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9. 戦神さまと雷

 嵐は、夜半に来た。


 雨戸が鳴り、風が唸り、遠く近く、空が轟く。眠れない夜は茶に限るので、私は蝋燭を持って居間へ下りることにする。廊下の窓がまたたくたび、稲光が石壁を白く洗う。


 実家では、嵐は戦である。雨脚が強まるたび天井の雫の数が増え、桶が足りなくなり、帳簿をどこへ逃がすかから考えた。この屋敷の嵐は、ただの嵐である。屋根は鳴らず、雫は落ちず、恐ろしいものが何もない。……そのはずなのに眠れないのだから、妙なものだ。


 居間には、先客がいた。


 旦那様が暖炉の前に、大きな体を据えている。……いや、据えているというより、置き場に困っている風である。本を持っているのに、頁が進んでいない。座り直す回数が、多い。暖炉の薪は、いつもより多く組まれていた。空の音を、火の音で薄める算段らしい。


 空が白く光り、一拍おいて、轟いた。


 肩が、跳ねる。


 あの、千人を退けた(ということになっている)大きな肩が、雷鳴のたびに小さく跳ねるのである。私は見なかったことにして、蝋燭を三本に増やし、砂糖を多めに入れた茶を淹れた。甘い匂いが、雨の音の中に立つ。


「ご一緒しても、よろしくて?」


「……うむ」


 しばらく、二人で火を見ていた。雷が鳴る。肩が跳ねる。茶が減る。私は何も言わず、注ぎ足す。三度目の轟音のあと、彼のほうから、ぽつりと落ちた。


「……音が、だめでの」


「音、でございますか?」


「若い時分、隣の天幕に雷が落ちた。以来、光は平気だが、音がいかん。……体が勝手に跳ねる。三十年、直らなんだ」


 問い詰めもせず、憐れみもせず、私はただ茶を注ぎ足した。この打ち明け話がどれほど値の付かない品か、受け取り手には分かっている。戦神は、雷の音が苦手。吟遊詩人が聞いたら泣いて欲しがる新事実である。……渡さないけれど。


 直らなんだ、と、この人は恥じるように言う。けれど、直らないものを抱えたまま三十年、峠を越え、橋を守り、兵を連れて帰った人がいるのなら、それは直った人より、よほど強い――と、私は思うのである。……なんて説教くさいことは、言わない。言う代わりに、次の一杯を濃くする。


「歌には、『雷鳴の中の進軍』というのがございましたわね」


「……あの晩の進軍は、わしが命じたのではない。雷で馬繋ぎの柵が壊れて、馬が散ったのだ」


「まあ。では、旦那様は?」


「馬繋ぎへ走った。……人は雷を知っておる。あれが天の音で、じきにやむことも知っておる。だが馬は知らん。知らんほうが、先だ」


 事も無げに言うけれど、それは雷嫌いの人が、雷の真下へ走ったという話である。


「馬は、鎮まりましたの?」


「……朝までかかった。おかげで、あの晩のことを知るのは、馬どもだけでの」


「あら。では、わたくしは馬並みの扱いですのね」


「…………そうなるか」


 そうなるらしい。馬並み。存外、悪くない格である。あの晩の馬たちと私だけが知っている旦那様が、この世にひとつ増えたわけだ。


 豪雨の闇の中、跳ねる自分の肩を押さえつけて、怯える馬たちの鼻面を撫でて回った男。それが歌になると「雷とともに進む軍神」になるのだから、吟遊詩人の筆は大したものである。目減りして、増えた。もう驚かない。この人の歌は、剥がすたびに、下からもっと良いものが出てくるのである。


「……この話は、歌になっておらん」


 彼が、ばつの悪い声で言う。私は湯気の向こうで、にっこりして差し上げる。


「ようございました。――わたくしだけの、持ち分ですの」


「……持ち分」


「ええ。旦那様の本当のところは、少しずつ、わたくしの持ち分になっておりますのよ。歌より、ずっと利のよろしい財産ですわ」


 彼は妙な顔をして、それから小さく「……言うてしもうたな」と呟いて、咳払いをひとつ。大きな手が伸びて、燭台を一本、黙って私の手元へ寄せる。


 胸の内で、今日の一枚を畳む。戦神さまは、雷がお嫌い。そして雷の夜には、隣の蝋燭を明るくしてくださる。……歌には、どちらも出てこない。


 雷の夜の蝋燭は、彼の側より、私の側が明るいのである。


       ◇


 同じ頃、王都の夜会の片隅では、扇の内側で囁きが回っている。北へ嫁いだ男爵家の娘は、いつ音を上げるか。「三年で逃げるわ」「あら、わたくしは半年と見ましてよ」。扇の外へは決して出ない声で、根も葉もない話に根と葉が生えていく。囁きの熱心なことは、歌い手も顔負けである。下世話は王都に置いて――北の領地の夜は、雷がやめば、静かである。


       ◇


 朝。嵐の後の庭は、洗い立ての匂いがする。


 庭の隅で、従士長と家政婦長が草を抜き始めている。菜園である。豆の支柱が並び、雨上がりの薬草の匂いが立つ。折れた支柱を結び直す従士長の手つきが、いつになく丁寧なのが目についた。


 何のお支度、と言いかけた私に、ヘートヴィヒが少し声を落として教えてくれる。


「もうすぐ……先の奥様の、ご命日でございますので」


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