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10. 三人分のお茶

 その朝の旦那様は、様子がおかしかった。


 朝食の席で、三度も茶を注ぎ足させる。庭に出たのに、鍬を持たずに戻ってくる。廊下で従士長と小声を交わし、私の顔を見ると、不自然なほど普通の顔を作る。


 今日が何の日かは、ヘートヴィヒから聞いて知っている。先の奥様、アンネリーゼ様のお命日である。知らないのは――私が知っていることを、旦那様がご存じない、ということだ。


 家中はといえば、従士長も家政婦長も、板挟みの顔をしている。奥様にお伝えしてしまいました、と閣下へ白状すべきか、黙って成り行きに任せるべきか、そわそわと決めかねている気配である。


 言い出されるのを、待つ手もある。けれど、あの遠慮の砦のことだ。放っておけば「若い人に気を遣わせてはいかん」と、一人で墓前を済ませてしまうに決まっている。


 先に、動くことにする。


 私は昼のうちに菜園へ出て、残っていた草を抜いた。土は昨日の雨を含んで軟らかく、抜くそばから薬草の青い匂いが立つ。この庭は、隅々まで手の入った庭である。十年、素人の手で守られてきた庭。並の通い方では、こうはならない。草を抜く手を止めて、私は少しだけ、土に頭を下げた。お邪魔いたしますね、先の奥様。


 それから台所を借りて湯を沸かし、東屋(あずまや)へ盆を運ぶ。


 茶器は、三つ。


 夕暮れ、菜園を見に来た旦那様が、東屋の前で立ち止まった。石のように、動かない。


「お先に淹れておりますわ」


 私は自分の席から、何でもない声で申し上げた。


「……お連れ様の分も、ご一緒に」


 彼は長いこと、立っていた。怒っているのではない。困っているのでもない。十年ぶりに誰かと分ける命日を、どこから手に取ればよいのか分からない人の顔である。


 やがて大男はのそりと東屋へ入り、真ん中の席を空けたまま、腰を下ろした。三つの湯呑から湯気が三筋、夕方の光の中を昇っていく。


「……聞いておったか?」


「ヘートヴィヒから伺いましたの。それに――家中が、そわそわしておいででしたもの」


「済まん。隠す気では、なかった。ただ――」


「ただ?」


「……若い人に、命日の顔を見せるものではないと、思うての」


 わしのことはよい、の変奏である。この砦は、なかなかに堅い。けれど今日は、攻める日ではない。私は茶をひと口いただいて、菜園へ目をやった。


「よいお庭ですわ。豆と、薬草と、それからお花。……几帳面な方でいらしたのね」


「……几帳面で、口が悪かった」


 初めて、先の奥様の話が動いたのである。


 アンネリーゼ様。この庭を作った人。体が丈夫でなく、庭仕事はもっぱら椅子からの指図で、旦那様が言われるままに耕したのだという。豆の隣に薬草、薬草の隣に花。「食べられて、効いて、綺麗。一列で三役ですのよ」が口癖で、支柱の結び方には流儀があり、彼が結ぶと三度に一度はやり直しを命じられた。そして――歌に、苦労した人。


「歌が増えるたび、わしを叱った。『あなたが黙るから育つのよ』と。……わしが訂正せんのが、気に食わんかったらしい」


「まあ。では、答え合わせをなさっていたのね」


「……答え合わせというか、詰問だの。『橋は何本』『千人はまことか』と、この東屋で、よく」


 この東屋で。


 湯呑の中の自分の顔を、私はしばらく見ていた。妬みは、湧かない。代わりに湧いてきたのは、妙な懐かしさである。会ったこともない先の奥様と、同じ席に座って、同じ男の歌を剥がしている。剥がした下から出てくるものがどれほど良い品か、あの方は、とうにご存じだったのだ。


「では、わたくし、二代目ですのね」


「……口の悪さが、よう似ておる」


「まあ。それは歌に盛って構いませんことよ」


 旦那様が、ふ、と息だけで笑った。それから真ん中の湯呑へ手を伸ばし、少しだけ位置を直す。誰かの前へ、置き直すように。


 三人の茶は、日が落ちるまでゆっくり続いた。庭を作った人の話。支柱の流儀。一列で三役の畑。口の悪い小言の数々。湿った話はひとつもないのに、夕闇の東屋は、妙に満ちていた。


 帰り道である。母屋への小径で、先を行く広い背中が、ふいに立ち止まる。


「――ジルヴィア」


 名を、呼ばれた。


 嫁いで十週。初めてである。呼んだ当人が、いちばん驚いた顔で振り返っている。呼ぶつもりで呼んだのではなく、こぼれたのだ。


「……いや。その」


「はい。何でございましょう?」


 私は澄まして受けた。受けながら、胸の内では、新しい頁が風もないのに一枚、めくれている。名前というものが、こんなに場所を取る品だとは知らなかった。


「……茶を。……うまかった、と」


「明日も、お淹れしますわ」


 砦の石がひとつ、いま、足元で音を立てて落ちた。拾って進呈するのは、野暮というものである。


     ◇


 数日ののち、王都から、和議三十年の式典への招請が届いた。今夏、王都で執り行われる祝典である。


 家中を静かにさせたのは、招きの中身だ。招かれたのは、閣下おひとりではない。夫妻そろって、である。


「……夫婦で、来いと」


 旦那様の眉間に、久々の谷が刻まれた。伝説が、王都に呼ばれている。今度は歌ではなく、生身のほうが。

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