第45話 『満月の約束、雨のホーム ― 呼ばれなかった名(The Moon)』
星は囁く。
名前は、ただの音ではない。
誰かを呼ぶための声であり、
誰かを忘れないための祈りでもある。
呼べなかった名前は、消えない。
胸の奥に沈み、
月の裏側で冷たくなり、
それでも、いつか呼ばれる日を待ち続ける。
満月の夜。
雨のホーム。
古いノート。
言えなかった一言。
そのすべてが、閉じられた記憶の底で息をしていた。
澪はまだ知らない。
自分の中に、別の声が眠っていることを。
シオンはまだ知らない。
自分がその声を、何度も通り過ぎてきたことを。
けれど、月は知っている。
呼ばれなかった祈りは、
今もなお、シオンの言葉を待っている。
⸻
Ⅰ. 月の深層
月の奥は、雨の匂いがした。
濡れた鉄の匂い。
古い紙が湿った匂い。
冷えたコンクリートに染み込んだ夜の匂い。
ここは現実じゃない。
そう分かっているのに、足元から伝わる冷たさだけが妙に生々しかった。
オレは、銀色の水面の上に立っていた。
一歩踏み出すたび、波紋が広がる。
その波紋の中に、いくつもの景色が沈んでいた。
小さな祠。
満月。
幼い澪。
幼いオレ。
角の潰れた古いノート。
隣には、シオリエルがいた。
アクア・ギアの羽衣が、淡い月光を含んで揺れている。
その光は鋭くない。
刃ではない。
盾でもない。
沈んだものを、壊さずにすくい上げるための水。
そんなふうに見えた。
「……ここが、澪の記憶の奥か」
オレが呟くと、シオリエルは静かに頷いた。
「はい」
その声は、水面に落ちる雫のように澄んでいた。
「ですが、これは澪だけの記憶ではありません」
「どういう意味だ」
「あなたにも、触れています」
その瞬間、右目の奥がずきりと疼いた。
熱い。
目の裏側にある閉じた扉を、内側から押されているような痛みだった。
「っ……」
思わず右目を押さえる。
星の国。
黒いシオン。
閉ざされた記憶。
澪の涙。
何かに近づくたび、右目が警告する。
思い出すなと拒んでいるのか。
思い出せと叫んでいるのか。
まだ、分からない。
シオリエルが、オレの腕にそっと手を添えた。
その手は冷たかった。
けれど、確かにここにある温度だった。
「シオン」
「……大丈夫だ」
「その言葉で、ご自身まで閉じ込めないでください」
返す言葉を失った。
大丈夫だ。
それは、誰かに渡すための言葉だったはずだ。
なのに今は、自分の痛みを押し込めるために使っている。
シオリエルは、水面の奥を見つめた。
「澪の記憶が、開こうとしています」
「……止められないのか」
「止めることはできます。けれど、それはもう一度、彼女の声を沈めることになります」
「それは、駄目だ」
即答していた。
自分でも驚くほど、はっきりと。
シオリエルは少しだけ目を伏せた。
「はい。だから、進むしかありません」
その声は静かだった。
けれど、静かすぎる声だった。
まるで、彼女自身もまた、開いてはいけない扉の前に立っているみたいに。
「シオリエル」
「……本当は」
彼女の指先が、ほんのわずかに震えた。
「もっと早く導けたなら、よかったのかもしれません」
「え?」
「ですが、封じられた名は、無理に呼べば魂を裂きます。澪も、あなたも」
彼女は唇を結んだ。
「だから、待つしかありませんでした。本人が、その痛みに触れられる時を」
待つしかなかった。
それは優しさなのか。
残酷さなのか。
今のオレには、まだ分からなかった。
水面の向こうに、古いノートが浮かんでいた。
表紙は雨を吸ったみたいに波打っている。
端は擦り切れ、角は潰れていた。
開かれたページには、幼い字が並んでいる。
――こんや、しおんが、ほしのくにのはなしをしてくれる。
――たのしみ。
――しらないいきものや、きいたことないまちのはなし。
――まんげつのよる、またきかせて。
「星の国……」
声が漏れた。
覚えていない。
オレは、澪にそんな話をした記憶なんてない。
なのに、胸の奥だけが先に反応した。
忘れた歌の続きを、身体だけが覚えているみたいだった。
「……なんでだよ」
そのとき、水面の向こうから声がした。
「これ……私の字だ」
澪だった。
現実の姿のまま、銀色の水面の上に立っている。
手には、あのノート。
指先が細かく震えていた。
「覚えてないのに……分かる。これ、私が書いた」
澪の視線が、最後の一文で止まる。
――まんげつのよる、またきかせて。
その文字を見た瞬間、澪の瞳が揺れた。
「また……」
たった一言。
それだけで、水面が大きく波打った。
遠くで、鈴が鳴る。
りん。
しおぽんの鈴に似ていた。
けれど、今のシオリエルには鈴はない。
この音は、彼女から鳴ったものではない。
もっと古い。
もっと深い。
星の国そのものが、眠りの底で身じろぎしたような音だった。
シオリエルの星霊眼が、静かに細められる。
「開きます」
「何が」
「澪が閉じた記憶です」
月が、水面へ沈んだ。
冷たい光が足元からせり上がる。
呼吸が白く曇る。
世界が反転した。
オレたちは、満月の夜へ落ちていった。
⸻
Ⅱ. 満月の祠
湿った土の匂いがした。
苔むした石段。
葉の裏に溜まった夜露。
古い木の幹から立ち上る青い匂い。
そこは、昔の祠だった。
木々の隙間から、丸い満月が見えている。
月明かりは白く、石段の端を濡らすように照らしていた。
幼い澪が、ノートを抱えて走っている。
「シオン、早く!」
「待てって! 転ぶぞ!」
その後ろを、幼いオレが追いかけていた。
胸が、きつく締めつけられる。
「……オレだ」
間違いなく、幼い頃のオレだった。
少し乱れた髪。
負けず嫌いそうな顔。
でも、澪の前ではどこか格好つけたがる目。
見覚えがある。
見覚えがあるのに、思い出せない。
それが、ひどく気持ち悪かった。
幼い澪は祠の前に座ると、すぐにノートを開いた。
「今日は星の国の続きでしょ?」
「なんでそんなに楽しみにしてんだよ」
「だって、シオンの話、面白いもん」
「当たり前だろ。オレが考えたんだから」
「本当に考えたの?」
「本当だって」
幼いオレは胸を張った。
けれど、その横顔は少し照れていた。
澪はくすっと笑って、鉛筆を握る。
「忘れないように書くの」
「そんなの、書かなくても覚えてられるだろ」
「嫌だ」
澪は、少しだけ真剣な顔で言った。
「忘れたら、もったいないもん」
その一言で、今の澪が息を呑んだ。
「覚えてる……」
声が震えていた。
「私、ここで……シオンの話を聞いてた」
澪の手の中で、ノートが淡く光る。
幼いオレは空を見上げた。
「星の国にはさ、言葉が光になる木があるんだ」
「言葉が?」
「うん。本当に大事な言葉だけ、星みたいに光る」
「じゃあ、シオンの言葉も光る?」
「光るに決まってるだろ」
「自信あるね」
「だって、オレの言葉は強いからな」
幼い澪は笑った。
「じゃあ、私の言葉は?」
幼いオレは、すぐには答えなかった。
月明かりが、二人の間に落ちている。
祠の木が風に揺れて、葉擦れの音がした。
少し考えてから、幼いオレは照れくさそうに言った。
「澪の言葉は、水みたいに光る」
「水?」
「うん。冷たい水じゃなくて……触ると、ほっとするやつ」
幼い澪は、きょとんとした。
それから、頬を赤くして、急いでノートに書き込む。
――わたしのことばは、みずみたいにひかる。
今の澪の目から、涙が落ちた。
「……嬉しかった」
澪が、ぽつりと言った。
「私、これを言われて、すごく嬉しかったんだ」
胸が痛んだ。
オレは、その言葉を覚えていない。
なのに、幼いオレがそれを言った瞬間の照れくささだけは、喉の奥に残っている気がした。
白い空間に、細いひびが入る。
月光が揺れた。
幼い澪が空を指差す。
「シオン、見て!」
夜空の端が白く燃えた。
巨大な光が、満月のそばを横切る。
流れ星ではない。
夜空そのものを裂くような、大きな彗星だった。
尾は狐の尻尾みたいに長く、星屑をまき散らしながら空を渡っていく。
光の粒が、祠の屋根に降る。
肌に触れると、冷たいのに、少しだけ温かい。
「すごい……」
幼い澪が息を呑む。
幼いオレも、言葉を失っていた。
風が止まった。
虫の声も消えた。
世界中が、その光を見ているみたいだった。
「ねぇ、名前つけようよ」
澪が言った。
「またかよ」
「いいじゃん。私たちだけの名前」
澪は少し考えてから、笑った。
「あれ、“ほしのしっぽ”」
「まんまじゃないか」
「分かりやすくていいでしょ」
幼いオレは笑った。
「じゃあ決まり。ほしのしっぽ」
「絶対忘れないでよ?」
「忘れるもんかよ」
その言葉が、夜に落ちた瞬間。
祠の鈴が鳴った。
りん。
音は一度だけだった。
なのに、その余韻は長く伸びて、月の裏側まで届くようだった。
幼い澪が、幼いオレの袖を掴む。
「シオン……?」
幼いオレは震えていた。
怖かったのだと思う。
でも、澪の前だから、すぐに言った。
「大丈夫だよ」
今の澪が、両手で口元を押さえた。
「昔から……」
涙がこぼれる。
「昔から、そう言ってくれてたんだ」
オレは何も言えなかった。
その言葉は、今のオレにとっても特別な言葉だった。
配信で、何度も届けてきた。
誰かの痛みに触れるたび、最後に差し出してきた。
大丈夫だよ。
でも。
その言葉を、澪にいつから言っていたのか。
なぜそんなに自然に言えたのか。
オレは覚えていなかった。
光が爆ぜた。
祠が消える。
満月の夜がほどける。
そして、星の国が現れた。
⸻
Ⅲ. 星の国の記憶
そこは、見たこともない世界だった。
けれど、知らない場所ではなかった。
群青の空を、無数の星が泳いでいる。
白い石畳の道が、どこまでも続いていた。
崩れかけた建物の壁には、星座の紋様が淡く浮かんでいる。
草花の葉先から、小さな光の粒がこぼれていた。
甘い匂いがした。
花の匂いに似ている。
でも、それだけじゃない。
焼けた砂。
古い本。
朝露。
祈りのあとに残る、静かな空気。
そんなものが混ざった匂いだった。
幼い澪は、目を輝かせていた。
「すごい……!」
幼いオレは、明らかに怖がっていた。
けれど、澪の前だから必死に胸を張る。
「ほ、星の国……だな」
「シオンが話してたところ?」
「たぶん」
「たぶん?」
「オレだって初めて来たんだから仕方ないだろ!」
澪が笑う。
「やっぱりシオンの方が怖がり」
「怖がってねぇし!」
「じゃあ手、震えてるのは?」
「寒いだけ!」
今のオレは、胸を押さえた。
知らないはずの景色が、先に心臓を締めつける。
石畳を踏む感覚。
空の色。
風の冷たさ。
遠くで響く、鐘のような音。
知っている。
オレは、この場所を知っている。
「……なんなんだよ」
右目が疼いた。
景色が二重に重なる。
崩れかけた街の上に、壊れていない星の国が一瞬だけ重なった。
光に満ちた広場。
星の旗。
祈るように膝をつく人々。
誰かが、オレを呼んでいる。
――……様。
聞こえない。
呼び名だけが欠けている。
まるで、そこだけを誰かに削り取られたみたいだった。
「またかよ……」
右目を押さえる。
息が浅くなる。
シオリエルが隣で立ち止まった。
「シオン」
「聞こえないんだ」
「……はい」
「誰かが呼んでる。なのに、そこだけ削られてる」
シオリエルは答えなかった。
その沈黙が、答えの代わりだった。
広場の中央には、巨大な銀の樹があった。
幹は月光を固めたように白く、枝葉には星の果実が実っている。
風が吹くたび、果実から光の文字がこぼれ落ちた。
幼い澪が、ぽかんと口を開ける。
「きれい……」
幼いオレも、言葉を失っていた。
大樹の下に、女性が立っていた。
銀色に薄く紫が溶けたような髪。
星屑を含んだ瞳。
白い衣。
月の光をまとったような姿。
彼女は、こちらを見て微笑んだ。
知らない。
知らないはずなのに、胸が引き裂かれそうになる。
「……誰だ」
女性の唇が動く。
――アリ……
そこで音が途切れた。
世界に白いノイズが走る。
視界の端に、読めない文字が滲んでは消える。
【――復元を――】
【接続――遮断――】
【Ari――】
文字は途中で潰れた。
「今の……」
オレは息を呑んだ。
「今、何て言った」
シオリエルが目を伏せる。
「シオン。その名は、まだあなたには届きません」
「なんでだよ」
声が荒くなる。
「澪は思い出してる。なのに、なんでオレだけ……!」
「澪の記憶は、澪自身が閉じたものです」
シオリエルは静かに言った。
「けれど、あなたの記憶は違います」
「違う?」
「あなたの記憶は、星の国そのものの封印に触れています」
意味は分からなかった。
でも、その言葉が嘘じゃないことだけは分かった。
幼い澪と幼いオレは、銀の大樹へ近づいていく。
大樹から、声なき声が降り注いだ。
『忘れるな』
幼い二人が顔を上げる。
『星は言葉を宿し、言葉は魂を導く』
光の文字が、二人の周囲を舞う。
澪が手を伸ばす。
幼いオレも、恐る恐る指を伸ばした。
その指先が光に触れた瞬間。
空が黒く裂けた。
風が、腐った鉄の匂いを運んできた。
甘かった星の匂いが、一瞬で焦げ臭くなる。
幼い澪が叫ぶ。
幼いオレが、澪の手を握る。
「澪!」
「シオン!」
二人の瞳から、星の光がこぼれ落ちた。
それは、忘却ではなかった。
奪われている。
記憶のページを、無理やり破り取られるように。
言葉の根を、爪で引き抜かれるように。
幼い澪が泣き叫ぶ。
「やだ! 忘れたくない! シオンの話、忘れたくない!」
幼いオレが叫ぶ。
「澪、手、離すな!」
「離さない!」
けれど、黒い光が二人の間に落ちる。
手が離れた。
満月の光が反転し、白い世界が二人を飲み込む。
その奥で、誰かの声がした。
『まだ、思い出してはいけない』
澪の声に似ていた。
でも、澪ではない。
もっと古い。
もっと深い。
千年の夜を知っている声だった。
⸻
Ⅳ. 雨のホーム
景色が変わった。
雨のホームだった。
夜の駅。
濡れた線路。
蛍光灯の白い光。
遠ざかる電車の赤い尾灯。
雨粒が屋根を叩いている。
ぱたぱた。
ざあ、と強くなり、また弱くなる。
湿った空気が肌に張りついた。
線路からは、錆びた鉄と油の匂いがした。
澪は、そこに立っていた。
幼い頃より少し成長した澪。
制服は雨で濡れ、髪の先から雫が落ちている。
手には、あのノート。
ページが開いていた。
――満月の夜、もう一度。
――シオンへ。
その先は、雨で滲んで読めない。
ホームの向こうに、シオンの背中があった。
振り返らない背中。
過去の澪は、口を開いた。
「シ……」
声が出ない。
電車の音が、言葉を飲み込む。
雨が、名前を消していく。
待って。
行かないで。
もう一度、星の国の話をして。
どれも言えなかった。
過去の澪は、ノートを抱きしめる。
肩が震えている。
そして、泣きながら願った。
――忘れたい。
――呼べなかったことを、忘れたい。
――満月の夜も、星の国も、全部。
今の澪が、膝から崩れ落ちた。
「私が……」
声が震える。
「私が、閉じたの……?」
雨は止まらない。
ホームの床に落ちた涙は、雨と混ざって分からなくなった。
そのとき。
雨の中に、もう一人の澪が立っていた。
同じ顔。
同じ声。
けれど、その瞳だけが違っていた。
澪のものではない。
満月より遠く、
星の国より古く、
待ち続けた者だけが持つ、静かな壊れ方。
澪は震えながら問いかける。
「あなたは……誰?」
もう一人の澪は、すぐには答えなかった。
ただ、雨のホームを見つめていた。
呼べなかった少女。
振り返らなかった背中。
雨に滲んでいくノート。
その全部を、ずっと見ていたような目だった。
「私は」
ようやく、その声が落ちた。
「あなたが壊れないように、沈めた声」
澪の喉が小さく鳴る。
「私……なの?」
「あなたでもある」
「違う」
澪は首を振った。
「あなたは、私だけじゃない」
その言葉に、もう一人の澪の瞳が揺れた。
雨粒が、空中で止まる。
一粒一粒の雨の中に、白い文字が浮かんだ。
Ariette.
澪は息を呑んだ。
「アリ……エット……?」
その名を呼んだ瞬間、もう一人の澪の表情がわずかに歪んだ。
それは間違いではない。
けれど、今ここにいる彼女を呼ぶには、あまりにも遠い名だった。
祈りだった名。
失われる前の名。
まだ傷になる前の、やわらかな響き。
雨に濡れた文字が、水たまりの中で反転する。
Ariette.
波紋が広がる。
文字がほどける。
水の中で裏返る。
祈りだった名が、傷の名へ変わっていく。
Eteiya.
澪の唇が震えた。
「エテイヤ」
その瞬間、世界が静かに軋んだ。
雨音が止まる。
電車の音も、風の音も、すべて消えた。
白いホームの中央で、もう一人の澪がゆっくりと目を閉じる。
その表情は、救われた者の顔ではなかった。
ようやく見つけられてしまった者の顔だった。
オレの右目が焼けた。
銀の大樹。
崩れる星の国。
血のような星砂。
伸ばされた手。
泣きながら微笑む王妃。
そして、声。
――また、会えるから。
誰だ。
誰なんだ。
分からない。
分からないのに、胸が裂けそうだった。
澪は自分の胸を押さえていた。
「知らない……」
声が震えている。
「知らない名前なのに、どうして……こんなに苦しいの」
もう一人の澪――エテイヤが、ゆっくりと目を開ける。
その瞳は、澪のものではなかった。
けれど、澪を壊そうとしている目でもなかった。
長いあいだ暗い場所で待ち続け、
怒り方も、泣き方も、忘れてしまった者の目だった。
その視線が、オレへ向く。
一度目は、祈るように。
「シオン」
胸が鳴った。
二度目は、縋るように。
「シオン」
喉が詰まった。
三度目は、責めるように。
「シオン」
オレは、動けなかった。
いつもなら、言えるはずだった。
大丈夫だよ。
その一言を、何度も届けてきた。
誰かが不安で震えている時。
誰かが自分を責めている時。
誰かが、明日を見失いそうな時。
オレは、その言葉を差し出してきた。
けれど、今だけは言えなかった。
その言葉を待ち続けて、壊れてしまった人の前で。
その言葉が届かなかった痛みそのものの前で。
同じ言葉を、簡単には差し出せなかった。
雨の止まったホームに、沈黙が落ちる。
シオリエルが、何も言わずにオレの腕を支えていた。
その手は冷たかった。
けれど、震えていた。
「シオン」
シオリエルの声が、細く響く。
「これは、あなたが聞かなければならない声です」
「……分かってる」
分かっている。
知らないふりをしてはいけない。
覚えていないから関係ないなんて、言ってはいけない。
オレは、ゆっくりと一歩前に出た。
靴音が、雨の消えたホームに響く。
エテイヤの瞳が、わずかに揺れる。
右目が焼ける。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「エテイヤ」
その名を呼んだ瞬間、世界のどこかで銀の大樹が軋んだ。
澪が息を呑む。
シオリエルが目を伏せる。
エテイヤは、静かにオレを見ていた。
オレは、もう一歩だけ前に出た。
「遅かったなら、今度こそ聞かせてくれ」
声が震えた。
けれど、逃げなかった。
「オレは、何を忘れた?」
エテイヤは、笑った。
泣く寸前のような顔で。
「……遅い」
その声は、澪の声で。
けれど、澪だけの声ではなかった。
「遅すぎるわ、シオン」
月の裏側で、千年待っていた声が、初めて名を持った。
⸻
次回
澪は、満月の夜を思い出した。
星の国を思い出した。
雨のホームで、呼べなかった名前を思い出した。
そして、その奥に眠っていた名を呼ぶ。
エテイヤ。
それは、澪の中に沈んでいた声。
アリエットへ繋がる祈り。
そして、シオンを待ち続けていた存在。
だが、シオンの記憶だけはまだ開かない。
「大丈夫だよ」
その言葉を、誰よりも待っていた人がいた。
そして、その言葉が届かなかった夜があった。
次回、
第46話
『呼ばれなかった祈り ― 大丈夫だよが届かなかった人』




