分を思い出し、少しだけ苦笑する。
(ツグミさんは今。普通の日常も、支えてくれてるんだから)
実の隣で歩くツグミの横顔は、さっきまでの動揺とは違う。
自然に並び立つ距離感。
――と。
ふと我に返る。
(……いや、まずウチに来てくれよ)
◇
文化祭の廊下は、色とりどりの装飾と賑わいで満ちていた。
1-Aの教室前には黒い布で覆われたお化け屋敷があり、椅子に座った少女が笑顔で人を見ていた。
「あっ実先輩っ」
立ち上がったひよりは、通りかかる実とツグミに視線を向けた。
「ひよりさんっ」
実は口角を上げ、少し照れくさそうに笑った。
「久しぶりですね。良かったらウチのクラス、見ていってくださいよ──」
ひよりはそう微笑むと、隣のツグミへ視線を移し、少し戸惑いの色を浮かべる。
「え、っと、彼女さんですか……?」
恐る恐る実に尋ねるひより。
「ううん、違うよ。バイトでお世話になってる先輩なんだ」
実は気にせず答え、視線は看板に向いたまま話す。
「あ、そうなんですね。ごめんなさい、勘違いして」
ひよりはほっと息をつき、頭を軽く下げた。
「え、いや、大丈夫だよ」
ツグミは慌てて手を振る。その様子を見たひよりは、少しだけ肩を落とした。
「僕、お化け屋敷って入ったことないかもなぁ。結構怖いですか?」
実は隣の看板を指でなぞりながら尋ねる。
「フフフッ、ウチのクラスは気合い入ってますとだけ言っておきます」
ひよりは含み笑いを浮かべ、先に教室内へ歩き出す。
「うう、ツグミさんは怖いのは……?」
実がチラリと隣を見やると、
「うん。私は平気だよ」
ツグミは肩をすくめる。
「じゃあ、是非是非っ!!」
ひよりの声に導かれ、実が少し躊躇して教室に入っていった。
肩をぎゅっと上げ、視線を床に落としている様子が、目の端に映る。
その横で、ツグミはまるで普段通りのように、足取りも表情も変えずに歩いていく。
ひよりは二人を見送りながら、心の奥で妙な期待と不安が入り混じった感覚を覚えた。
「ひよりー、休憩行っていいよ」
背後から、クラスメイトの声が響く。
ひよりは振り返る。
肩までの茶髪を後ろで軽く束ねた女の子が立っていた。明るいチェックのシャツにジーンズ、手にはスマホを握り、画面に目を落としている。口元には、ほんのり笑みが浮かんでいた。
「うん。ありがと」
ひよりは微笑み、上から羽織っていた仮装を脱いで肩にかけ直す。
(私も先輩と……)
すぐに首を振る。
(いや、無理無理っ誘う勇気あるわけないよ……)
ひよりは深く息を吸い、教室のざわめきと楽しげな声を聞きながら、少し落ち着きを取り戻す。
その瞬間、クラスメイトは画面を見つめたまま、口を開いた。
「そういえばひより、これ見た?なんか今話題になってるやつ」
ひよりは振り返り、目を細めてクラスメイトを見る。
「え?……なんの話?」
クラスメイトがスマホを差し出してくる。
「えっ……」
画面を見た瞬間、ひよりの顔から血の気がすっと引いた。
周囲の声も笑い声も、色も温度も、意識の遠くへ溶けていく。
床も壁も、笑い声も、ひよりの周りからすっと離れ、画面の中だけに意識を奪われた。




