30.言葉を尽くしても
処置室に戻ったとき、朋子は叱られた子どものような顔でベッドに横たわったまま指をいじくっていた。
「お父さん、なんだって?」
「お母さんのこと、心配してただけ」
少しほっとしたように、朋子はふぅと息を吐いた。
点滴が終わったタイミングで、一度店に戻ることにした。タクシーを呼んで店に戻り、残っていた後片付けをしなくては。
「朋子! 無事か!」
シャルルが、足を土埃で汚しながら二足歩行で走ってくる。忠実な犬のようだが、今日はシャルルをからかっている余裕はない。
「あら~シャルルったら泥んこにして」
そうは言いつつ、朋子は目をうるませてシャルルを抱きあげた。
「シャルルが、外にいるわたしたちを呼んでくれたんだよ。足が汚れるのもいとわずにね」
「ありがとね。でもちょっと疲れがたまっていただけだから心配しないで」
シャルルのわきの下に手を入れて、高い高いをしている。犬の次は赤ちゃんか。シャルルも、やめろと口で言いつつ、どこか嬉しそうだった。
……孫がいたら、こんな感じになるのだろうか。
その姿を見ることができないかも、と思う。まだ29歳だから、どうなるかわからないけれど。いや、もう29歳か。
雑念を取り払うように、結心は大きな声をあげる。
「お母さん、しばらく店休もう。ゆっくり休んで、病院にも行こう」
改めて、母を説得する。
「大丈夫だって」
結心の顔を見ずに、朋子はふてくされた様子でシャルルに触れている。
めずらしく、こんなに言葉を尽くしてお願いしているのに。どうしてわかってくれないんだ。なにをどう言ったら、気持ちをわかってくれるんだ。
もっともっと、言葉を尽くさないと。うまく言えなくても、言わないと。
「怖いのはわかるけど、とりあえず一通り見てもらって、大丈夫ならまたやれば……」
結心がしつこくすがると、朋子はきっと結心を見て、不真面目な笑顔を浮かべた。
「どうせ検査したところで、大したことないって! それに……もう充分長生きしたし、やりたいこともやれたし。もうどうなってもいいわ。老いて結心の世話になるのも申し訳ないし、ここで終わるなら終わっちゃえばいいのよ」
思いもよらぬ投げやりな言葉に、結心は言葉を失う。
還暦前で、十分生きただなんて……。まさか朋子の口から、そんな投げやりな言葉が出るとは思わなかった。何をしてでも百まで健康に生きる! って言うタイプだと思っていたのに。
「おい、朋子……」
シャルルが、おろおろと結心と朋子を交互に見る。
結心の心の中で、さまざまな感情が渦巻く。
たくさんの言葉が心に浮かんで行く中で、一番は「元気に長生きしてほしい」だ。
もっとお母さんのことが知りたい。分かり合えないかもしれないけど、話したい。ずっとずっと、いっしょにおにぎり屋をやりたい。
なぜその気持ちを分かってくれないんだ。
言葉を尽くしても、気持ちが伝わらないなんて思ってもみなかった。




