第一話 『音の消える夜』
世界から、一瞬だけ音が消えた夜のことを、まだ覚えている。
それが夢だったのか、現実だったのか。
今でもたまに分からなくなる。
ただ、その夜を境に、世界は少しずつ壊れ始めた。
◆
午前一時三十七分。
机の上に置いたデジタル時計だけが、やけに明るかった。
ワンルームの狭い部屋。
白い壁。
散らばったコード。
小さなMIDIキーボード。
開きっぱなしのノート。
ヘッドホンを外す。
耳の奥に、まだ残響が残っていた。
「……こんなもんか」
小さく呟いて、DAW画面を見つめる。
タイトル欄。
――『夜を越える前に』
カーソルが点滅している。
これで何曲目だったか、もう覚えていない。
再生数なんてほとんど伸びない。
コメントもほぼ付かない。
それでも、曲を作る時だけは少しだけ呼吸が楽になった。
窓の外では、遠くを走る車の音がする。
コンビニの白い光。
夜の湿った空気。
机の端に置いてあった缶を手に取る。
シュワシュワサイダー。
プルタブを開けると、小さな炭酸音が静かに弾けた。
ひと口飲む。
ぬるくなっていた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく呟く。
昔からの癖だった。
アプリを開く。
アカウント名。
“K”
投稿画面には、誰にも届いていない曲が並んでいた。
再生数、二桁。
それでも消そうとは思わなかった。
この曲だけは。
『夜を越える前に』
投稿ボタンに指を置く。
一瞬だけ迷う。
理由は分からない。
ただ、胸の奥が少しざわついた。
「……まあ、いいか」
タップ。
アップロード完了の表示。
その瞬間だった。
――ブツッ。
音が消えた。
「……え?」
エアコンの音。
外の車。
冷蔵庫の振動。
全部。
何も聞こえない。
世界そのものが停止したみたいな静寂。
呼吸だけが異様にうるさい。
視界が微かに揺れる。
耳鳴り。
ノイズ。
白い砂嵐みたいな感覚が頭を掠めた。
そして――。
ブツッ、と。
世界の音が戻る。
エアコン。
車。
遠くの電車。
いつもの夜。
「……は?」
思わず立ち上がる。
スマホを見る。
投稿は正常に完了していた。
再生数は、まだ0。
部屋も変わっていない。
でも、妙だった。
何かが、ほんの少しだけズレたような。
そんな感覚だけが残っていた。
◆
翌朝。
教室に入った瞬間、足が止まった。
「……あれ」
違う。
何が、とは言えない。
でも、違う。
黒板横の掲示物。
窓際の観葉植物。
クラスの座席。
全部、ほんの少しだけ違和感がある。
昨日こんなのあったか?
「永瀬? どうした?」
クラスメイトに声を掛けられて、我に返る。
「いや……別に」
自分の席に座る。
胸の奥が落ち着かない。
スマホを開く。
動画アプリ「WAVE」
『夜を越える前に』
再生数が、思ったより伸びていた。
…とは言え、まだ三桁にも届いてない。
でも普段より明らかに速い。
コメントが一件。
『なんか怖いくらい泣けた』
知らないアカウント。
その一文だけなのに、妙に指先が冷えた。
「……なんなんだよ」
小さく呟く。
その時。
窓際から視線を感じた。
顔を上げる。
女子生徒がこちらを見ていた。
長い黒髪。
白い肌。
光を薄く反射する灰青色の瞳。
静かな目だった。
彼女は顎先に人差し指を当てたまま、じっとこちらを見ている。
見覚えがある気がした。
でも思い出せない。
彼女はすぐに視線を外し、窓の外へ向き直った。
それだけなのに、妙に胸がざわつく。
◆
放課後。
コンビニ帰りの廊下。
ビニール袋の中で、シュワシュワサイダーの缶が小さく鳴った。
窓の外は夕暮れ。
オレンジ色の光が床を伸びている。
立ち止まる。
やっぱり変だった。
朝からずっと。
世界の輪郭が少しだけズレている。
「……なんなんだよ、今日」
「それ、初めて?」
後ろから声。
振り向く。
朝の女子生徒。
静かな目。
白いカーディガン。
長い黒髪が夕焼けに溶けていた。
「……誰」
「朝霧澪」
彼女は小さく名乗った。
そして、少しだけ目を細める。
「大丈夫?」
その言葉に、なぜか心臓が止まりそうになる。
「……は?」
「まあ、そんな顔するよね」
澪は窓の外を見たまま呟く。
まるで、もう何度も見てきたみたいに。
そして。
「……今回は、まだ軽いね」
静かに、そう言った。




