26話 Bー88
終礼の鐘はとっくに鳴っていた。
窓の外は、夜の帷が降りていた。
「……”別の系統”って、なんですか?」
私は、かすれる声で尋ねた。
「いや……分からない。だが、契約魔導とは違う何かだ」
所長は低く言った。
「……何の、魔導ですか?」
「そこまでは、特定できない。……だが拘束は成立している。……今のところ問題はない」
——今のところ……
やってしまったことは、もう取り消せない。
部屋の空気が重く沈んだ、そのとき——
ドアがノックされた。
反射的に体が強張る。
「入るぞ」
イリアだった。
ほっと息を吐いた。
「ヴェーラ師。今日中に八十八人終わったと聞いて、驚いた」
「イリア師……こちら、ドミトリ契約魔導師事務所の所長です」
イリアの目が所長を捉えた。
そして、その目が鋭く光った。
「ドミトリ元中佐。お噂は聞いています」
「イリア師。パーヴェル部長から話は聞いている」
イリアの方が少し背が高いが、二人が並ぶとそれだけで圧倒されそうだった。
二人の視線がぶつかり、次の瞬間、二人はがっしりと握手をした。
「ヴェーラを頼む」
「昨日は、危険な目に遭わせた。謝罪する」
二人はふっと笑った。
「いや魔導素中和弾を提案したのは貴官だと聞いている」
「ヴェーラ師の短縮詠唱がなければ、危なかった」
「良いバディだ」
所長はイリアの肩を叩いた。
良かった……
その二人の様子を見てほっとする。
でも、シルニキ詠唱の問題はどうしよう?
「イリア師……今朝、局長が仰っていたこと覚えていますか?」
「グロモフ局長……? 定型をなぞるだけでは、先がないというやつか?」
私は首を振った。
不安に目が潤む。
「気にするな。あれは局長の口癖だ」
「違うんです……シルニキをかけてみよ、の……ほうです」
「ああ、言ってたなって、まさか、シルニキのレシピをかけたのか……?」
私はうなずいた。
イリアの目が見開いて、次の瞬間、笑った。
「はははッ!! それは局長、大喜びだぞ!」
「でも、謎の別系統の魔導みたいなんです……問題になりませんか?」
「拘束契約はかかった。問題はないはずだ」
所長が肩をすくめた。
「昨日の魔狐と魔熊にかけたシルニキのレシピを刻んだんだな?」
イリアの目が輝いた。
「それは、その蛮族、シルニキを作れるようになるかもしれないぞ」
「魔導陣からは、出せないか、さすがに」
所長はうなずいた。
そして、イリアは話し出した。
「粉とチーズは魔導力学で生成できるものではない——ひとつの可能性はレシピが持つその言霊の力——レシピというものは今まで数えきれない人間が作ってきた人類のいわば、叡智の結晶——幾千と毎日作られるシルニキの工程は、強力な因果律を持っている——それは再現性の塊であり、それを魔導回路に直接刻まれたその蛮族がシルニキを作り出すということは、魔導学論的にあながち間違ってはいない。いや、それより——」
「イリア師……もしその蛮族が美味しいシルニキを作れるようなれば、軍にとって良いことですよね?」
私がそう聞くと、イリアはひどく残念そうな顔をした。
なんだか、深刻に考えすぎていたのが、バカらしいと思ったとき——
部屋のドアがノックされた。
「ヴェーラ師! Bー88について確認したい」
「……キリル師。お久しぶりです」
「87までは正常だ……」
私はまた緊張した。
心臓が跳ね上がる。
所長とイリアが面白そうに顔を見合わせた。
「まずは、この魔像を見てもらう。これは、なんだ?」
「……シルニキのレシピです」
「見ればわかる。なぜレシピが定着する?」
「……分かりません」
キリルの端正な顔が、目に見えて落胆の表情に変わった。
二人の魔導師を見る。
「ドミトリ師、イリア師。これはどういうことだ?」
「……局長の指示だ」
イリアが肩をすくめた。
「グロモフ局長……さもありなん」
キリルが納得したようにうなずいた。
「見てくれ、ここにも例の魔導陣がかかっている」
「例の魔導陣……何か、分かったんですか?」
所長もイリアもその言葉にキリルを見つめた。
「古代魔族語に近い……これは、オフレコだが……」
「……魔族語!? 魔導係数が高い魔族でしか使えないはず」
所長が驚きの声を上げた。
頭上で飛び交う言葉に、私はついていけなくなっていた。
「魔像解析では、この魔導陣の展開のときだけ、魔導係数9を切っている」
「9!!」
「……ありえん」
それは、魔族の魔導係数の数値。
ということは……?
「解読はできたのか?」
所長が聞いた。
「古代魔族語は資料が少ない。まだ解読はできない」
キリルが首をふった。
「だが……この情報は危険だ……」
キリルの端正な顔が苦痛に歪んだ。
「私が、握り潰す」
「確かに知られたら最悪……火炙りだ」
「……」
私、魔族なの……?
「でも……私、魔族じゃないです」
「分かってる」
所長が力強くうなずいた。
「ヴェーラは、人間だ」
「……ありがとうございます」
その言葉に救われた。
だけど、不安は消えなかった。
「この魔像は、私が消去する」
キリルは覚悟を決めたようにつぶやいた。
「上層部には『計測器の故障』と伝える」
「……恩に着る」
所長もその覚悟を受け取った。
「ヴェーラ、お前は何も心配しなくてもいい。この数値を見たのは、ここにいる俺たちだけだ」
「このシルニキのレシピの魔導陣を隠蔽する魔導を、かけなくては……」
イリアがつぶやいた。
やっぱり大変なことになってる……
血の気が引いてくる。
「Bー88だが、拘束はかかっている。シルニキにも反応している」
キリルが話を戻した。
「だが、何かがおかしい」
「何が問題になる?」
所長が聞き返した。
そのとき、部屋の向こうにただならぬ気配がした。
魔導を通していないのに、左手がビリビリと震える。
「……来たな」
イリアがつぶやいた。
そして扉が開いた。
「ヴェーラ! 何が起きた?」
まず、血相を変えたパーヴェルが入ってきた。
その後ろに局長の巨大な体。
一瞬で空気が、凍りついた。
背を丸めて部屋に入るその巨体に、所長の後ろに隠れてしまいたかった。
「Bー88……」
その黒い瞳が、私を射抜く。
「実に素晴らしい」
グロモフ局長がゆっくりと口を開いた。
「あれは——」
局長の口角が上がった。
「均衡を壊す存在だ」




