20. 膝と、砦の天守
廊下を走ったのは、嫁いでから初めてである。
音のあと、屋敷が静まり返った。自分の足音がやけに大きいのを聞きながら、私は走る。走りながら、頭の中で最悪の絵が勝手に三枚めくれていく。……三年前のあの朝も、父を見つけたのは、こういう静けさの後だった。
階段の下に、旦那様が座り込んでいる。手燭を落として、拾おうともせずに、右の膝を両手で押さえている。落ちたのは三段。打ったのは腰と肘。血は出ておらず、骨も、たぶん折れていない。
「大事ない」
「大事ですわ」
「膝が、抜けた。……たまにある」
たまにある、とこの人は言う。
驚いたのは、転んだことではない。この人の顔色である。痛みの顔では、ないのだ。もっと別の――見られたくないものを見られた人の顔だった。
従士長と二人がかりで居間まで運び、ヘートヴィヒが湯と布を持ってくる。打ったところに冷たい布を当て、熱い茶を淹れ、暖炉に薪を足す。……悲しみと同じで、痛みにできることも少ない。少ないから、全部やる。
手が震えていることに、湯を注ぎながら気づいた。雷の夜も、式典の広間も、震えたりはしなかったのに。
二人が下がって、暖炉の前に、私たちだけが残った。
◇
薪が、爆ぜる。湯気が、二つの湯呑からまっすぐ立っている。屋敷の外では、雪が音もなく積もっているはずである。
「……あなたに、見せる気は、なかった」
「はい」
「わしは、五十三だ」
「存じておりますわ」
「あと十年もすれば」
――出た。
久しぶりの口癖である。けれど今夜のそれは、いつもの余生の語彙ではなかった。今夜のそれは、この砦のいちばん高いところから降りてきた声である。
「あと十年もすれば、この膝は、階段では済まん」
私は何も言わずに待った。待つのは、この秋にひととおり稽古してある。
やがて、低い声が落ちてきた。
「不敗侯はな。いくさで、一度も負けなんだ」
「……はい」
「看取りで、一度だけ、負けた」
暖炉の火が、白髪交じりの横顔を照らしている。
十二年前。アンネリーゼ様が床につかれた年に、この人は職を退いている。それから二年、看取った。峠の三十年より、その二年のほうが長かったのだそうである。
「退き方は、わしの得手だ。……あれだけは、退き方が分からなんだ。荷を捨てる順も、靴を乾かす順もない。日ごとに減っていくのを、数えて座っておるだけよ」
食えるものが減る。話せる時間が減る。起きていられる刻限が減る。減っていくものを数えるのは退き方ではない、ただの見送りだ、とこの人は言う。
この人は、数える人ではない。薬袋も、盾の外へ出た回数も、数えるようなものではないと言った人である。その人が、二年、数えていたのである。
◇
それから、彼はこちらを見た。まっすぐに。
「あなたは、わしより三十、後から生まれておる」
「はい」
「わしが先に逝く。数えれば、当たり前のことだ。……そのときあなたに、看取りの帳尻を負わせる勘定になる」
大きな手が、膝の上で握られている。
「あれを、若い人にさせるわけにはいかん。だから――心まで払う必要はない、と言うた。手当も、寡婦給も、そのために書いた」
――ああ。
あの条件書の、妙な行間が、いま埋まる。
差し出すものばかり並んで、受け取る欄が一行しかなかった。あれを書いた人は、自分の取り分を諦めていたのではないのだ。逝った後の始末まで、先に済ませておこうとしていた。
この人は十年前から、支度をしていたのである。破格ですわ、と私は言った。破格の中身が、これだったのだ。
湯呑を置いて、両手を膝の上で組む。喉のあたりが熱い。それでも声は、いつもの調子で出てくれた。
「旦那様」
「うむ」
「十年先の怖いことを、今夜のうちに済ませておしまいにならないで」
彼が、目を上げた。
「わたくし、帳場育ちですのよ。……先払いほど、損な取引はございませんの」
「……損」
「ええ」
膝の上で、指先が冷えている。掌が汗ばんでいるのに、指の先だけが冷たい。声が、少し掠れた。掠れたまま、続ける。
「今夜のうちにお済ませになってしまったら――今夜が、なくなりますもの」
薪が、また爆ぜた。火の熱が、頬の片側だけを炙っている。
「看取りの係でしたら、わたくしがいたしますわ。……ですけれど、そのお役目に就くのは、ずっと先にいたしますの。それまではずっと、この暖炉の前の椅子におりますから」
私は、手を伸ばす。
膝の上で握られていた節くれだった手を、両手で取った。私のほうから取ったのは、初めてである。指の関節が太くて、掌が厚くて、思ったよりずっと冷たい手だった。
「独り占めの続きは、生きてらっしゃる間、ずっといたしますの」
◇
長い、長い沈黙が降りた。
それから彼は、取られた手をそのままにして、ぽつりと言う。
「……あの日な」
「はい」
「庭で、あなたが声をかけた日だ。わしを庭の男だと思うて、話しかけたであろう」
「まあ。ご無礼をいたしましたわ」
「無礼ではない」
火の粉が、ひとつ上がる。
「三十年ぶりであった。……わしを、不敗侯としてでなく、庭の男として扱うたのは」
それきり、この人は口を閉じてしまった。
半分だけである。半分だけ白状して、残りは砦の中へ持って帰ってしまった。……よろしいのですわ。残りは、こちらでゆっくり剥がしますもの。この人の目減りは、いつだって、剥がした下から良いものが出てまいりますし。
それに――三十年ぶりの一枚が今夜なら、次の一枚まで三十年も待つ気は、ございませんの。
握った手は、しばらくして、少しだけ温かくなった。指の節に触れているところから、ゆっくりと。
暖炉の火が小さくなっても、私はその手を離さずにいる。離す理由が、どこにも見当たらなかったのである。
◇
同じ頃、王都の司令部では、廊下での立ち話が三日続いている。教練の成果を見せよと言い出したのは司令部のほうで、その中身をまだ誰も決めていない。若い参謀が言い訳を並べ始めたところで、元帥ヴァルデマールが椅子を鳴らして立ち上がった。「わしが行く。話が早い」。外套を掴み、供も付けずに厩へ向かう。北の領地までは、馬車で三日。会議より足の速い男が、この司令部にはまだ一人だけ残っている。
◇
二日後の朝、先触れの早馬が屋敷に届いた。
ヘートヴィヒの顔から、血の気が引いていく。
「奥様。……元帥閣下が、お館へ?」
「そのようですわ」
「お館に、元帥閣下。……奥様、何をお出しすればよろしいの?」




