第33話 男3本
湯は良い。
湯は最高だ。
乾燥地帯の人は風呂文化が未熟なために、死ぬまで一度も風呂に入らないヤツさえ居ると聞いた事がある。
こうして温泉に浸かっていると、何とも勿体無い話だと思う。
この宿には立派な露天風呂があった。
ヒノキ製ではなく、床も湯船も全て無骨な岩で作られているが、それが一層臨場感をあたえてくれる。
視界は広く、手前は大草原、その奥にはアルノー山という名峰を望める。
山の天辺が不自然に欠けているが、オレは何も知らないし、悪さだってしてない。
「どうだトガリ、温泉に浸かった感想は?」
「このような、大きな風呂は、初めてですすす。感激ですすす」
「オッサンはどうよ。アンタも初めてだっけ?」
「うむ。このようなものを経験したことはないが……悪くない」
湯船も存分な広さがあり、男3本が入っても十分にゆとりがある。
肩を寄せ合う形にならなくて良かったと思う。
「なんだかぁ、私はぁ、クラクラしてきましたぁ」
「のぼせてきたんだな。無理せず上がったらどうだ?」
「そうですかぁ? ではぁ、私はこれにて、失礼しまぁす」
トガリが全身を真っ赤にしながら脱衣所へ戻っていった。
オッサンと男2本で向き合う事となる。
向こうはそれを気にしたようではなく、長いヒゲを水面で遊ばせながら浸かっている。
「ところでさ、ひとつ聞いていいか?」
「何だ?」
「トガリだけど、アイツは騎士に向いて無さすぎるぞ。それでも鍛えていくつもりか?」
オレは常々感じていた疑問をぶつけてみた。
アイツは毎日真面目にトレー二ングするのだが、一向に伸びる気配がない。
それどころか、体調次第では、数週間前の水準まで戻る事さえある。
今だに腕立て伏せを5回しかできない男に、果たして荒事が務まるのかどうか。
「そのつもりだ。だが、仮に戦時となった折には、前線には出さん。あくまでも後方支援を任せるつもりだ」
「つうかさ、アイツは木槌持つと強くなるじゃん。生まれ変わったみたいにさ。そっちの人格で育てないのか?」
「それを彼奴が望んでおらぬ。あくまでも大工は暮らしを豊かにする存在であり、凶事に関わるべきではない、と考えているようだ」
「贅沢言ってるように聞こえるぞ。普段の姿を見ているから尚更だ」
オレは正論を言ったつもりだが、心を揺さぶった手応えはない。
オッサンは無言のまま両手で湯を掬い、顔を雑に洗った。
そして水気を払うと、おもむろに話を切り出した。
「かつて領内の村に魔獣が押し寄せた事があった。村の様子はというと、たまたまトガリが居合わせただけで、守りきれる戦力など付近には無かった。このままでは子供などが連れ去られ、喰らいつくされてしまう。進退窮まったトガリは、木槌を用いて村を守った。村人からは感謝され、大いに賞賛されたが……トガリは泣いて悔やんだ。父祖から受け継いだ道具を血に染めてしまった、と」
「それがショックだったのか。でも多くの命を助けられたんだから、良かったじゃねえか」
「人の心とは簡単には割り切れぬ。数えきれん背景が、経験が、願望が複雑に絡み合っているものだ。1の次は2と言えるほど整然とはしておらん」
「それもわからなくは……ねぇけどさ」
「ともかく、それに触れてやるな。トガリは全力を尽くしている」
オッサンがそう言い残して風呂から出て行った。
大量の飛沫、そして落ち込んだ水かさが、彼の体格の良さを物語っている。
……誰しも才能に恵まれてる訳じゃねえぞ、アンタみたいにさ。
去りゆく背中を眺めつつ、そう思った。
「さてと、オレもそろそろ出るか。腹減ったしな」
最後の男1本が湯船を立つ。
水かさはさっき程下がらなかった。
着替えて部屋に戻ると、既に人数分の料理が用意されていた。
大鍋からは食欲をそそる匂いが立ち上っている。
きっとすき焼きだろう。
卵も添えられてるから当たっているはずだ。
「うぅーん。美味しそうねぇ! こんな料理初めて見たわ!」
「姫さまぁ。これはこの宿名物料理の『じゃぶじゃぶ焼き』って言うんですよぉ。具材を溶き卵と一緒に食べるんですぅ」
「へぇぇ、じゃぶじゃぶ焼きかぁ。面白い名前ね」
クソ、まただ。
なんともむず痒い気持ちにさせられるが、つっこんで良いものか本当に迷う。
これはすき焼きなのか、しゃぶしゃぶなのか。
そもそもここは、日本文化に寄せてるのか、違うのか。
その辺りをハッキリさせたくて仕方がない。
「この輪切りのキュウリも美味しいね。しょっぱくて味が濃いけど、クセになりそう」
「これは確かー、ヌタキュウリって言うんでしたっけねぇ」
「ぬか漬け、ぬか漬けだろこれ……」
「うん? ミノル、何か言った?」
「あ、いや。独り言だ、忘れてくれ」
とうとう心の小箱が容量オーバーし、言葉が溢れてしまった。
もしかすると、そろそろ限界なのかもしれない。
楽しい旅行だっていうのに……変なストレスが溜まってんな。
俯き気味なオレとは対照的に、みんなは食事を堪能したようだ。
箸は一時も休む事なく、大鍋を空にしてしまう。
それからは頃合いを見計らったようにして、女将が全ての食器を1度で片付け、寝床の用意もしてくれた。
程よい距離をとって、3対2の並びとなる。
頼んだわけでもないのに気が利いてると思う。
「そうですか、いよいよ何ですね……」
「何がだ、シンシア?」
「お父さん、お母さん。今夜私は大人になります……、ミノルさまの手によって」
「報告に付け加えとけ、今のは誤報だってな」
くんずほぐれつ、とか無い。
健全に、極々自然に眠る事となる。
カタカタカタッ。
寝静まった部屋に妙な気配が現れた。
何かを揺すってるような音がする。
古びた旅館で心霊現象?
それもまんまじゃねぇか、このヤロウ。
カタッガタガタガタッ!
押し入れの方だ。
あの意味深なお札は実用的な物だったらしい。
ガタンッ。ゴゴゴゴゴゴ!
「夜中にうっせぇ! 寝かせろボケェ!」
ピタリと物音が止んだ。
日本人相手にはクレームが有効だが、それはここでも同じだったらしい。
つうか日本だろここ。
懐かしさや親しみよりも、八つ当たり気味な怒りの方がずっと強く感じる。
それも睡魔によって一時的にウヤムヤになったが。
そして翌朝。
身支度を整えたオレたちは、宿の入り口に集まった。
昨日と寸分変わらない姿の女将が見送りにきてくれた。
「じゃあ、オレたちは帰る。世話になったな」
「お楽しみいただけたのでしたら、私どもの無上の喜びでございます」
「いやぁ絶品だったわよ、じゃぶじゃぶ焼き! またよろしくね!」
「ええと、じゃぶじゃぶ……? 昨晩お出ししましたのは、スキヤキという料理でございましたが……」
衝撃が走る。
まるで脳天に雷でも落ちたかのような衝撃に、目眩を覚えるようだった。
その直後には例えようのない感激が追いかけてきた。
「だよな、スキヤキだよな! キュウリはぬか漬けでいいのか!?」
「ええ……左様でございます」
「昨日の夕方に鳴いてた虫の名前は!?」
「ヒグラシ……の事でございましょうか?」
「そうだよな、そうだよなぁ! あぁーー良かった! すっげぇ気持ち悪かったんだよーッ」
天に向かって手を伸ばす。
視界に映るのはうす暗い天井だが、確かに青空が見えた。
「あの、お客様。何かお気に障ることがございましたか……?」
「大丈夫よ。彼はなんというか、繊細なの。独り言も結構激しいし」
「まぁ……。お若いのに、大変苦労をなされているのですね」
「やぁースッキリした。じゃあ女将、ありがとうな!」
「は、はい! またのご来店を心待ちにしております」
身軽だ。
心も体も驚くほどに軽い。
まるで地面から足が浮き上がるほどに。
リフレッシュするとこんなにも人間は変われるものなのか。
……次の休みも絶対に来よう。
宿一番の上客になることを目指して、オレは足しげく通う決心を固めるのだった。
そして、置いてきぼりを食らったような顔をする連れ合いについては、説明なんかせずに無視する事にした。




