終わりと始まり
サクヤから「俺たちGOIのヒーローだよ!本当に行かないの?」と国之常立神撃破、そして新世界の誕生を盛大に祝うイベントに誘われたが、私は丁重に断った。
サクヤと別れ、安らぎの灯火でログアウト、と呟いた瞬間、全てが消えた。
エコーロケーションが消えた。
緑色の線が描いていた世界の輪郭が、跡形もなく消えた。
残ったのは、いつもの暗闇だけだった。
――
ヘッドギアを外す。
部屋の空気が、頬に触れた。
夏の夜の、少しだけ湿った空気。
私はしばらく、ベッドの上で動けなかった。
天井を見上げても、そこには何もない。
光もない。輪郭もない。ただ、深くて均一な暗闇だけがある。
八歳の頃から、ずっとそうだった。
でも今夜は、その暗闇が以前と違って感じられた。
重くない。
これまで、暗闇はいつも重かった。息が詰まるような、出口のない重さがあった。
でも今夜の暗闇は、ただそこにあるだけだ。
私はゆっくりと身を起こし、窓を開けた。
鈴虫の声が、一気に近くなった。
リンリンリン。リンリンリン。
こんなにも、鮮明に聞こえていたんだ。
夜の空気を、深く吸い込む。
草の匂い。土の匂い。どこか遠くで咲いている金木犀の、かすかな香り。
足の裏が、床の木目の感触を拾い上げている。
体重をかけるたびに、板が微かに軋む音がする。
目が見えなくても、こんなにも世界は満ちている。
音に。匂いに。温度に。
(……ずっと、あったんだ。全部)
私はただ、目を向けていなかっただけだ。
見えないことを言い訳に、感じることから逃げていた。
部屋に閉じこもって、外の世界を遠ざけて、暗闇の中で縮こまっていた。
でも今夜の私には分かる。
あの最果ての秘境で、何も見えないまま戦い続けた私には分かる。
暗闇は、敵じゃない。
暗闇の中にも、世界はちゃんとある。
感じようとすれば、届いてくる。
(……逃げてたのは、世界じゃなくて、私だった)
私は考えるより先に、部屋を飛び出していた。
階段を駆け降りる。
広い廊下を抜け、玄関をガラッと開く。
祖母のいる離れへと足を運ぶ。
「おばあちゃん」
離れの扉を叩き、中にいるであろう祖母へ声をかける。
数秒の沈黙ののち、祖母の凛とした声が届いた。
「……なんだい」
「稽古を、つけてほしいんです」
今度は先ほどよりも長い沈黙だった。
「……何を言うかと思えば、そんなことできるわけないだろう」
離れの中で、足音が遠ざかるのがわかった。
「お願いします」
足音が止まる。
「目が見えない者に、稽古などできるわけがないだろう」
「見えなくても、やれます」
「できるはずがない」
「できます」
自分でもびっくりしていた。
こんなにも大きな声が出ることに。
「おばあちゃん。私ね、ゲームの中で、ずっと薙刀を振ってたんです。何も見えないまま。暗闇の中で、何十体もの敵と戦って、世界で誰も倒せなかった神様を倒したんです」
祖母は何も言わない。
「おばあちゃんに叩き込んでもらった型が、ずっと体の中にあった。目が見えなくなってからも、型の練習だけは続けた。それで戦えた」
まだ沈黙が続く。
「だから、もう一度だけ。現実で、おばあちゃんの前で振りたいんです。一度だけでいいから」
地球が、静まり返った。
そんな気がした。
やがて、衣擦れの音がした。
「……明日の朝、五時に道場へ来なさい」
足音が遠ざかっていった。
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
――
翌朝、踏み慣れた道場に私は立っていた。
袴の帯を自分で結んだ。
久しぶりで上手くできなかったけど、なんとか形にはなった。
足の裏に伝わる、板張りの冷たい感触。
古い木材の匂いが混ざり合っている。
薙刀を両手に持つ。
ゲームの中とは違う。
現実の薙刀は、ずっと軽い。頼りないくらいに軽い。
重みも、重心も、全てが違う。
エコーロケーションはない。
システムの補助もない。
警告音も、HPバーも、ダメージエフェクトも、何もない。
だけど、それ以外がある。
視力以外の全てが私にはある。
「……時間通りだ。始めようか」
祖母の声がした。
道場の向こう側。
おそらく五メートルほど離れた場所に立っている。
その気配が、空気の密度として伝わってくる。
「はい」
「手加減はしない」
「いりません」
短い沈黙。
「構えなさい」
私は中段に構えた。
空気が動いた。
――来る!
足音が正面から届く。
板張りを踏む、微かな振動が足の裏から伝わってくる。
右から。上段。
体が動いた。
左へ半身を開き、薙刀の柄で受け流す。
カン、と乾いた音が道場に響いた。
祖母の動きが止まった。
一瞬だけ。
でもその静寂に、私には確かに祖母の驚きが感じ取れた。
すぐに次が来た。
今度は左から、横薙ぎ。
それを再び柄で受ける。
そのまま右足を踏み込み、祖母の側面へ薙刀を当てる。
寸止め。
道場が、静かになった。
祖母の呼吸だけが聞こえた。
「……次だ」
低い声が、静寂を割った。
今度は速い。連続の打ち込み。上、右、左、下。
避ける。受け流す。潜る。踏み込む。
全部は捌けない。肩を打たれた。脇腹を打たれた。
痛い。
現実の痛みは、ゲームとは違う鈍い重さがある。
祖母は手を緩めない。
視力のない孫にも一切の手を抜かない。
その精神力が強くもあり、哀しくもあった。
「っ!」
足がもつれた。
膝が板張りに落ちる。
薙刀が、手からこぼれた。
コロン、と薙刀が転がる音が道場に響いた。
静寂。
私は膝をついたまま、荒い息をついた。
両腕が震えている。脚が笑っている。
床に落ちた薙刀を手探りで拾い上げ、私はゆっくりと立ち上がった。
「おばあちゃん、私ね。ずっと逃げてたんだと思う。見えないことを理由にして、外に出るのも、人と関わるのも、おばあちゃんと向き合うのも、全部避けてきた」
私は続けた。
「でも、もう逃げたくない。見えない私のまま、ここに立ちたい。おばあちゃんの前で、ちゃんと薙刀を振りたい」
道場が、しんと静まり返った。
鈴虫の声も聞こえない。風も吹かない。
祖母の息遣いだけが、すぐそばにある。
やがて。
大きくて硬い手が、私の頭にそっと置かれた。
ゴツゴツとした、鍛錬の証の手のひら。
何も言わない。言葉は、何もない。
ただ、その手の重みだけが、私の頭に静かにあった。
私は、うつむいた。
視力を失ってから、枯れてしまったと思っていた涙が、頬を伝った。
道場の板張りに、小さな染みが落ちた。
しばらく、二人とも動かなかった。
朝の光が、窓から差し込んでいる気配がする。見えないけれど、分かる。温かい朝だと。
やがて、祖母の手が静かに離れた。
衣擦れの音。祖母が少し離れた気配がした。
「もう一度、構えなさい」
祖母の声は、相変わらず低く重厚だった。
でも、その奥に。
これまで一度も聞いたことのない何かが、ほんのわずかに滲んでいた気がした。
私は涙を拭い、薙刀を構えた。
震える手で。濡れた頬で。
それでも、真っ直ぐに。
口元に、笑みが浮かんでいた。
自分でもそう分かるほど、自然に。
視力を失ってから、初めて。
暗闇の中で、祖母の前で、私は笑っていた。
「……おばあちゃん」
「なんだい」
「薙刀って、やっぱり楽しいね」
道場が静かになった。
長い、長い沈黙。
やがて、低く重厚な声が、ほんのわずかに揺れた。
「……そうだね」
朝の光の中で、薙刀を構えた私に向かって、祖母がゆっくりと踏み込んでくる。
来る。
私は動いた。
見えない目で。
暗闇の中で。
笑いながら。




