虚無の苦痛
思い出すことさえおぞましい、忌まわしきあの記憶。
歪みきった──。嘲笑う人間共の顔。
怒りや憎しみなんて感情は無く、ただ恐怖のみが己を支配していた。
あの出来事のせいで俺の人生は────
「───っ、はぁ………はぁ………はぁ……………」
悪夢で飛び起きた俺は、胸を押さえ荒い呼吸を整えようとした。
昨日の夜、ちゃんと薬は飲んだ。なのに………。
稀にこういった事がある。冗談抜きでやめてほしい。
この薬は最上級に効く物のはずだ。医者にもこれ以上の物は無いと言われている。
それを上回る程のトラウマ………。
「すぅ……………はぁ……………すぅ……………はぁ……………はぁ…………………………やっと、落ち……ついてきた、か……」
時刻は午前5時。
だいぶ早くに起きてしまったようだ。
「……………」
悪夢を見る度に、時々過ぎ去ったはずの記憶が蘇る度に思うのだ。
「あれからだいぶ経つっていうのに………」
あの時の記憶は、トラウマはまだ俺を苦しめるのかと。
いつ解放されるのか。解放される時は来るのだろうか。
何の目的も持たず、苦痛を持って生き続けて何になるのかと。
目的を持たずに生きること自体悪いことじゃない。それで楽しく暮らせているのはいい事だと思う。
けれど俺はそうじゃない。何の楽しみも無く、己の体を生かす為だけに金を稼ぐ日々。
特に楽しいことがある訳でも無く、あったとしても結局は過去のもので今のものじゃない。思い出として保管され、あの時は楽しかったなって一瞬だけ浸ったり。時にはそれを虚しく思ったり。
そのせいかあまり笑わず、愛想が無い人と思われる事が多い。
けれど笑って誰かに媚びたり、別に面白い事がある訳でも無いのに何故笑う必要があるのだろうか。
媚びるのは嫌いだ。自分を偽ってるみたいで。我慢して相手に合わせて、笑顔で騙す。
とどのつまり、生きていても楽しくないのだ。
楽しいことがあったとしても、今まで生きてきた時間に比べれば一瞬。
積み重なったとしても苦痛に比べてしまえば、圧倒的に少ない量だろう。
ただ、虚しく生きていく。
俺はベッドから立ち上がり、身支度をすませるとメモを机に置き外に出た。
「………また来ちまったな」
1人で何も考えたくない時、俺は境界の先──ちょうど村と街の中間辺りに来る。
適当な岩の近くに座り、もたれかかる。
すると岩陰から小さな影が現れ、俺の上に乗ってきた。
「みゃあ」
「元気してたか?……まぁ餌はあげられねーけど、それでもよかったらゆっくりしてくれ」
「みゃあ、みゃあ!」
「はは……」
ここら辺に住んでいる子猫たちだ。
初めて会った時から俺に懐いてきた。
親猫も近づいてきて、頭を撫でてやると嬉しそうな様子で隣に座った。
空を見上げる。まだ薄暗い。
こうして空をじっと見ていると、余計なことが浮かばないから楽だ。
このゆったりとした時間だけは、自由になれる。忘れられる。
素直になれる。
それからどれくらい経ったのか──
「こんな所で何してんのよ」
「うわぁっ!?
……俺の声にびっくりして、逃げちまったじゃねーか」
「気配でって……そっか、アオトって親しい人程気配に気づきにくいんだったわね。
今みたいにリラックスしてると余計」
「んで、何の用だよ」
「それが──」
* * *
「少し出かけてくる……って、全然少しじゃないじゃん」
掃除、見回り、その他やる事全て終わってしまった。
暇で暇で仕方が無い。
このまま帰ってもいいのだけれど……もちろんそんなことはしない。
だって……アオトと会えないままなんて……………。
ガチャ、と扉が開き急いでさっきの思考を消す。
「ちょっと遅かったじゃない!いったいどこ行って……」
「………寝る」
「え?寝るって、なんで……それより何してたのよ、こんな時間まで」
「街の方を護ってる亜人に呼ばれたんだよ。暴動が起きそうで、1人で止めるにはあれだからって。
着替えるから部屋入ってくんなよ。
………あと、帰りたかったらもう帰っていいぞ。起きたら全部やっとくから」
彼は疲れた様子でそう言うと、パタンと扉を閉めた。
「………な、なんか納得いかない……」
疲れているから寝るっていうのはいい。
態度が少し冷たく感じるのも、疲れているから仕方ないって。
でも、なんだかモヤモヤしてこのまま帰りたくなかった。
せっかく会えたのに……今日はこれでお別れなんて───
「わ、私は何を考えて……別にアオトと話したい……訳じゃ………………はぁ……」
……自分に嘘はつけない、か。
椅子に座ってみたり、時計を眺めたり。
意味の無い行動ばかり。
心が落ち着かなくて、じっとしていられなかった。
ここにある本はなんだか難しくて、私には分からない物ばかり。
「そうだ、アオトの部屋なら何かあるかも」
一応コンコンと軽くノックし、ゆっくり部屋に入る。
「勝手に本借りて読むの………良くない、よね」
アオトに近づき、小声で本借りるねと言おうとした。
──彼の寝顔、初めて見た。
昨日アオトは机に突っ伏して寝ていたけど、私とは逆の方を向いていたから残念ながら寝顔は見れなかった。
彼の寝顔は年齢より幼く見えた。どこか可愛らしくて、子どもっぽくて。
表情が柔らかく、優しい顔をしている。
「いつもこんな風に素直だったらいいのに」
ふふっと思わず笑みを浮かべてしまった。
なんだか私ものすごく、変態……みたいな。
「………ん……………………」
彼は寝返りを打ち、昨日と同じく私とは反対の方を向いてしまった。
これ以上彼を見続けるのは……と、立ち上がろうとする。
ふと、布団から出ている尻尾が気になった。
「寝てる間も動いてる……自分の意思で動かしてる訳じゃないのかな」
布団を軽く捲り、そっと尻尾に触れた。
尻尾は驚いたようにフワッと動いた後、私の手の上に。
「ふわふわぁ…………」
優しく何度も撫でる。
この手触りが気持ち良い。
そして私は気持ちの勢いのまま、軽くぎゅっと握ってしまった。
「ぷぎゃっ!」
彼は今までに聞いたことの無い、可愛らしい悲鳴をあげた。
* * *
いきなり尻尾から背中にかけて衝撃が走り、自分のものとは思えない変な声を出して目が覚めた。
「ご、ごめん!痛かった?
起こすつもりはなくて………本当にごめん!!」
ベッドの前で頭を下げるノエル。
ノエルが俺の尻尾を握ったんだな……。
「はぁ……頭上げろって。
お前、俺の尻尾触っただろ」
「うっ……その、気になっちゃって………。
布団から出てるのが目に入って……前から触ってみたかったし…………それで…………」
「……あのな、軽く握ったつもりだろうがすごく痛いんだよ。
他の亜人もそうだが、基本耳とか尻尾は大事な部分なんだ。
それ以前に勝手に触るな」
「うぅ……ですよね…………本当に──」
「あぁ、もう謝罪はいいから。
……………………」
また嫌な事を思い出してしまった。
決してノエルのせいではない。
けど………。
「そ、そんなに嫌だった?………って当たり前、だよね…………」
「……っ、そうじゃねぇよ。
今度からしなければいいだけの話だから」
「でも……」
「その先はお前の自己満足だぞ」
「……じゃあ、なんでそんな辛そうな顔をしているの?」




