29.全員人見知り
救急車を呼ぶな、と苦しそうな表情で言う朋子。大したことはない、休めば大丈夫だと言ってきかない。仕方なくタクシーを呼び、あらかじめ電話をしておいた救急外来に連れていった。
診断結果を聞くと……「おそらく、過労が溜まっている中で長時間屋外に立っていたから倒れたのでは。軽い脱水状態です。血圧も高めでした」とのことだった。後日かかりつけ医に相談し、詳しい検査をするように、と付け加えて当直の若い医師は処置室から去った。
「もー、大げさなのよ。ちょっとふらついただけ。それにしても点滴ってすごいわね。なぜか元気が出る!」
処置室のベッドの上でいつものように元気そうに振舞う朋子。店の床に倒れていたとは思えないほどだ。
点滴が終わるのを待つ間に、与志光も到着した。青ざめた顔をしてすぐに到着したところを見ると、やはり長年の夫婦なのだとわかる。
「まー、お父さんにまで連絡して! 大袈裟ね!」
「そんな風に言うな」
与志光に叱られ、朋子は口を尖らせる。
物心ついたときから風邪をひいた姿すら見たことがない。結心にとっては処置室の小さなベッドに横たわり、点滴に繋がれる朋子の姿はあまりに現実味がない。目の前の弱弱しい中年女性と母が結びつかない。
医師は、血圧が高く他の病気についても検査を受けることを勧めていた。楽観視していい状況ではない。
「今度、ちゃんと検査しよう」
「しない。店休めないもの」
「でも……」
「大したことないって。還暦前後ともなれば誰だって具合のひとつやふたつ悪いものよ」
ああもう、どうして素直に検査してくれないの。そもそも、お母さんが倒れなければ、今頃聡さんと三社祭に行けたのに。体調を崩すのは仕方ないけど、だったらせめてこれ以上心配かけさせないように歩み寄ってくれてもいいんじゃないの?
言いたい言葉が湧いてくる。でも弱っている親を前に言う言葉じゃないと思って、ひとつ深呼吸。言わなくちゃいけない言葉はこれじゃない。
心配していることを言葉で伝えなくちゃ。
「お医者さんが一応検査したほうがいいって言ってたよ」
結心の心を知らず、朋子はぷいとそっぽを向く。
「そりゃそう言うわよ。あとで重大な病気を見逃した! って言われたくないから」
「でも血圧も高いって」
「だから、年取ったら誰でも多少は高いって……」
「いい加減にしろ!」
与志光が厳しい声を出し、検査を受け入れない朋子を怒る。その姿に、結心も朋子も目を丸くした。
夫、というよりも会社の上司のような厳しい顔で、与志光は朋子を見つめている。
「結心が心配して言っているのに、さっきからなんだその態度は。だからオレは反対したんだ。飲食店を経営するなんて並大抵のことじゃない。自己管理ができないならやめちまえ。検査もしたくないし店もやめたくないっていうなら、離婚だ」
口を挟む間も与えずにそう言い切ると、与志光は立ち上がる。
止めるでも言い返すでもなく朋子はただぽかんとして、与志光の後ろ姿を見送った。
「え、ちょっとお父さん」
結心は朋子に「お母さんは休んでて」と声をかけて、与志光のあとを追った。
救急受付口から病院の外に出ると、与志光は所在なげにぼんやりと立っていた。救急車が出入りするようなロータリーでぼーっとされても困るので、結心は父を促して少し離れたベンチに腰かける。
緑が豊富で、赤・ピンク・白の花が咲くツツジの植栽が、道路からの目隠しになっていた。
「珍しいね、お父さんが怒るの」
与志光はしばらく黙ったあと、表情を歪ませた。
「母さんの離婚宣言はどうせその場の思い付きだろうが、オレは違う。検査しないなら本当に離婚だ」
「そこまで……」
「そこまで言わないと受け入れないだろ。母さん病院嫌いだから」
朋子が病院に行った話はほとんど聞いたことがない。もともと体が強くて風邪もひかないし体のどこかを傷めることもなかった。
健康診断も受けていない。介護職をしていたとはいえパートだったため健康診断の対象外にもなっていたことを幸いに、自治体の健康診断も受けずに今まできた。
それほどまでの病院嫌いに検査を受けさせるための離婚のカード。朋子が、飲食店をやりたいがために使った手法を、夫からとられるとは。
「オレは飲食店なんて反対だったんだ」
与志光は両手を組んでうつむき、足先をじっと見つめた。
「そこまで反対するなにかがあったの?」
「……飲食店経営っていうのは、過酷なんだよ。休みが取れない。病院に行く暇もない、それでいて常にお金の心配ばかり。それで死んだヤツが身近にいた」
言葉数少なに、与志光は語る。
「そっか。だから反対してたんだ」
「少しやれば、すぐに飽きるか音を上げると思ってた。賃貸の店だともいうし。だが、こうなってもなお店を休まないと言うなら、脅しつけるしかない」
言っていることは過激だが、与志光の愛情が感じられた。
「店をやめろとは言わないんだね」
結心の言葉に、与志光は一瞬動きを止めたあと、ゆっくりうなずいた。
「楽しそうだからな、母さんも結心も」
「わたしも?」
与志光はうなずくと、結心の顔を見た。久しぶりに、父の顔を見たなと思う。もうすぐ還暦なのだと実感する事も多い。でも今は、結心が幼いころの30代の父の笑顔に見えた。
「3月に結心が実家に戻るって言いに来たとき、よっぽどなことがあったんだろうなって思うくらい、元気がなかった。……いや、小学生中学生くらいから、ずっと晴れない顔をしていたような気がする」
ちょうど、小学校で朋子のマネをしたことで嫌われ始めた頃か。見ていないようで、案外よく見ていたんだ。そう思うと、心が温かくなる。
何があったのか聞かれたことはない。父にも母にも。でも、バレバレだったようだ。
「でも、今はなんだか晴れた顔をしている。よっぽど飲食店が肌に合っているんだな」
「飲食店、というか。あのお店だから、かな」
もし、普通の飲食店で働いたとしたらこうはいかなかったと思う。長屋カフェの人々がいて、地元の客がいて。そして朋子が切り盛りしている店だから。そのすべてが噛み合ったからこそ、結心も働き甲斐があって楽しいのだと思う。
「結心は母さんのこと苦手だからな」
親のことが苦手。思っていてもけして口にしてはならないことだと思っていたけれど、与志光はするりと言葉にした。
「……バレてたの?」
「結心はオレに似ちゃったから、母さんのキャラがしんどいっていう気持ちはわかる」
その言葉に、結心はぷっと吹き出してしまう。
「お父さんもしんどいときあるの?」
「あるだろ。声が大きいし、しつこいし」
苦々しい顔の与志光を見て、結心はふふっと笑う。
「でも、店をやるとあれがちょうどいいんだよね。お客さんも、大きな声で歓迎されるとホッとするみたい」
はじめての客は特にそう。赤いのれんをくぐりながら不安な表情で来店するものの、朋子の声で笑顔になることが多い。
「珍しい。結心が母さんの肩を持つなんて」
「一緒に商売をやっていたら、イヤでもお母さんのすごさがわかるから。でも、もうそれで卑屈になったりしないよ。逆にわたしみたいな大人しい人の需要もあるってわかったから」
オーディション番組に参加中の加賀悠飛から「結心に話を聞いてほしい」と言われたこと。そして大輝から「沈黙は金チーム」と言われたことが、励みになっている。
明るく元気な人じゃないと必要とされない……というわけではないとわかっただけで、生きていてよかったとすら思った。
「結心も、もう30か」
「残念ながら、結婚も孫も期待しないでください」
恋愛も結婚も、うまくいきそうなビジョンが見えない。
ふと、聡の顔が浮かぶ。一番ビジョンが見えない人。いつまでここにいるのかすらわからない。まったく、アラサーにもなって面倒な人を好きになってしまったものだと自嘲する。
「母さんはどういうか知らないが、オレは婿や孫ができたところで人見知りして構うことはないからどっちでもいい」
「孫に人見知りするの?」
「他人だからな。みんながみんな、孫を可愛がって年金をつぎ込むじぃじになれるわけじゃない。期待されても困る。だから、お互い好きに生きよう」
あんまりヘンなヤツが家族になるのは困るけどな、と付け加えたが、それ以上は語らなかった。
「まったく、わたしもお父さんに似ちゃったから困る」
与志光は、うん? と首を傾げる。
「オレだけじゃない。ああ見えて母さんも人見知りだからな」
「お母さんが? どこが」
誰に対しても人懐っこい朋子が、人見知りなわけない。しかし与志光は、わずかに首をかしげたままちらりと病院のほうに視線を向ける。
「オレや結心とは違う方面だが……。勘違いされやすいんだよ、しつこいくせに、言うべきことを言わないから」
「たとえば、どんなこと?」
そうだな、と与志光は青い空を見上げる。
「うちの豚汁の具材、すっごく細かいだろ」
「うん、噛むのが疲れるからって言ってた」
「疲れると言ったのは母さんじゃなくて、結心だ」
唐突に自分の名を出され、結心は目を丸くする。そんなことを言った覚えはない。
「たしか……小5くらいか。根野菜が苦手で疲れるって言ったときから、豚汁はずーっと具材が小さい。それから、おかかチーズおにぎりもよく作ってもらっていただろう。それも、小さい頃は食が細かった結心が、おやつ感覚で食べられるようにって考えて作ったものらしい。それを言えばいいものを言わない。でも、言わなくていいことをしつこく言う。そういうタイプの……今っぽく言うとコミュ障ってやつか?」
オレたち全員人見知り過ぎるな、と言って、与志光はふんと鼻で笑った。
気がついたら、30歳目前。いろいろ勘違いしたまま、ずいぶんと大人になってしまった。
後は任せた、と言って与志光は立ち上がる。先に、ひとりで帰るようだ。
父の決意を聞いて、母の考えが変わればいいんだけど……と、結心は頑固な似たもの夫婦を思ってわずかに笑みをこぼした。




